第2話 帳簿と外套
ソレイユ領の帳簿は、控えめに言って地獄だった。
領主館の机に積まれた黄ばんだ紙束。前任の代官が残した――というより、放棄した記録の山。数字は汚く、項目は抜け、日付すら怪しい箇所がある。
前世の上司が見たら卒倒するレベルだ。いや、前世の私でも卒倒しかけている。
「まず、全体を把握する」
誰もいない執務室で、私は独り言を言う癖がある。前世からだ。声に出すと思考が整理される。
帳簿を一枚ずつ捲り、項目を書き出していく。収入の柱は税収だが、人口三百人の辺境領では微々たるもの。支出は――なるほど、前任代官の「交際費」が収入の三割を食っている。
「横領じゃないですか、これ」
誰も答えない。蜜蝋の灯りが揺れた。窓の外はもう暗い。
いけない。定時を過ぎている。
初日から残業する気はなかった。が、帳簿の状態が想定外だった。つまり――いえ、そうではなく。どんな理由があっても、残業は残業だ。明日やればいい仕事を今夜やる理由はない。
前世で学んだ。「今日中に」は大抵、明日でも間に合う。
羽ペンを置いた。インク壺に蓋をする。ほこりっぽい室内に、枯れた薬草の甘い残り香がかすかに漂っている。この領地は、かつて薬草の産地だったらしい。
部屋を出ると、廊下で屋敷管理の老婦人マルタと目が合った。
「お嬢様、お夕飯の支度が」
「ありがとうございます、マルタさん。明日から、夕食は日没前にお願いできますか。日没後は休息の時間にしたいので」
マルタが目を丸くした。前の代官は夜遅くまで飲んでいたのだろう。
◇◇◇
翌朝。帳簿の解読を再開して三時間が経った頃、来客があった。
「代官殿。隣領のレーヴェン辺境伯がお見えです」
マルタの声に、ペンを置く。昨日の、あの簡潔すぎる男だ。
玄関を開けると、カイ・レーヴェンが馬を降りて立っていた。昨日と同じ簡素な軍服。背筋がまっすぐで、無駄な動きがない。
「定期の視察だ。隣領の代官が代わったと聞いた」
「昨日もいらしてましたよね」
「……ああ。それはそれとして、今日は正式な視察だ」
それはそれとして。何がそれで何がそれなのか、問い詰める気にはならなかった。
「よろしければ、帳簿をご覧になりますか。ご意見をいただけると助かります」
社交辞令のつもりだった。辺境伯に見せるほどの帳簿ではない。赤字まみれの恥を晒すようなものだ。
だがカイは「見せろ」と短く言い、執務室に入った。
机の上に広げた帳簿を、灰色の目が追う。ページを捲る指の動きが丁寧だ。数字を読む人間の手つきをしている。
沈黙が続いた。
「この項目の整理の仕方」
カイが帳簿の一角を指した。私が昨夜書き直した部分だ。収支を費目ごとに分類し、前年比を計算した箇所。
「……美しいな」
聞き間違いかと思った。
「え?」
「数字の組み方が整っている。前任の帳簿と筆跡も分類法も違う。これは昨夜書いたのか」
「はい。前の帳簿があまりにも――つまり、少し整理しました」
カイはしばらく黙って帳簿を見ていた。何ページも遡って確認している。その目つきが、どこか既視感のあるものだった。帳簿を初めて見る人間の目ではなく、確認する人間の目。
……気のせいだろう。辺境伯なのだから、帳簿くらい日常的に見ているはずだ。
「赤字の原因は特定できたか」
「前任代官の交際費が収入の三割です。あとは税の徴収漏れ。人口に対して課税対象の把握が雑で、実際の収入が推定値の六割しかない」
「六割。よく初日で把握できたな」
「帳簿を見れば分かることです」
「見ても分からない人間のほうが多い」
カイはそれだけ言って、帳簿を閉じた。
立ち上がって窓の外を見る。排水路の詰まった辺りに視線が向かっている。
「排水路の修繕、人手がいるなら言え。うちの技術者を貸す」
「……よろしいのですか」
「隣領の排水が詰まれば、雨季にこちらにも影響が出る。合理的な判断だ」
合理的。この人はすべてをその一言で片付ける。
視察が終わり、カイが馬に乗る。秋の風が強くなっていた。外套の裾が風に煽られて、マルタが外に干した洗濯物がはためく音がする。
「代官殿」
「セレナで結構です」
「セレナ」
名前を呼ぶ前に、一瞬だけ間があった。
「これを」
差し出されたのは、彼が着ていた外套だった。裏地が毛皮で、着古した質感がある。
「辺境の秋は王都より早く冷える。寒さで判断力が鈍ると、帳簿に間違いが出る」
それだけ言って、外套をこちらに押しつけ、カイは馬を返した。上着一枚で、風の中を去っていく。
受け取った外套は温かかった。革と、かすかに松脂の匂いがした。
帳簿に間違いが出る。
……それは、優しさではなく合理性の話なのだろう。たぶん。
外套を着て執務室に戻る。妙に肩が軽い。前世の職場で、こんなふうに心配されたことがあっただろうか。
なかった、と思う。いや、あったのかもしれないが、忙しすぎて気づかなかった。
帳簿を開く。松脂の匂いが鼻をかすめるたび、集中が一瞬だけ途切れた。
困る。帳簿に間違いが出る。
◇◇◇
その頃、王都では。
レオン王太子の社交スケジュールに、初めてのダブルブッキングが発生していた。
「殿下、本日のエンデル侯爵との茶会ですが、同時刻にノルド伯爵の晩餐会が入っております」
「何だと? セレナが……いや。誰が管理しているんだ」
「現在は侍従のハルトが引き継いでおりますが――」
レオンは舌打ちをした。
あの程度の仕事、誰でもできる。そう思っていた。思っていたのだが。
窓の外を、冷たい秋風が吹いていた。




