第1話 断罪と退職届
「セレナ・カルヴァート。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
大広間に、レオン殿下の声が落ちた。
シャンデリアの灯りが揺れている。いや、揺れてはいない。たぶん私の目が揺れているだけだ。
周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえる。衣擦れの音。誰かがグラスを置いた硬い音。マリス嬢が殿下の腕にすがりつき、目に涙を溜めている。
芝居がかっている、と思った。
前世の記憶がある。三十四年分の人生――いや、正確には二十八年と少し。日本の中堅メーカー、総務部第二課。毎日終電まで働いて、ある朝、駅のホームで視界が暗くなった。
それが私の一回目の人生の終わり方だった。
「聖女マリスを苦しめ、王家に背信を重ねた貴様を、私は許さない」
殿下が続ける。背信。何の背信だろう。三年間、この人の派閥の社交スケジュールを管理し、領地経営の報告書を書き、来客の手配をし、予算の帳尻を合わせてきた。
……いえ、そうではなく。
ここで大事なのは、その「背信」の中身ではない。大事なのは。
私はもう、この人の部下ではなくなるということだ。
口角が上がった。自分でも驚くほど自然に。
「承知いたしました」
大広間が静まり返る。殿下の眉が寄った。マリス嬢の涙が止まった。
泣き崩れる予定だったのだろう。あるいは命乞い。弁明。そのどれかを想定していた顔だ。
申し訳ないが、前世で退職届を三回書いた女を舐めないでほしい。
「三年間、お世話になりました。殿下のますますのご活躍を、辺境よりお祈り申し上げます」
完璧な微笑みと完璧なお辞儀。最後の業務だと思えば、この程度は造作もない。
踵を返す瞬間、誰かが小さく笑うのが聞こえた。笑ったのは私ではない。広間のどこか、遠い場所から。低い声だった。
◇◇◇
翌朝。カルヴァート伯爵邸の、私の部屋だったものの前に立っていた。
荷物はすでにまとめてある。仕事が速いのは前世からの取り柄だ。
「セレナ」
父の声は冷たかった。廊下の向こうから、こちらを見ようともしない。
「伯爵家の恥を、これ以上晒すな。辺境のソレイユ領の管理を任せる。二度と王都に戻るな」
管理を任せる。追放ではなく、体裁を整えた左遷。
前世の退職と同じだ。会社都合なのに自己都合退職にされるやつ。つまり――退職した翌日のオフィスみたいに、私の椅子はもうここにはない。
「承知いたしました、お父様」
喉が詰まりかけた。いや。詰まったのは、たぶん悲しみではない。
十九年間育った家を出るのだ。この廊下の、足が沈む絨毯の感触。朝食の焼き立てパンの匂い。母の部屋から漏れていた、もう聞こえないチェンバロの音。
自由になれる。もう残業もない、理不尽な上司もいない。なのに、足が重い。
……なんというか、退職の解放感と、荷物をまとめる寂しさは、両立するものらしい。前世で学ばなかったことを、ここで学んでいる。
荷物の中に、母の形見の首飾りを入れた。真珠と銀細工の小さなペンダント。売れば金貨五十枚にはなる。当面の運営資金だ。
それから、報告書の控えを入れた。この三年間、殿下に提出した領地経営の改善案。全部の控えがある。証拠は必ず残す。前世の総務部で叩き込まれた鉄則だ。
それから、家令のヨーゼフに引き継ぎ書を渡した。社交スケジュールの管理方法、帳簿の記帳ルール、来期の予算案の骨子。
「これさえあれば、誰でもできます」
ヨーゼフは困った顔で受け取った。七十を過ぎた手が、かすかに震えていた。
「……お嬢様。どうか、お元気で」
「ヨーゼフも。定時に帰ってくださいね」
意味のわからないことを言って、私はカルヴァート伯爵邸を出た。
◇◇◇
馬車に揺られること五日。
ソレイユ領に着いた時、最初に感じたのは匂いだった。枯れ草と、湿った土と、どこか甘い腐葉土の気配。秋の終わりの、どこか心もとない匂い。
領主館は、館というより小屋に近い石造りの建物だった。屋根の一部が傾いている。庭は雑草に覆われ、門の蝶番が錆びて閉まらない。
人口三百人の、小さな辺境の村。
「……これは」
想像より、はるかにひどい。
道に面した井戸は蓋が壊れている。排水路が詰まって、通りにぬかるみができている。畑の作付けは雑で、収穫効率が悪い。
帳簿も見ていないのに、赤字だと断言できる光景だった。
「代官の着任か」
振り向くと、馬に乗った男が一人。
背が高い。日に焼けた顔に、簡素な軍服。髪は短く、目は灰色。表情は――ない。能面のように平坦だ。
「隣領のレーヴェンだ。この辺りの治安を見回っている」
名乗り方が簡潔すぎる。レーヴェン。辺境伯家だ。北方の守りを担う軍事貴族の。
「セレナ・カルヴァートです。本日付で、ソレイユ領の代官を拝命しました」
「ああ。聞いている」
それだけ言って、彼は馬上から領地を見渡した。壊れた屋根。詰まった排水路。錆びた門。
沈黙が流れた。
同情の言葉が来ると思った。あるいは、苦笑い。「大変だな」くらいの社交辞令。
だが彼は何も言わなかった。ただ黙って、排水路の詰まりを見ていた。
「まず、排水路から直します」
私の口から出た言葉に、彼が初めてこちらを見た。
灰色の目が、わずかに動いた。驚き――ではない。何か別のもの。値踏み、でもない。確認、に近い何か。
「……変わった女だ」
それだけ言って、カイ・レーヴェン辺境伯は馬を返した。
私は壊れた門をくぐり、領主館の玄関――というには頼りない木の扉を開けた。
ほこりっぽい室内。傾いた棚。机の上に放置された、黄ばんだ帳簿。
開いてみた。
「……前世の部長が見たら泣くレベルの赤字だ」
深呼吸。枯れ草の匂いを吸い込む。
ブラック領地をホワイトに変える。まずは帳簿の整理から。定時退勤は、死守する。
前世で叶わなかった「定時に帰れる人生」を、今度こそ。




