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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section4:廃棄された武具と、凡人の推理~

 チク、タク、チク、タク。


 音楽室の完璧な音響空間に、如月さんが手にした銀の懐中時計の秒針が、冷徹で規則正しいリズムを刻み始めていた。

 先ほど僕が暴き出した『空白の三十分間』というデジタルの死角。そして、その密室の中で得体の知れない犯人が黙々とテーピングを巻き続けていたという生々しい事実。それらがもたらした正体不明の恐怖が、五十人の吹奏楽部員たちを金縛りにし、部屋の空気を極限まで張り詰めさせている。

 だが、如月瑠璃という少女は、そんな凡人たちの怯えなど微塵も気にかけることなく、純白の手袋をはめた手で懐中時計を持ち、ただ静かにアメジストの瞳を伏せていた。彼女は今、スマートシティのネットワークが取りこぼした事象の奥底――犯人のドロドロとした『情動のルーツ』へと、アナログな五感だけを頼りに深く潜行しようとしているのだ。


 その人間離れした静謐な横顔を見つめながら、僕は背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。

 怖いのだ。

 もしこのまま、如月さんの言う通りに「この棒には人間の狂気的な執着や祈りにも似た怨念が込められている」という非論理的な真実が、彼女の口から物理的な事実として語られてしまったら。

 それは、僕たちが生きているこの安全で洗練されたスマートシティの日常が、根底から覆されてしまうことを意味する。僕の足元にあるのは強固なコンクリートなどではなく、いつ誰の悪意や狂気が噴き出してくるか分からない、薄氷の上だったと認めることになってしまう。

 そんなの、絶対に嫌だ。

 僕は、この気味の悪い事象を、どうにかして「日常の枠内」に引き戻さなければならなかった。狂気や怨念などではなく、もっと俗っぽくて、馬鹿馬鹿しくて、笑い飛ばせるような「凡庸な悪戯」の産物なのだと、理屈をつけて証明したかった。


 僕は視線を上げ、指揮台の上に立てかけられたあの忌まわしい『大怪我の手当てを施された棒』を改めて睨みつけた。

 真っ白な医療用テーピングで執拗にぐるぐる巻きにされ、無気味な凹凸を作って膨れ上がったその物体。しかし、その芯となっているのは、間違いなく武道場で使われる剣道の『竹刀』だ。

 竹刀。

 僕の脳内で、一つの現実的なキーワードが点滅した。

 月見坂市が莫大な予算を投じて整備したこの新校舎において、備品や教材の管理はすべてデジタルの台帳で厳格に行われている。剣道部が使用する竹刀や防具も例外ではないはずだ。部費で購入された正規の備品には微小なICチップや管理用のバーコードが付与されており、それが一本でも紛失すれば、すぐに顧問の端末や生徒会のポータルサイトにアラートが飛ぶ仕組みになっている。

 それなら、犯人はどうやってこの一メートル以上もある長い竹刀を調達し、誰にも怪しまれずにこの音楽室まで持ち込んだのだろうか。


「……そうだ。正規の備品じゃないとすれば」


 僕は小さく呟き、先ほどロックしたばかりのタブレット端末の画面を再び点灯させた。

 もし犯人が、デジタルで管理されていない『規格外』の竹刀を手に入れたのだとすれば、出所は一つしかない。システムから完全に切り離された、デジタルの死角にあるモノだ。

 僕はホーム画面から、日常的にやり取りをしている汎用のメッセージアプリを立ち上げた。連絡先のリストをスクロールし、同じ旧市街の中学校の出身で、現在は如月学園の剣道部に所属している知人のアカウントをタップする。親友と呼べるほど深い仲ではないが、たまに授業のノートを貸し借りしたり、旧市街の安いゲーセンの情報を交換したりする程度の、都合の良い距離感の相手だ。アイコンは、彼が実家で飼っている柴犬の間の抜けた写真である。この無菌室のような異常な空間の中で、その見慣れた日常のアイコンがやけに頼もしく見えた。


 僕はソフトウェアキーボードを素早く叩き、メッセージを打ち込み始めた。


『急にごめん。今、ちょっと文化祭の出し物の関係で調べ物をしてるんだけど。今日、そっちの部活で、古い竹刀が一本無くなったりしてない?』


 相手が警戒しないよう、あくまで文化祭の準備を装った軽いトーンで送信ボタンを押す。

 送信時刻は午後四時二十五分。剣道部はまさに放課後の練習の真っ最中だろう。すぐに返事が来るかは分からなかったが、運が良ければ給水休憩のタイミングなどでスマートフォンを確認してくれるかもしれない。

 僕はタブレットを両手で握りしめたまま、画面の隅に表示される『既読』のマークを祈るような気持ちで待ち続けた。


 音楽室の中は、依然として重苦しい沈黙に支配されている。

 壁際に逃げ込んだ部員たちは、不安げな視線を僕と如月さんの間で彷徨わせていた。学生指揮者の先輩は、祈るように両手で欠けた指揮棒を握りしめ、ただ事態が好転するのを待っている。チク、タク、という懐中時計の音が、僕の心臓の鼓動を急かすように耳にこびりつく。

 早く。早く返事をくれ。僕の推測が正しければ、この気味の悪い棒の正体は、一気に『ただのゴミ』へと格下げされるはずなんだ。


 送信から約三分後。

 タブレットの画面が小さく震え、短い通知音とともに、柴犬のアイコンからメッセージの吹き出しがポップアップした。

 僕は食い入るように画面を覗き込んだ。


『お疲れ。なんで知ってんの? ちょうど今、片付けの当番だった奴が騒いでたとこ』


 その一文を見た瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。ビンゴだ。

 僕は逸る気持ちを抑えながら、すぐさま返信を打ち込む。


『やっぱり。無くなったのは、いつ? どんな竹刀?』


 数秒後、画面上に『入力中』というアニメーションが表示され、長めのテキストが返ってきた。


『今日の昼休み明けだよ。武道場の裏手に、ささくれたり割れたりして使えなくなった竹刀を捨てる専用の廃棄ボックスがあるんだけど。今日の放課後に業者が廃材回収に来る予定だったから、昼休みのうちにまとめておいたんだわ。そしたら、その中から一本だけ、古い竹刀が消えてた。備品タグも外されたただのゴミだから無くなっても誰も困らないんだけど、誰がわざわざあんな割れた竹刀を持っていったんだろうなって、気味が悪くてさ』


「……よしっ!」


 僕は思わず、声を上げてガッツポーズを作っていた。

 静まり返っていた音楽室の中で、僕の場違いに明るい声が不自然に響き渡る。五十人の部員たちと、指揮者の先輩が、一斉に驚いた顔でこちらを振り向いた。

 如月さんだけは懐中時計を見つめたままピクリとも動かなかったが、僕はもう、あの得体の知れない気味の悪さや、情動といった非論理的な言葉の引力から完全に抜け出していた。

 点と点が、僕の中で完璧な一本の線として繋がったのだ。

 スマートシティの監視網を抜けた死角と、システムで管理されていないアナログな廃棄物。これらが組み合わさることで、この異常な事態は『凡人の常識的な推測』の枠内に見事に着地する。


「先輩。皆さん。もう、何も怯える必要はありませんよ」


 僕はタブレットの画面を指揮者の先輩に見せながら、自信に満ちた声で宣言した。


「この気味の悪い棒の出所が分かりました。これは、呪いのアイテムでも何でもない。武道場の裏のゴミ捨て場から拾い上げられた、ただの『廃棄物の竹刀』です」


「廃棄物……? ゴミだって言うのか?」


 先輩が目を丸くして問い返す。僕は力強く頷いた。


「はい。今、剣道部の知人にチャットで裏を取りました。今日の昼休み、業者が回収するはずだった廃棄ボックスの中から、使えなくなった古い竹刀が一本だけ紛失していたそうです。デジタルの備品台帳にアラートが鳴らなかったのも当然です。なぜならそれは、すでに学園のシステムから『不要なゴミ』として処理され、タグも外されたアナログの廃材だったからです」


 僕は、自分の頭の中で組み上がった完璧な『凡人の推理』を、一つ一つ論理的に声に出して組み立てていく。


「いいですか、順を追って説明します。まず、今日の昼休み。犯人は武道場の裏に行き、廃棄ボックスからゴミの竹刀を拾い上げました。そして、保健室かドラッグストアで手に入れた純白の医療用包帯とテーピングを使って、それをぐるぐる巻きにした。目的は一つ、見た目を異様でグロテスクなものに偽装するためです」

 僕は指揮台の上の、白く膨れ上がった棒を指差した。先ほどまであんなに気味が悪く見えていたそれが、出所が分かった途端、ただの不格好な工作物にしか見えなくなってきた。人間の認識とは現金なものだ。


「そして犯人は、それが完成したタイミングを見計らって、この新校舎三階の特別教室棟へとやってきた。時刻は十二時四十五分。犯人の予想通り、あるいは犯人の巧妙な手引き通り、廊下には文化祭実行委員が巨大なベニヤ板の看板を立てかけ、第十七番カメラの視界を完全に遮断する『デジタルの死角』が形成されていました」


 壁際の部員たちが、僕の淀みない推理に引き込まれるように、身を乗り出して話を聞き始めている。彼らの顔からは、先ほどまでの血の気の引いたような青白さが少しずつ消え、代わりに「なるほど」という納得の色が浮かび始めていた。


「犯人は、カメラの死角に入り、機材搬入のために一時的に電子錠が『常時解錠モード』になっていた防音扉から、誰にも見られずにこの音楽室へと侵入しました。手には、先ほど偽装を終えたばかりの不気味な棒を持って」


「でも、朔くん」


 指揮者の先輩が、少しだけ首を傾げて疑問を挟んだ。


「なんでわざわざ、そんな手の込んだことを? ゴミを包帯で巻いて、カメラの死角を突いてまで、僕たちの音楽室に置きに来る理由が分からないよ。ただの嫌がらせにしては、あまりにも労力がかかりすぎている」


「理由は簡単ですよ、先輩。これは『前衛アート』のつもりか、タチの悪い『ドッキリ』なんです」


 僕は胸を張り、自分が導き出した最も現実的で、最も凡庸な結論を誇らしげに提示した。


「文化祭が近づくと、どの学園でも必ず『悪ふざけの度を越す生徒』が現れます。非日常のお祭り騒ぎに当てられて、自分を特別な存在だと思い込んでしまう連中です。……例えば、奇抜な表現を好む美術部の一部や、過激な演出を好む演劇部の生徒たち。あるいは、ただ目立ちたいだけの暇なグループ」


 僕の言葉に、数人の部員がハッとしたように顔を見合わせた。


「犯人は、この『大怪我の手当てを施された棒』という、意味不明で不気味なオブジェを作り上げました。そしてそれを、学園で最も洗練された美しい空間であるこの音楽室の、それも五十人の注目が集まる『指揮台』という特異点にわざと設置した。目的は、吹奏楽部の皆さんを驚かせ、怯えさせ、混乱させること。そして、その様子を遠くから見て『俺の作った前衛アートが、あのエリートたちにこれだけのパニックを引き起こしたぞ』と優越感に浸るためです」


 僕は一息つき、五十人の部員たちをぐるりと見渡した。


「接着剤の匂いが残っていたのも、密室で何十分も作業していたからじゃない。直前まで別の場所で作っていて、接着剤が乾ききらないうちに、死角を利用して急いでここに持ち込んで設置したからです。……すべては、文化祭前の浮かれた空気が生み出した、手の込んだ悪趣味なイタズラ作品。それが、この事象の客観的な真実です」


 僕の推理が終わると同時に、音楽室の空気がふっと軽くなるのが分かった。

 それはまさに、論理と常識の勝利だった。

 得体の知れない狂気や、怨念、情動といったオカルトじみた恐怖が、僕の提示した『ゴミから作られた悪戯のアート作品』という日常的でチープな枠組みの中に、見事に収束していったのだ。五十人の部員たちが、一斉に安堵の息を吐き出す音が聞こえた。


「なんだ……じゃあ、やっぱりただのゴミとテープじゃんかよ」


「マジでタチ悪すぎでしょ。誰だよその暇なアート気取り。見つけたら絶対に生徒会に報告して、そいつのクラスの予算削ってやる」


「副部長、やっぱりあれ、ゴミ捨て場に持っていきましょうよ。こんな下らないイタズラのために、合奏の時間が潰されるなんて馬鹿馬鹿しすぎます」


 壁際から、完全に日常のトーンを取り戻した話し声が波のように広がっていく。ゲル状に張り詰めていた気味の悪い忌避感は霧散し、いつもの放課後の活気と、悪戯犯に対する健全な怒りが戻りつつあった。指揮者の先輩も、肩の力を抜いて深く息を吐き出し、安心したように僕に小さく頷きかけてくれた。


 謎は解けた。

 スマートシティのデジタルの死角と、システムで管理されていないアナログな廃材の再利用を組み合わせた、巧妙だが底の浅い悪戯。それが僕の導き出した最終結論だ。

 僕は誇らしい気持ちでタブレットの画面を閉じ、鞄に仕舞うと、未だに指揮台の横で静止している小柄な少女へと振り返った。


「どうですか、如月さん」


 僕は、自分の胸の内に広がる優越感を隠しきれないまま、彼女の背中に声をかけた。


「これが、デジタルの記録と、物理的な出所から導き出した客観的な事実です。今回は情動とか、何かに憑かれたような作業といった大袈裟なルーツなんて、ここには存在しませんでした。ただの、承認欲求をこじらせた生徒の悪ふざけです。さあ、もうこんなゴミの相手は終わりにしましょう。図書室に帰って、美味しい紅茶でも飲みましょう」


 僕の言葉は、完璧な論理の鎧を着ていた。五十人の部員たちも、僕の推理を全面的に支持し、安堵の表情を浮かべている。

 しかし、純白の手袋をはめた如月瑠璃は、僕の誇らしげな声を聞いても、振り返りすらしようとはしなかった。


 チク、タク、チク、タク。


 彼女の懐中時計の秒針の音だけが、僕の凡庸な推理をあざ笑うかのように、冷たく、そして不気味なほど正確に、音楽室の空間に響き続けていた。



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