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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section6:螺旋のテーピングと、摩擦の証明~

 音楽室を支配していた狂乱のパニックは、完全に沈静化していた。

 五十人の吹奏楽部員たちは、まるで魔法をかけられたかのように壁際に縫い留められ、ただ息を潜めて部屋の中央を見つめている。彼らの視線の先にあるのは、長方形の指揮台という特異点に立つ、一四七センチの小柄な少女の背中だけだ。

 僕がタブレット端末を用いて導き出した『廃材を利用した悪戯のアート』という凡庸な結論は、如月瑠璃の放つ圧倒的な物理的証拠の気配の前に、すでに過去の遺物として完全に風化していた。


 如月さんは、特注の純白のシルク手袋に包まれた右手を、指揮台の上に立てかけられた不気味な棒――真っ白な医療用テーピングでぐるぐる巻きにされた竹刀の表面へと静かに這わせた。

 キュッ、という微かな摩擦音が、完璧に調律された音楽室の静寂の中に響く。

 彼女の指先は、まるで盲目の人間が点字を読み取るかのように、あるいは老練な修復師が歴史的価値のある絵画のひび割れを確かめるかのように、極めて慎重に、そして繊細にテーピングの表面の凹凸をなぞっていく。

 僕たち凡人の目には、ただ無造作に、あるいは狂気的な執念に任せて執拗に巻きつけられたようにしか見えないそのテープの螺旋。しかし、彼女のアメジストの瞳と、指先に研ぎ澄まされた触覚は、そこから犯人が残した生々しい物理的な情報を次々と抽出しているはずだった。


「サクタロウ」


 不意に、テープの表面をなぞっていた如月さんの手が止まり、静かな声が僕を呼んだ。


「はい」


「そこへ立て。そして、わしに見せてみよ。お主が体育の授業や、テレビの時代劇などで見てきた『剣の握り方』というものをな」


 彼女は振り返ることなく、自身のすぐ隣の空間――指揮台のすぐ脇のフローリングを指差した。

 なぜ突然、剣の握り方など実演させられるのか。疑問はあったが、僕は無言で頷き、鞄を床に置いて彼女の隣へと歩み寄った。助手として、あるいは下僕として、彼女の鑑定における物理的な証明のピースになることは、僕の重要な役回りの一つだからだ。


 僕は五十人の部員たちの視線を背中に浴びながら、何もない空間で両手を前に出し、見えない竹刀を握るようなポーズをとった。


「こうですか」


 僕は右手を少し前に出し、見えない(つか)の上部を軽く握り込むようにする。そして、左手は右手からこぶし二つ分ほど間隔を空け、柄の最も下の部分――剣道で言うところの柄頭(つかがしら)のあたりをしっかりと握り締めた。両足は右足を少し前に出し、いつでも踏み込めるように重心を落とす。

 中学校の体育の授業で習った、ごく一般的な剣道の中段の構えだ。


 如月さんはゆっくりと振り返り、僕のその滑稽なエア剣道のポーズを上から下まで冷徹な視線で観察した。


「ふむ。なぜ、右手と左手の間にそれほどの空間を空けておるのだ?」


「なぜって……それが剣道の竹刀の正しい握り方だからですよ」


 僕は両手の位置をキープしたまま、常識的な理屈を口にした。


「竹刀は長いんです。テコの原理と同じで、右手と左手を離して握らないと、重い剣先を素早くコントロールできません。右手は方向を定めるための支点で、左手は振り下ろすための力点です。両手を密着させてしまっては、手首の可動域が死んでしまって、まともに打ち込むことも、相手の打撃を捌くこともできなくなります」


「左様。それが『斬る』あるいは『叩く』ことに特化した武具の、最も合理的で物理的なグリップの構造じゃ」


 如月さんは短く肯定すると、再び指揮台の上の包帯の竹刀へと向き直った。


「では、お主のその常識の目をもって、もう一度この棒の『柄』の部分をよく観察するがよい」


 言われて、僕は構えを解き、指揮台の上に立てかけられた竹刀の持ち手部分――犯人が最も執拗にテーピングを巻きつけていた下半分の領域に顔を近づけた。


「この医療用テープが描く螺旋の引っ張りの強さ(テンション)を見るのじゃ。ただ闇雲に巻かれているわけではない。犯人は、非伸縮性の硬いテーピングテープを、強い力で引っ張りながら、この棒の最も下の部分に意図的に厚みを持たせるように巻き上げておる」


 如月さんの純白の指先が、テープの螺旋の軌跡をツーッと下から上へとなぞる。


「もしこれが、お主の実演したような『右手と左手を離して握る』ための武具であるならば、強い力が加わる二つの箇所――つまり、右手で握る上部と、左手で握る最下部を中心に補強を施すのが自然じゃ。あるいは、全体を均等な厚みで巻くかのどちらかじゃな。しかし、このテープの巻き方はどうじゃ」


 僕は目を凝らした。

 間接照明の光の下で、白一色に見えていたテーピングの表面の凹凸が、明確な幾何学的な意味を持って僕の脳内で再構築されていく。

 如月さんの言う通りだった。

 テーピングの厚みは決して均等ではない。竹刀の一番下の端から始まり、上に向かっておよそ二十センチほどの区間だけが、異常なほど分厚く、かつ強固なテンションで執拗に何重にも巻き重ねられているのだ。そこから上の部分は、下地である柔らかい医療用包帯を隠す程度の、比較的薄い一重の螺旋で済まされている。

 つまり、この棒の『グリップ』として機能するように強固に補強されているのは、一番下のわずか二十センチ――人間の大人の両手が、ギリギリ収まるか収まらないかという非常に狭い区間だけなのだ。


「これでは、剣道の握り方はできません」


 僕は信じられない思いで呟いた。


「右手と左手を離して握ろうとすれば、右手が補強されたグリップ部分からはみ出して、上の薄い部分に掛かってしまいます。テープの段差が邪魔になって、まともに握ることすらできない」


「左様。この巻き方は、そもそも空間を空けて握ることなど微塵も想定しておらぬ」


 如月さんは静かに頷き、さらに決定的な証拠を突きつけるように、テープの表面のある一点を指し示した。


「さらに、この摩擦の痕跡を見るのじゃ」


 僕が顔をさらに近づけると、ツンとした接着剤の揮発臭に混じって、わずかに泥や汗のような生々しい匂いが鼻腔を突いた。

 如月さんの指し示す先。真っ白な医療用テーピングの表面には、照明の角度を変えなければ気づかないほどの、広範囲にわたる黒ずんだ『汚れ』が付着していた。

 いや、それは単なるゴミ捨て場の汚れなどではない。明らかに人間の手が擦れ、強い圧力と摩擦が加わったことによって生じた、黒い手垢のようなシミの塊だった。


「犯人は、あの短い死角の時間の中でこの棒を作り上げた後、実際に自分の手でこれを強く握り込み、その感触を確かめたのじゃろう。その際に付着した、強烈な情動を伴う摩擦の痕跡じゃ」

 如月さんの言葉に従って、僕はその黒ずんだ摩擦痕の『形』と『範囲』を脳内でトレースした。


 もし、剣道の握り方のように両手を離して握っていたのなら、その黒ずみは上と下、二つのブロックに分かれて付着しているはずだ。その間には、手が触れていない真っ白な空間が残っていなければならない。

 しかし、目の前にあるテーピングの汚れは、違った。

 一番下の端から始まり、上に向かって約二十センチの区間。その補強されたグリップ部分の全域にわたって、黒ずんだ摩擦痕が『一切の隙間なく、一つの連続した塊として』べったりと付着していたのだ。

 それは、人間の手がどういう形でこの棒に触れていたのかを、残酷なほど雄弁に物語る物理的証拠だった。


「右手と左手の間に……一ミリの隙間もない」


 僕の口から、無意識のうちに答えが漏れていた。

 その事実を頭で理解した瞬間、僕の両手は勝手に動き出していた。

 先ほどの実演でこぶし二つ分空けていた左手と右手を、僕はゆっくりと近づけ、スライドさせていく。

 そして、右手の下側に左手をぴったりと密着させ、一つの太い塊を握り込むようにして、両手を完全に重ね合わせた。

 右手と左手が隙間なく密着し、すべての指が一本の軸に対して強固なロックをかける、その独特のグリップの形。

 手首の繊細な可動域を完全に殺し、その代わりとして、全身の捻りのエネルギーを一点に集中させ、対象物を力任せに『弾き返す』ことだけに特化した、極めて暴力的な握り方。


「……野球の、バット」


 僕が震える声でその単語を口にした瞬間、背後の壁際で息を潜めていた五十人の部員たちの中から、ヒッと短く息を飲む音が聞こえた。

 僕の手の中で見えないバットが形作られ、指揮台の上の異物と完全にリンクしたのだ。

 剣道の竹刀に、医療用の包帯とテーピングをぐるぐる巻きにして作られた気味の悪い棒。

 その正体は、人を呪うための藁人形でもなければ、美術部が作った前衛的なオブジェでもなかった。

 これは、誰かが手首の可動域を殺してでも、両手を隙間なく密着させて強く握り込むためだけに、執拗なテーピングによって強制的にグリップの形状を改変された、『野球のバットを模した何か』だったのだ。


「その通りじゃ、サクタロウ」


 如月瑠璃の冷徹な声が、僕の導き出した結論を完全な事実として音楽室の空間に固定した。


「テーピングの螺旋が描く強固なテンションの分布。そして、表面に連続して残された黒ずんだ摩擦痕。これらが示す物理的証拠はただ一つ。この棒は『斬る』ための剣ではなく、両手を密着させて強く握り込み、何かを力任せに『打つ』ために用意された道具じゃ」


 彼女は純白の手袋をはめた手を静かに下ろし、僕を、そして壁際の部員たちを振り返った。


「お主は先ほど、これをゴミ捨て場から拾ってきた廃材を利用した、ただの『悪戯の小道具』だと断言したな」


「……はい」


「ならば、その凡庸な推理は、ここで完全に破綻することになる」


 如月さんのアメジストの瞳が、薄暗い音楽室の中で妖しく、そして鋭く光を放った。


「もしこれが、ただ人を驚かせるためだけの見せかけの小道具であるならば、外見だけをグロテスクに偽装すれば事足りるはずじゃ。テーピングの下に隠された見えない部分の補強や、実際に両手を密着させて握り込んだ際に生じるグリップのミリ単位の感触など、どうでもよい。しかし犯人は、限られた死角の時間の中で、実際にこれを野球のグリップとして強く握り込み、その感触を確かめるという生々しい摩擦痕を残すほど、この棒の『実用性』に異常なまでの執着を見せている」


 僕は絶句した。

 そうだ。ただの悪戯なら、グリップの感触など気にする必要はない。

 犯人は、この棒をただ指揮台に飾るために作ったのではない。

 実際に両手で強く握り、構え、そして何かを『打つ』という明確な動作を想定して、この棒を加工したのだ。

 それはつまり、この音楽室という、野球など絶対にやってはいけない閉ざされた空間の中で、誰かが本気でバットを振るう準備をしていたという、得体の知れない狂気を意味している。


「これより、さらなる深淵を覗かせてやろう」


 僕の全身に粟立つような悪寒が走る中、如月さんは制服のブレザーのポケットに再び手を滑らせた。

 彼女の指先に摘み出されたのは、美しい銀色の装飾が施された、折りたたみ式の小さな『ルーペ』だった。


「これは見せかけの小道具などではない。本気でボールを打つために、物理法則すらも捻じ曲げて作り変えられた、恐るべき『実用品』の姿じゃ」


 純白の手袋と、銀のルーペ。

 完璧な鑑定者の姿となった如月瑠璃が、包帯の竹刀のさらに深いルーツの深淵へと、冷徹なメスを入れようとしていた。



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