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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section5:純白の手袋と、不協和音の調律~

 チク、タク、チク、タク。


 僕が完璧な論理の城を築き上げ、音楽室に安堵の空気を満たしたはずの空間に、如月さんが手にした銀の懐中時計の秒針の音が、ひどく冷たく、そして不気味なほど正確に響き続けていた。

 僕の胸の内に広がっていた、事象を常識の枠内に引き戻せたという優越感と安堵は、彼女のその一切の揺らぎもない小柄な背中を見つめているうちに、足元から徐々に崩れ去っていくのを感じた。

 彼女は振り返らない。純白の手袋に包まれた手で懐中時計を握ったまま、僕がタブレットの画面越しに提示した『廃材を利用した悪戯のアート』という凡庸な結論など、最初から存在しなかったかのように、ただ指揮台の上の忌まわしい棒を見据えている。

 壁際で胸を撫で下ろしていた五十人の部員たちも、完全に日常のトーンを取り戻しかけていた口を徐々に噤み、僕と如月さんの間に横たわる、あまりにも絶望的な温度差に気づき始めていた。僕の論理がもたらした安堵の魔法が、彼女の放つ絶対零度の静寂の前に、音を立ててひび割れていく。


「……如月さん?」


 僕はたまらず、その細い背中に向かって声をかけた。自分の声が、ひどく頼りなく上擦っているのが分かった。


「聞いていましたか。出所は分かったんです。犯人の手口も。これはただの廃材を利用した、底の浅い悪戯で――」


「愚鈍。度が過ぎて欠伸が出るわ」


 僕の言葉を途中で遮ったのは、極めて平坦で、しかし物理的な質量を持った刃のような一言だった。

 如月瑠璃はゆっくりと振り返り、その美しいアメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。そこに宿っていたのは、僕の推測に対する怒りや反論ではない。路傍の石ころの無意味な転がり方を観察するかのような、圧倒的なまでの冷徹な失望だった。


「度し難いほどの愚鈍じゃな、サクタロウ。お主のその空っぽの頭蓋骨には、安いスポンジでも詰まっておるのか」


「ど……どこが愚鈍だって言うんですか。監視カメラの死角のタイミングも、竹刀が紛失した出所の記録も、客観的な事実として完璧に辻褄が合っているじゃないですか」


「辻褄合わせのパズルなど、三歳児の遊戯にも劣る。お主は事象の表面の、さらにその上澄みだけを掬い取って『解決した』と宣うておる。このモノが発する、気が狂うほどの執念の臭いも、圧倒的なまでの情動の質量も、何一つ読み取ろうとせずに」


 如月さんは、呆れ果てたように小さく息を吐き、純白の手袋で指揮台の上の包帯の竹刀を指差した。


「よく見るのじゃ。お主はこれを、承認欲求をこじらせた生徒の悪ふざけで作られたアート作品だと言ったな。ならば問うが、悪戯を目的とする者が、なぜわざわざ『非伸縮性の医療用テーピング』などという、高価で極めて扱いにくい代物を大量に使用するのだ?」


「え……? それは、よりグロテスクに、本物の怪我人みたいに偽装するために……」


「見た目だけを異様に偽装して相手を驚かせたいのであれば、保健室から盗んだ安価な包帯を適当に巻きつけ、上から赤いペンキでも塗るか、あるいはどこにでもあるガムテープでも無造作に巻きつければ済む話じゃ。しかし、ここに巻かれているのは、スポーツ選手が関節を強固に固定するための本物の医療用品じゃぞ」


 如月さんの凛とした声が、音楽室の完璧な音響空間に響き渡る。


「非伸縮性のテーピングを、シワ一つなく円柱状の物体に巻きつけるのがどれほど困難な作業か、お主には想像もつくまい。一切の弛みもなく、一定の強いテンションを保ったまま、寸分の隙間もなく螺旋状に巻き上げていく。これだけの緻密な作業を、一メートル以上もある棒の端から端まで、たった三十分という限られた死角の中で、誰かに見つかるかもしれないという極限の緊張状態の中で完遂しているのじゃ」


 彼女の一言一言が、僕の築き上げた砂上の楼閣を容赦無く叩き潰していく。


「承認欲求を満たしたいだけのアート気取りが、見えない部分の下地にまで分厚い医療用綿包帯を仕込み、指から血が滲むほどの力でテーピングを締め上げるか? そんな割に合わない労力をかける馬鹿はおらん。ここにあるのは、自己顕示欲や悪戯心などという生易しい感情ではない。凡庸な殻を被ってでも、絶対にここに己の痕跡を残し、この砕けた棒を『修復』せねばならなかった、不器用で、痛切で、どうしようもない『情動』そのものじゃ」


 彼女の冷徹な事実の提示の前に、僕は二の句を継げなかった。

 確かに、ただの嫌がらせにしては、あまりにも作業が執拗すぎる。僕が意図的に目を背けようとしていたその『異常なまでの執着』の存在を、如月さんは物理的な痕跡から論理的に証明してしまったのだ。


「事象の奥底に横たわる真のルーツを見極めるには、デジタルに頼り切ったその曇った眼では不可能じゃ」


 僕の常識的な推理が木端微塵に粉砕されたその瞬間、壁際に避難していた五十人の部員たちの間に、先ほどとは比べ物にならないほど明確な動揺が走り始めた。


「……嘘だろ。じゃあ、やっぱりただのイタズラじゃないってことか?」


「情動って何だよ……誰かの執念とか、そういうヤバい類のものじゃんか……!」


「どうしよう、私たち、あんなヤバいものと同じ部屋にずっと閉じ込められてたの……!?」


 僕が論理で一度は完全に蓋をしたはずの恐怖が、より生々しく、より重い輪郭を伴って彼らの心に蘇ってしまったのだ。

 得体の知れない異物に対する原初的な忌避感。自分たちの聖域である音楽室が、狂気を持った何者かの怨念によって蹂躙されたという事実。そして、その『呪われた棒』が発する情動の真の目的が全く分からないという未知への恐怖。

 それらの感情が連鎖的に爆発し、壁際の部員たちは互いに押し合い、後ずさり、半狂乱になり始めていた。


「嫌だ、私もうここから出る! こんな気味の悪い部屋で練習なんて絶対無理!」


「待てよ、今この防音扉を開けたら、犯人が外で見てるかもしれないだろ!」


「先生を呼んで! 早く誰か警察か先生を呼んでよ!」


 誰かの悲鳴のような叫び声を皮切りに、音楽室は完全なパニック状態に陥った。

 五十人の十代が、恐怖に駆られて一斉に声を上げ、逃げ場のない広い部屋の壁際で右往左往する。学生指揮者の先輩が「落ち着け!」と大声で叫んでいるが、彼の声は完全にパニックの渦に呑み込まれ、誰の耳にも届いていない。

 それぞれの恐怖が、それぞれのベクトルで叫び声を上げ、他者の恐怖をさらに煽っていく。それはまさに、指揮者を失い、各々の楽器が勝手な旋律を暴力的に鳴らし合う、最悪の『不協和音』だった。


 しかも悪いことに、ここは月見坂市が誇る最新鋭の設備が整った音楽室なのだ。

 壁の全面に幾何学的に配置された木目調の音響パネルは、室内の音を最も効率よく反射し、隅々にまでクリアに響かせるために緻密な計算の元に設計されている。

 生徒たちのパニックによる悲鳴、怒号、そして過呼吸気味の荒い息遣いは、高価な音響パネルに乱反射し合い、実際の人数以上の凄まじい轟音となって室内を暴れ回っていた。恐怖の叫びが物理的な音波となって増幅され、さらに彼ら自身の鼓膜を容赦無く打ち据え、パニックをネズミ算式に倍加させていく。

 このままでは、誰かが転倒して怪我をするか、あるいは集団ヒステリーを起こして気絶する者が出るかもしれない。

 僕は身の危険を感じ、両耳を塞ぎながら「静かにしろ!」と叫ぼうとした。


 だが、その混沌のまさに中心――最も音が集まるはずの特異点に立つ如月さんは、この地獄のような不協和音の渦中にありながら、アメジストの瞳の瞬き一つ変えていなかった。

 彼女は純白の手袋をはめた右手を胸元の高さまでゆっくりと上げ、先ほど蓋を弾き開けたばかりの、銀色のアンティークの『懐中時計』を掲げた。

 そして、周囲のパニックなど一切存在しないかのように、ゆっくりと目を閉じた。


 ――チク、タク、チク、タク。


 懐中時計の内部で極小の歯車が噛み合い、ゼンマイが解ける機械式の駆動音。

 五十人が叫び狂うこの轟音の嵐の中で、そんな微かな音が聞こえるはずがない。常識的に考えればそうだ。

 しかし、如月さんは僕たち凡人とは見ている世界も、利用している物理法則の解像度も全く違った。

 彼女が立っている場所は、音楽室の『指揮台』だ。

 この完璧に設計された部屋の音響において、指揮台は特別な意味を持つ。指揮者が発する微かな指示の肉声や、タクトが空を切る音が、半円状に広がる五十人の奏者全員に最もクリアに届くよう、この部屋のすべての音響パネルは『指揮台を中心として音が均等に放射・反射される』ように緻密に角度を計算されているのだ。


 如月さんの手の中にある銀の懐中時計が刻む、チク、タク、という硬質で正確な金属音。

 それは指揮台という空間の特異点から放たれることで、室内の空気を特有の周波数で震わせ、壁面の音響パネルに衝突し、反射し、五十人の部員たちが発する無秩序な不協和音の隙間を縫うようにして、確実に彼らの鼓膜の奥へと到達していった。

 それは音のボリュームによる制圧ではなく、周波数と空間設計を完全に味方につけた、物理的なハックだった。


 チク、タク、チク、タク。


 一秒の狂いもない、冷徹で絶対的なアナログのリズム。

 人間の脳は、一定の規則正しいリズムを刻む音に対して、無意識のうちに自らの生体リズムを同調させようとする性質を持っている。『引き込み現象』と呼ばれるその生理的反応は、心臓の鼓動という原初のリズムを刻み込まれた生物としての逃れられない本能だ。

 如月さんは目を閉じたまま、その秒針の音に自身の深い呼吸と心拍を完全に同調させていく。周囲のパニックによる雑音を一切遮断し、自身の意識を深海へと沈め、ただ目の前にあるモノの『ルーツ』とだけ向き合うための、彼女だけの神聖な儀式。


 自身の思考の『調律』だ。


 だが、その空間の中心から放たれる強制的な調律の波は、彼女一人の精神に留まるものではなかった。

 悲鳴を上げ、パニックに陥っていた五十人の部員たちの脳髄に、そのチク、タクという絶対的なリズムが直接打ち込まれていく。

 最初は、誰もその音の正体に気づいていなかった。しかし、彼らの錯乱した脳は、生命の危機を誤認して暴走していた心拍数を、部屋の隅々にまで反響するその規則正しい金属音の周期に、強制的に合わせようと働き始めたのだ。


「……え?」


 最初に声を潜めたのは、過呼吸を起こしかけていたフルート担当の女子生徒だった。

 彼女の荒かった呼吸が、いつの間にか、懐中時計の刻む一秒ごとのテンポと奇妙なほどに一致し始めている。

 それに連鎖するように、隣にいた男子生徒が叫ぶのをやめ、呆然と部屋の中央を見つめた。


 チク、タク、チク、タク。


 恐怖と混乱に支配されていた五十人の不協和音が、まるで強力な鎮静剤を空間そのものに注射されたかのように、潮が引くようにスゥーッと消え去っていく。

 彼らは自分たちがなぜ急に冷静さを取り戻したのか、その理由すら理解できていない。ただ、本能のレベルで、空間の中心から放たれる絶対的なリズムに精神を『支配』され、強制的に書き換えられてしまったのだ。


 ほんの数十秒前まで、地獄のようなパニックの渦中にあった音楽室。

 それが今や、五十人の部員全員が壁際に立ち尽くし、ただ息を殺して、部屋の中央に立つ一四七センチの少女の姿を呆然と見つめるだけの、巨大な静寂の空間へと変貌していた。

 聞こえるのは、最新鋭の空調設備が吐き出す微かな駆動音と。

 チク、タク、という、空間を完全に支配した銀の懐中時計の秒針の音だけ。


 如月瑠璃の持つたった一つの小さなアナログの時計が、最新鋭のスマートシティのインフラであるこの部屋の音響特性を完全に掌握し、五十人の群衆の精神状態を、物理的かつ生理学的なアプローチで強制的に鎮静化させてしまったのだ。

 それはまるで、無秩序に暴走していたオーケストラのチューニングが、絶対的な権力を持ったコンサートマスターのたった一つの音によって、完璧に揃えられていくような、圧倒的で暴力的なまでの空間の支配だった。


 調律は完了した。

 完璧な静寂と、冷たく澄み切った緊張感だけが残された音楽室の中で、如月さんはゆっくりとアメジストの瞳を開いた。

 彼女の瞳には、一切の淀みも迷いもない、真理だけを見据える鋭利な刃のような光が宿っている。

 五十人の部員たちは、もはや彼女の行動を止める気力も、恐怖の声を上げる気力も奪われ、ただその神聖な儀式の行く末を見守ることしかできなくなっていた。僕もまた、乾いた唾を飲み込み、彼女の次の行動を注視する。


 如月さんは懐中時計の蓋をパチンと閉じ、ブレザーのポケットに静かに仕舞い込んだ。


「イタズラ目的でゴミ捨て場から拾ってきた廃材を、ただ脅かすためだけに加工した凡庸な小道具、じゃと?」


 如月さんは、完全に自身の領域と化した空間の中で、僕の顔を一度も見ることなく、指揮台の上に立てかけられたあの不気味な棒へと純白の手袋を伸ばした。


「お主のその薄っぺらいデジタルの推理を、今ここにある絶対的な物理的証拠をもって完全に否定してやろう。サクタロウ、よく見ておくのじゃ」


 彼女の指先が、何重にも巻かれた医療用テーピングの表面に、ついに触れた。


「これは悪戯などという生易しい遊戯の産物ではない。一人の人間の、血を吐くような強烈な執念と祈りによって、完全に『別の用途』へと作り変えられた、紛れもない実用品の姿じゃ」


 彼女の低く冷徹な宣言が、調律された空間の隅々にまで響き渡る。

 僕がタブレットの向こう側に見た安っぽい日常の解答は、如月瑠璃というアナログの極致の前に、為す術もなく完全に崩れ去った。



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