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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section8:空間の幾何学と、指揮台の真実~

 音楽室の空気を完全に支配しているのは、ただ一つ。如月さんのブレザーのポケットから微かに、しかし絶対的な規則性をもって漏れ聞こえてくる、銀の懐中時計の秒針の音だった。


 チク、タク、チク、タク。


 先端に大量の鉛が仕込まれ、物理法則をねじ曲げてまで『本物のバット』として振り抜くために作られた凶器。その圧倒的な狂気の証明を前にして、壁際に縫い留められた五十人の吹奏楽部員たちは、もはや誰一人として声を上げることも、逃げ出すこともできなくなっていた。

 僕がデジタルの網の目から拾い上げた『廃材を使った悪戯』という安っぽい日常の仮説は、すでに跡形もなく消え去っている。ここにあるのは、たった一人の人間が、誰にも見られない密室の死角の中で、血を吐くような執念とともに鍛え上げた『殺傷能力を持った実用品』なのだ。


 しかし、純白の手袋をはめた如月瑠璃の鑑定は、まだ終わってはいなかった。

 彼女は、指揮台のカーペットの上に転がった数百グラムの鉛の塊を一瞥すると、ゆっくりと視線を落とした。彼女の透き通るようなアメジストの瞳が今捉えているのは、もはやバットに偽装された竹刀そのものではない。

 その凶器が、あえて『立てかけられていた』という事実。

 すなわち、この音楽室のど真ん中にポッカリと空いた空白の特異点――長方形の『指揮台』という空間そのものだった。


「モノのルーツは解き明かされた。ならば次は、この(うつわ)じゃ」


 如月さんは、静かな、しかし確信に満ちた声で呟いた。


「犯人は、あの短い死角の時間の中でこのバットを作り上げた。だが、それを持ち帰ることもなく、隠すこともなく、わざわざこの音楽室のど真ん中である『指揮台』の上に、これ見よがしに立てかけて去っていった。……なぜじゃと思う、サクタロウ」


「なぜって……それは、一番目立つ場所だからじゃないですか?」


 僕は乾いた唇を舐めながら、恐る恐る答えた。


「五十人の部員が半円状に囲む、この部屋の絶対的な中心です。そこに気味の悪い棒を置けば、全員の目に嫌でも入るし、合奏を妨害するという目的も果たせる。だからこそ、犯人はわざわざこの指揮台を選んだんじゃ……」


「ふん。事象の表面を撫でるだけの、退屈な推測じゃな」


 如月さんは、僕の言葉を冷徹に切り捨てた。


「犯人は、目立ちたいからここに置いたのではない。最初から『ここ』でなければならなかったのじゃ。この長方形の台座の上に、あのバットを置くという絶対的な必然性がな」


 彼女は指揮台から一歩降りると、僕の方へと振り返った。


「サクタロウ。お主のその鞄に入っている、便利な板切れを出してみよ」


「タブレットですか?」


「左様。それには確か、カメラのレンズを用いて、空間の距離や物体の寸法を測る機能が備わっておったはずじゃな」


「……AR計測アプリのことですね。LiDARスキャナが搭載されているので、数ミリの誤差で現実の空間のサイズを測ることができますけど」


「ならば、測るのじゃ」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、ダークグレーのパンチカーペットが張られた指揮台をビシッと指差した。


「メジャーなどのアナログな道具を探す手間は省いてやる。お主の得意なそのデジタルの目で、この『指揮台』という長方形の台座の寸法を、縦と横、正確に計測してみせるのじゃ」


 なぜ今、指揮台のサイズなど測る必要があるのか。

 僕には彼女の意図が全く理解できなかった。この学園の備品である以上、カタログに載っているような一般的な既製品のサイズに決まっている。それを測ったところで、犯人の手がかりになるような情報が出てくるとは到底思えなかった。

 しかし、彼女のその揺るぎない眼差しに射抜かれれば、僕に拒否権などない。

 僕は無言で頷き、鞄から再びタブレット端末を取り出した。ロックを解除し、ホーム画面からAR計測アプリを立ち上げる。

 画面がカメラの映像に切り替わり、画面の中央に白いデジタルの照準(レティクル)が表示された。


「測ります」


 僕はタブレットを両手で構え、指揮台の角へとレンズを向けた。

 月見坂市が莫大な予算を投じて構築したこの新校舎は、床の水平から壁の垂直に至るまで、建築学的な歪みが一切存在しない。そのため、タブレットのLiDARスキャナが放つ目に見えないレーザーは、瞬時に指揮台の平面の幾何学的なメッシュを正確に捉え、画面上に青いガイドラインを浮かび上がらせた。

 僕は画面をタップし、指揮台の左手前の角に『始点』のアンカーを打つ。

 そのまま、タブレットを平行にスライドさせながら、指揮台の奥行きに沿って歩を進めた。画面上で、黄色いデジタルの点線が伸びていき、リアルタイムで距離の数値がカウントアップされていく。

 奥の角に照準を合わせ、再び画面をタップして『終点』のアンカーを打つ。


「まず、縦の長さが出ました」


 僕は画面に表示された白い数値を読み上げた。


「一・二一メートル……約百二十センチです」


「続けて、横幅じゃ」


 如月さんの指示に従い、僕はそのまま指揮台の横幅に沿ってタブレットを動かした。同じように始点と終点のアンカーを打ち、デジタルの計測線を引く。

 画面上に、新たな数値がポンッとポップアップした。


「横幅は、一・五二メートル……約百五十センチです」


 僕はタブレットを下ろし、如月さんの方を見た。


「縦が一・二一メートル、横が一・五二メートル。カタログに載っているような、ごく標準的な学生指揮者用のステップ台のサイズです。センチメートル表記だと半端に見えますが、インチやフィートといった海外の工業規格をベースに設計された備品なら、よくある寸法ですよ。……これが、何か事件のルーツに関係あるんですか?」


 僕が尋ねると、如月さんはアメジストの瞳を細め、ひどく冷酷で、そして美しい笑みを唇の端に浮かべた。


「大ありじゃよ、サクタロウ。お主は今、そのデジタルツールを使って、犯人が仕掛けた巨大な『見立て』の輪郭を、見事に暴き出したのじゃ」


「見立て……? なんですか、それは」


「数字というものは、それが置かれた文脈によって全く異なる意味を持つ。縦一・二一メートル、横一・五二メートル。これはメートル法に直しているからお主のような凡人にはピンとこないかもしれんが、ヤード・ポンド法に換算すれば、極めて切りの良い、そして恐ろしいほどに『厳格な規則』に基づいた寸法となる」


 如月さんは、壁際で息を潜める五十人の吹奏楽部員たちを見渡し、そして再び、僕の顔を真っ直ぐに見据えた。

「縦、四フィート。横、五フィートじゃ」


「四フィート、五フィート……」


 僕はその数字を口の中で反芻した。しかし、それが何を意味しているのか、全く見当がつかない。

 如月さんは、僕の混乱をあざ笑うかのように、自らの持つ膨大な知識の引き出しから、一つの冷徹な事実を引きずり出した。


「お主は先ほど、あのテーピングの巻かれた竹刀の内部構造から、あれが『野球のバット』であると理解したな」


「はい。重心が先端に移され、本気で振り抜くために改造されていました」


「ならば、そのバットを握りしめた人間が『立つべき場所』の寸法を、公認野球規則のルールブックに照らし合わせて思い返してみるがよい」


 野球のルールブック。バットを持つ人間が立つべき場所。

 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、テレビのスポーツ中継などで見慣れた、ある明確な『白い線』の幾何学的な図形がフラッシュバックした。

 ホームベースの左右に、白いチョークで正確に引かれた、長方形の陣地。


 バッターボックスだ。


「まさか……」


 僕は、自分の口から出た声がひどく掠れていることに気づいた。タブレットを持つ両手が、じわじわと嫌な汗を掻き始めている。


「公認野球規則における、バッターボックスの正規の寸法。……それは、縦四フィート(一・二一九メートル)、横五フィート(一・五二四メートル)の、白線で囲まれた長方形の空間と定められておる」


 如月さんの声が、音楽室の冷えた空気の中を滑るように響いた。


「数ミリの誤差はあれど、今お主が計測したこの指揮台の寸法と、完全に一致しておる。……これが単なる偶然の一致だと思うか? バットを模した凶器が、バッターボックスと全く同じ寸法の長方形の台座の上に、わざわざ置かれていたという事実が」


 僕は、言葉を失った。

 背後の壁際にいた吹奏楽部員たちの中からも、息を呑む音や、「嘘だろ……」という震える声が漏れ聞こえ始めた。学生指揮者の先輩に至っては、自分の聖域であるはずの指揮台を、まるで見たこともない恐ろしい化け物でも見るかのように、顔面を蒼白にして見つめている。


 偶然であるはずがない。

 月見坂市の新校舎には、様々なサイズの備品がある。もう少し小さな踏み台もあれば、もっと巨大なステージ用の台座もある。犯人は、無数にある選択肢の中から、わざわざ『縦一・二メートル、横一・五メートル』という、バッターボックスと全く同じ寸法を持つこの指揮台を、意図的に選んだのだ。

 選んだだけではない。それを音楽室のど真ん中に配置し、その上にバットに改造した竹刀を立てかけた。

 それが意味するものは、あまりにも異常で、常軌を逸していた。


「理解したようじゃな、サクタロウ」


 如月さんは、純白の手袋で指揮台の縁をツーッとなぞった。


「犯人は、ただの嫌がらせで気味の悪い棒を置いたわけではない。この音楽室のど真ん中に、たった一人の人間が立つための『野球の陣地』を形成したのじゃ。バットを握りしめ、ボールを待つための、孤独で絶対的な特異点をな」


 僕は、その事実がもたらす『空間の意味の反転』に、猛烈な目眩を覚えた。

 この音楽室は、調和とアンサンブルのための空間だ。

 指揮台とは本来、五十人の奏者たちと呼吸を合わせ、無秩序な音を一つの美しい音楽へと導くための、オーケストラの中心である。

 しかし、バッターボックスは違う。

 バッターボックスとは、たった一人で白線の内側に立ち、時速百数十キロという暴力的な速度で飛んでくるボール――すなわち『敵意』と、完全に一対一で対峙するための、極めて孤独で闘争的な陣地なのだ。


 犯人は、この洗練されたスマートシティの音楽室のど真ん中に、バッターボックスという異質な概念を無理やり持ち込んだ。

 調和のための空間を、闘争と孤独の空間へと、幾何学的な寸法の一致を利用して強制的に『上書き(オーバーライト)』してしまったのだ。

 そのあまりにも巨大で、執念深い見立てのスケールに、僕は足の震えが止まらなくなった。

 ただの悪ふざけのイタズラ犯なら、こんな空間の概念まで捻じ曲げるような真似は絶対にしない。

 この指揮台にバットを立てかけた犯人の頭の中には、この音楽室の風景など微塵も映っていないのだ。犯人の目には、ここが土と白線にまみれた『グラウンド』にしか見えていない。


「なんてことを……」


 学生指揮者の先輩が、頭を抱えるようにしてうめき声を上げた。


「僕たちの音楽室を……僕が立つはずの指揮台を、そんな……野球のバッターボックスに見立てて遊んでただなんて……。狂ってる。完全に頭がおかしい人間のやることだ……!」


 先輩の言葉は、五十人の部員全員の心を代弁していた。

 彼らが最初に本能的に感じ取っていた『気味の悪さ』の正体は、まさにこれだったのだ。

 目に見える風景は美しい音楽室のままだが、空間のルーツが、見知らぬ狂人の手によって全く別のものへと書き換えられてしまっているという、根源的な『不協和』。

 その空間のバグのような気持ち悪さを、彼らの脳は敏感に察知し、本能的に壁際へと逃げ込んでいたのだ。


「遊んでいるわけではない。至極真面目に、そして切実な情動をもって、犯人はこの陣地を作り上げたのじゃ」


 如月さんは、怯える部員たちを一瞥し、冷たく言い放った。


「サクタロウ。寸法が一致しただけで、犯人の見立ての全てが解明されたと思うのは早計じゃ。この見立てには、まだ最も重要で、最も不可解な『物理的要素』が一つ抜け落ちておる」


「抜け落ちている要素……?」


 僕はタブレットを握りしめたまま、彼女の言葉の真意を探った。

 バットはある。

 バッターボックスもある。

 これ以上、野球の陣地として何が足りないというのか。


「考えてもみよ。バットを握り、バッターボックスに立つ。その行為は、決して自己完結するものではない。打者がそこに立つのは、必ず『ある存在』と対峙するためじゃ」


 如月さんのアメジストの瞳が、薄暗い音楽室の中で、ある一点を静かに見据えた。


「打つべきボールを投じてくる者。……すなわち『投手(ピッチャー)』の存在じゃ」


 ――ピッチャー。


 その単語が出た瞬間、音楽室の空気が完全に凍りついた。

 そうだ。バッターボックスは、ただの四角い枠ではない。それは常に、ピッチャーマウンドというもう一つの特異点と、直線で結ばれていなければならない。

 ピッチャーがボールを投げてこない限り、バッターボックスに立つ意味など全くないのだ。

 ならば、犯人は一体『どこ』から飛んでくるボールを打つつもりで、この音楽室のど真ん中にバッターボックスを形成したというのか。


「デジタルの板切れでの計測は終わりじゃ。ここからは、再びわしの出番となる」


 如月さんは、純白の手袋をはめた両手を軽く払うと、靴音を鳴らして一歩前に出た。

 そして彼女は、僕たち五十人が見守る中、その縦一・二メートル、横一・五メートルという『バッターボックス』の枠内へと、躊躇うことなく足を踏み入れたのだった。

 彼女が立つべき位置。そして、彼女が向くべき『視線の先』。

 空間の幾何学が解き明かされた今、物語のルーツは、さらに狂気的な情動の深淵へと僕たちを引きずり込もうとしていた。



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