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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section7:銀のルーペと、偽装された重心~

 完璧な調律によって巨大な静寂の空間と化した音楽室の中で、如月瑠璃の右手に握られた銀色のアイテムが、間接照明の柔らかな光を反射して冷たい輝きを放った。

 純白のシルク手袋に包まれた彼女の指先に摘み出されているのは、精巧な植物の蔦の意匠が彫り込まれた、折りたたみ式のアンティークの『銀のルーペ』だった。

 分厚い特注のクリスタルレンズを保護する銀のカバーには、先ほどまで彼女が使用していた懐中時計と同じく、長い年月を経て使い込まれた証である微かな黒ずみと、数え切れないほどの細かな傷が刻まれている。すべてがデジタル化され、最新の電子顕微鏡やスマートフォンのマクロ撮影機能などいくらでも手に入るこの月見坂市の新校舎において、あえてそんな時代遅れのアナログな拡大鏡を用いること自体、彼女がいかに『デジタルの網の目をすり抜けた、物理的な真実の直視』にこだわっているかを雄弁に物語っていた。


 如月さんは、先ほど僕のエア剣道によって『両手を密着させて握り込むバットのグリップ』であることが証明された持ち手部分から、竹刀の最も先端の領域――剣道で言うところの『剣先』へと、静かにそのアメジストの視線を移動させた。

 長さ一メートルと二十センチ弱。その長い棒のほぼ全体が、分厚い医療用綿包帯と非伸縮性のテーピングによって執拗にぐるぐる巻きにされ、異様な凹凸を作って膨れ上がっている。

 しかし、その執念深いテーピングの白い螺旋も、竹刀の最先端である『先革(さきがわ)』と呼ばれる革製のキャップを固定する、ほんの数センチ手前の部分でピタリと終わっていた。

 四つ割りの竹の先端を一つに束ねるための、筒状の分厚い革の部品。そして、それを固定するために竹刀の全長にわたってピンと張り詰められている『(つる)』と呼ばれる強靭な黄色い糸の結び目だけが、テーピングの暴力的な被膜から逃れ、古びた茶色い肌を辛うじて空気に晒していたのだ。


 如月さんは指揮台の上に身を乗り出し、一四七センチの小柄な体をさらに小さく折りたたむようにして、竹刀の先端部分へと銀のルーペを近づけた。

 壁際に張り付いたまま息を殺している五十人の吹奏楽部員たちも、隣で呆然と立ち尽くす学生指揮者の先輩も、そして僕も、彼女のその微動だにしない背中から発せられる圧倒的な緊張感に当てられ、乾いた唾を飲み込むことしかできない。

 先ほど、グリップのテーピングの巻き方と摩擦痕から、この棒が『野球のバット』として握られることを前提に作られていることは判明した。僕が導き出した『ただ人を驚かせるためだけのアート作品』という結論は、すでにその時点で大きく揺らいでいる。

 では、如月さんはさらにこの先端部分から、一体何を読み取ろうとしているのか。


「やはりな。どれほど入念に全体を偽装し、狂気的なテーピングで覆い隠そうとも、モノの構造に手を加えた以上、物理的な『矛盾』は必ず細部に露呈するものじゃ」


 数秒の沈黙の後、如月さんは銀のルーペから目を離し、パチンとカバーを閉じてブレザーのポケットに仕舞い込んだ。


「サクタロウ。先ほどお主は、証言とデジタルのログを照らし合わせ、これが武道場の裏から拾われた『廃棄物の竹刀』であると語ったな」


「……はい。備品のタグも外された、ただのゴミだったと聞いています」


 僕が答えると、如月さんは純白の手袋の指先で、竹刀の先端の革部品をトン、と軽く叩いた。


「ならば、お主のその常識の目で、この先端の革の結び目をよく見てみるのじゃ。武道場の裏で雨風に晒され、限界まで使い古されて捨てられていた古い竹刀の部品として、何か不自然な点はないか?」


 僕は恐る恐る指揮台に一歩近づき、如月さんがルーペで観察していた竹刀の先端部分に顔を寄せた。

 テーピングの境界線のすぐ先に露出している、古い茶色の先革。そして、それを固定している黄色い弦の複雑な結び目。

 確かに、全体的に革の表面は乾燥してささくれ立ち、長年の稽古で染み付いた黒ずんだ汚れが付着している。しかし、如月さんに言われて結び目の部分だけを注視すると、奇妙な違和感が僕の脳を刺激した。


「……弦の結び目が、妙に綺麗です」


 僕は、自分の目で読み取った物理的な事実をそのまま口にした。


「革の表面はボロボロに劣化して退色しているのに。この革を縛って固定している弦の結び目の一部だけが、毛羽立ちもなく、妙に黄色い色が鮮やかなまま残っている。それに、革が長年強く引っ張られてできたシワの跡と、今実際に弦が食い込んでいる位置が、ほんの数ミリだけズレている……」


「左様」


 如月さんは満足げに一つ頷いた。


「古い竹刀というものは、長年の激しい打撃の衝撃によって、革も弦も限界まで伸びきり、互いに強固に癒着した状態で形を固定させるものじゃ。廃棄されるほど劣化した竹刀であればなおさらな。しかし、この先端の結び目は違う。古い革のシワの記憶と、現在の弦のテンションが全く噛み合っておらん。長年結び目の重なった内側にあり、劣化や汚れを免れていた色鮮やかな部分が、不自然に外側に露出してしまっておる」


それはつまり、どういうことか。


「犯人は、この竹刀をゴミ捨て場から拾い上げた後……一度この先端の結び目を解き、革のキャップを丸ごと取り外したということですか」


「その通りじゃ」


 如月さんの冷徹な肯定が、音楽室の空気をさらに一段階、重く冷たいものにした。


「そして、再び革のキャップを被せ、元通りに結び直そうとした。しかし、長年の激しい衝撃で完全に癖のついた複雑な武具の結び目を、素人が寸分の狂いもなく完全に再現することなど不可能じゃ。そのわずかな張力の違い、数ミリのズレが、物理的な違和感としてこの先端に深く刻み込まれたのじゃ」


 僕は眉間を寄せた。

 グリップがバットの形に偽装されていることは、すでに分かっている。なら、なぜわざわざ先端の部品を一度分解して、また元に戻すような手間をかけたのか。


「答えは簡単じゃ。分解しなければ『中に入れられないモノ』があったからじゃよ」


 僕の疑問を見透かしたように、如月さんは純白の手袋をはめた両手を竹刀の先端へと伸ばした。

 そして、わずかにズレていた黄色い弦の結び目に躊躇なく指をかけ、迷いなくその複雑な縛りをスルスルと解き始めたのだ。


「あっ……如月さん、ちょっと!」


 証拠品を勝手に分解する彼女の行動に、僕は思わず声を上げたが、彼女の流れるような手捌きは止まらなかった。

 固く結ばれていた弦が完全に解かれ、だらりと垂れ下がる。

 如月さんは、筒状の分厚い革のキャップをしっかりと掴むと、テーピングが巻かれた竹の本体から、それをスポンと引き抜いた。

 四つ割りの竹の先端が、無防備な姿を晒す。

 と同時に、革のキャップの内側の空洞に隠されていた『何か』が、重力に従って指揮台のダークグレーのカーペットの上へと滑り落ちた。


 ――ゴトッ。


 それは、およそ『竹』や『革』といった天然素材からは絶対に発せられない、ひどく重く、鈍い金属音だった。

 音楽室の静寂の中に響いたその異質な落下音に、壁際の部員たちがビクッと一斉に肩を跳ねさせる。

 僕は指揮台の上に落ちたその物体を、目を丸くして見つめた。

 長さ十センチほどの、銀色に鈍く光る細長い金属のプレート。それが何枚も何枚も、折りたたまれるようにして重ねられ、一つの分厚い塊となっていた。

 ただの金属ではない。革のキャップの中に収まるほどの小さな体積でありながら、指揮台の厚いカーペットを深く沈み込ませるほどの、見た目と釣り合わない異常な質量。


「鉛、ですか?」


 僕が震える声で呟くと、如月さんはその重い金属の塊を純白の手袋で拾い上げ、僕の目の前へと突き出した。


「スポーツ用品店やホームセンターで容易に手に入る、重量調整用の『鉛テープ』じゃ。ゴルフクラブのヘッドや、テニスラケットのフレームに貼って重さを変えるためのものじゃな。裏面が強力な粘着テープになっておる」


 如月さんの小さな手のひらに乗せられた鉛の塊は、ざっと見積もっても数百グラム以上の重量があるように見えた。


「犯人は、ただ廃材をテーピングで巻いただけではないのじゃ。一度先端の革部品を外し、四つ割りの竹の空洞部分に、この重い鉛テープを何重にも折りたたんで限界まで詰め込んだ。そして再び革のキャップで蓋をし、元通りに見えるように弦を結び直した。テーピングの螺旋が先端の手前で終わっていたのは、この鉛を仕込む作業を後から行ったため、あるいは重量の微調整を何度も繰り返していたためじゃろう」


 僕は、その鈍く光る鉛の塊から目が離せなかった。

 先ほど、グリップの形状から『これは野球のバットを模したものだ』という外見上の答えは出ていた。

 しかし、この先端から現れた鉛の塊は、その『模したもの』という僕の甘い認識を、根本から、そして徹底的に破壊するものだった。

 ただバットの形に似せて偽装し、人を驚かせるための小道具を作りたいだけなら、外からは絶対に見えない竹刀の内部に、わざわざ重りを仕込む必要など全くないからだ。


「サクタロウ、そして壁際で震える愚鈍な群れどもよ。よく聞くがよい」


 如月さんは、鉛の塊を握りしめたまま、音楽室全体によく通る凛とした声で語り始めた。


「モノには必ず、それが作られた『目的』に沿った物理的な設計思想が存在する。それは質量と重心の配置という、決して誤魔化すことのできない力学的な法則となって現れるのじゃ」


 彼女は、指揮台の上に立てかけられた包帯の竹刀を、もう一方の手で軽く叩いた。


「剣道で使われる竹刀。あれは本来、相手を殺傷するためではなく、寸止め、あるいは防具の上から安全に『打突』するための武具じゃ。その最大の目的は、いかに素早く振り下ろし、そしていかに素早く『止める』ことができるかにある」


 僕は体育の授業での記憶を呼び起こした。確かに、竹刀は一メートル以上という見た目の長さの割に、振ってみると非常に軽く感じ、ピタリと狙った場所で止めることができる。


「竹刀は、手で握る(つか)の内部に太い鉄片などの重りが仕込まれており、重心が極端に『手元』に寄るように設計されておるのじゃ。手元に重心があるからこそ、テコの原理で長い剣先を自在にコントロールし、対象に当たった瞬間に手首のスナップで強烈なブレーキをかけることができる。これを『手元重心』の設計と呼ぶ」


 如月さんはそこで言葉を区切り、手の中にある重い鉛の塊を高く掲げた。


「では、この棒はどうじゃ。犯人はわざわざ手元重心の竹刀の先端を分解し、一番遠い剣先の部分に、この極めて重い鉛の塊を大量に詰め込んだ。これにより、この棒の重心は手元から『先端』へと完全に移動してしまっておるのじゃ」


「重心が先端にあると……」


 僕は、自分の口から出る言葉の恐ろしさに震えながら、続きを紡いだ。


「途中で『止める』ことが、物理的に不可能になる……」


「左様」


 如月さんのアメジストの瞳が、冷酷なまでの物理の真実を映し出して細められた。


「先端に巨大な質量を持った長い棒を振り回せば、そこに凄まじい『遠心力』が発生する。一度スイングを始めれば、先端の重りが生み出す強大な運動エネルギーは、人間の手首の力などでは到底制御できなくなる。途中で止めようとすれば、自らの手首の関節を破壊されるか、体勢を崩して吹き飛ばされるじゃろう」


 彼女は、先ほど僕のエア剣道によって証明された『グリップの事実』を、ここで完璧に結びつけた。


「手首の可動域を殺し、両手を密着させて強固にロックするためのテーピングのグリップ。そして、遠心力を最大化するために先端へと意図的に移された、異常な重心。この二つの物理的な証拠が組み合わさった時、この棒の設計目的はただ一つに絞られる」


 彼女の冷たい声が、音楽室の完璧な音響パネルに反響し、僕たちの鼓膜へと突き刺さる。


「この棒は、対象を寸止めするためのものではない。発生した強大な遠心力と運動エネルギーを、対象物に一〇〇パーセント叩きつけ、そのままの勢いで最後まで『振り抜く』ためだけに作られた構造じゃ。……つまりこれは、単に外見を似せただけの小道具などではない。剣道部から盗んだ竹刀をベースにしながらも、その武具としてのアイデンティティを完全に破壊し、物理法則のレベルで『本物の野球のバット』へと完全に作り変えられた、極めて危険な実用品の姿じゃ」


 如月瑠璃の断言が、僕の凡庸な推理への完全な死刑宣告となった。


 僕は、完全に言葉を失い、指揮台の上に転がった大量の鉛のテープと、分厚いテーピングで覆われたグリップを交互に見つめることしかできなかった。

 先ほど、グリップの形状から導き出された『バットの形』という答え。それは、ほんの入り口に過ぎなかったのだ。

 この先端に隠された鉛の重りは、犯人がこの棒を『本気でスイングし、本気でボールを打つ』ために、緻密な力学計算のもとに改造を施したという、恐るべき執念の証明だった。

 人を驚かせるためだけのアート作品に、ここまで徹底した重心の移動など必要ない。

 犯人は、この異常な武器を、間違いなく『実用』するつもりで作ったのだ。


 五十人の部員たちも、誰一人として声を上げることはできなかった。

 目の前にあるのが、ただの気味の悪いゴミではなく、本気で何かを打ち砕くために物理法則すらも捻じ曲げて作られた『兵器』であると論理的に証明されてしまったからだ。

 スマートシティのデジタルの死角。

 そこを利用して犯人が行っていたのは、狂気に憑かれた職人が、己の情念を込めて武器を鍛え上げる、おぞましい儀式そのものだった。


 しかし、最大の謎は未だ残されている。

 犯人は、この異常なバットを密室の中で完成させた。

 にもかかわらず、なぜそれを持ち帰ることなく、わざわざこの音楽室の『指揮台』という特異点に設置して去っていったのか。


 バットが置かれているという事実が持つ本当の意味とは何なのか。

 音楽室の張り詰めた空気の中で、如月さんのブレザーのポケットから微かに漏れ聞こえる懐中時計の秒針だけが、僕たちの理解を超えたさらなる真実へのカウントダウンのように、チク、タクと鳴り続けていた。



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