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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『祈り』 ~section6:狂気のストレートと、物理的再現~

 十八・四四メートル。

 それは、公認野球規則によって厳密に定められた、ピッチャープレートの前縁からホームベースの五角形の頂点までの絶対的な距離だ。

 そして、投手がマウンドの傾斜を利用して全身のエネルギーを右腕の指先にまで伝達し、ボールを前方の空間へと解き放つ『リリースポイント』の高さは、およそ地上から二メートル弱の空中に位置する。


 僕がタブレットの画面上に描き出した巨大な菱形の図面と、如月さんが『銀のルーペ』を用いた極微の観測によって導き出した、三十本以上の竹串が示すベクトルの集束点。

 デジタルの俯瞰図と、アナログの物理鑑定。

 全く異なる二つのアプローチが、この泥濘に沈む暗いテントの裏側で、恐ろしいほどの精度で完全に合致したのだ。


「……マウンドだ」


 僕は、懐中電灯を持つ手を震わせながら、テントの布地に遮られた真っ暗な虚空——かつてそこに存在していたであろう、土の隆起に向かって掠れた声を漏らした。


「犯人は、あの位置から……ピッチャーマウンドのリリースポイントから、このキャッチャーミットに向かって、寸分の狂いもない軌道で三十本もの竹串を打ち込んだっていうことですか?」


 僕の問いかけに対し、泥濘に片膝を突いたままの如月さんは、ゆっくりと銀のルーペを右目から離した。そのアメジストの瞳は、僕の顔ではなく、足元に無惨に縫い付けられたミットの分厚い革の表面を、まるで複雑な数式を読み解くかのように冷徹に見つめ続けている。


「軌道が一致したというだけの話じゃ。あの空中の特異点から、実際に竹串を投擲(とうてき)してこのミットを貫通させることなど、いかなる物理法則を用いても不可能に決まっておろう。竹の質量と空気抵抗を計算すれば、途中で失速して弾かれるのが関の山じゃ」


 彼女は、僕の浅はかな想像を即座に切り捨てた。


「彼は、自らの手でこの竹串を一本一本、ミットの表面に押し当て、正確な角度を計算した上で、強烈な物理的圧力をかけて大地に打ち込んだのじゃ。……だが、その行為の裏に隠された『真の目的』を解明するためには、軌道という空間座標(ジオメトリ)の観測だけでは足りぬ。次に必要なのは、この事象に込められた『運動エネルギー』の絶対値の算出じゃ」


 如月さんは、ブレザーのポケットへと純白の手袋に包まれた指先を滑らせた。

 銀のルーペ、銀の懐中時計に続き、彼女がこの狂気のルーツを解体するために取り出した道具。それは、鈍い銀色の輝きを放つ、金属製の精巧な『ノギス』だった。

 十分の一ミリ単位の厚みや深さを正確に計測するための、冷たく硬質な測定器具。

 彼女はそれを右手で滑らかに操作し、ミットの表面からおどろおどろしく突き出している一本の竹串へと、その銀色の顎を静かに押し当てた。


「サクタロウ。光源をもう少しだけ右へズラせ。目盛りを読む影になる」


「あ、はい……!」


 僕は慌てて懐中電灯の位置を微調整し、彼女の手元にLEDの鋭い光を集中させた。

 文化祭の準備で騒ぎ立てる生徒たちの喧騒が、遠くの別世界から聞こえてくる環境音のように感じられる。今、この薄暗いテントの裏側だけが、如月瑠璃という絶対的な観測者が支配する、純粋な物理実験室へと変貌していた。


「この文化祭の屋台で用いられる一般的な焼き鳥用の平竹串は、全長およそ十八センチメートル。対して、現在ミットの革の表面から空中に露出している部分の長さは、平均して約六・五センチメートルじゃ」


 如月さんは、ノギスの目盛りを冷徹な視線で読み取りながら、淀みない声で数値を口にしていく。


「全長の十八センチから、露出している六・五センチを差し引く。すなわち、残りの十一・五センチメートルという長さが、このミットの内部、およびその下にあるグラウンドの土壌に向かって沈み込んでいる深さということになる」


 十一・五センチ。

 その数値を聞いた瞬間、僕は背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒を覚えた。

 先ほども確認した通り、キャッチャーミットという道具は、投手の全力投球を受け止めるために極めて強固に作られている。外側を覆う分厚いステアハイドと、内部に幾重にも重ねられた高密度のフェルト芯。それら全ての物理的抵抗をぶち抜き、さらにその下の地面にまで十センチ以上も深く突き刺さっている。


「竹串を一本も折ることなく、この強靭な牛革を十一・五センチもの深さまで貫通させるための条件。それは、竹の軸の延長線上に対して、寸分のブレもない完全な『垂直の圧力』を、極めて慎重かつ強力にかけ続けることじゃ」


 如月さんは、ノギスをポケットにしまい、純白の手袋でミットに刺さった一本の竹串の先端を、愛おしむかのように、だが極めて冷徹な所作でそっと撫でた。


「犯人は、この暗闇の中で、ミットの上に竹串を当て、そこに己の全体重をかけるようにして、ゆっくりと、しかし圧倒的な力で、この脆い竹を革の奥深くへと押し込んでいったのじゃ。……途中で少しでも力のベクトルがブレれば、竹は折れる。少しでも角度を見誤れば、三十本の串がポケットの中心で交差するという、あの完璧な空間座標は崩壊する。お主には、この静寂の中で繰り返されたその狂気的な執念の質量が、想像できるか?」


 僕は、想像を絶するその作業工程に、絶句した。

 来月の文化祭の準備でグラウンドが踏み荒らされていく中。誰も来ないこの暗いテントの裏側で、あの天才投手はたった一人で、泥の上に置いた相棒のミットに覆い被さるようにして、一本、また一本と、竹串を己の体重で押し込んでいったのだ。

 竹が折れないように。角度が狂わないように。一ミリの誤差も許さない、血を吐くような精密作業。


「……どうして」


 僕の口から、乾いた声が漏れた。


「どうしてそこまでして……何かを必死に『計算』して、その数値をこの場所に残そうとしているみたいじゃないですか」


「その通りじゃ、サクタロウ。犯人は、ただミットを傷つけるためではない。ある特定の『運動エネルギーの絶対値』を、この泥濘の大地に物理的な痕跡として永遠に固定するために、己の肉体と竹串を用いたのじゃ」


 如月さんは立ち上がり、純白の靴の踵で、足元のぬかるんだ黒土を軽く踏みしめた。

 ジュルリ、と水気を多く含んだ泥が不快な音を立てる。


「サクタロウ。物理学において、運動エネルギーは質量の半分に速度の二乗を掛けた数値として算出される。硬式野球ボールの規定質量は、仮に百四十五グラムとしよう。ミットの牛革の引っ張り強度、内部のフェルト芯の抵抗係数。そして、泥濘と化した黒土が持つ粘性抵抗。それらすべての抵抗値を、竹串が十一・五センチメートルという深さまで貫通するために必要なエネルギー量へと逆算していくと……」


 彼女の口から紡がれる、人間離れした演算のプロセス。

 それは、目の前の無惨な光景を、感情という不純物を一切排除した、美しくも冷酷な物理法則の結晶へと再構築していく儀式だった。僕の脳内では、彼女の言葉に合わせて、見えない数式が空中に浮かび上がり、次々と解を導き出していくような錯覚に陥った。


「算出完了じゃ」


 数秒の沈黙の後、如月さんは静かに、だが世界を揺るがすような確信に満ちた声で宣告した。


「竹串を十一・五センチの深さまで貫通させるために加えられた圧力、すなわち、この場所に保存されている運動エネルギーの総量は、およそ『百十ジュール』から『百二十ジュール』の間に収束する。では、この数値を、硬式ボールの質量である『百四十五グラム』という条件に当てはめ、これを生み出すための『速度』へと変換してみよう」


 彼女はそこで言葉を区切り、僕の目を見据えた。そのアメジストの瞳が、懐中電灯の光を反射して、妖しく、そして鋭く輝いた。


「エネルギーが百十五ジュール。質量が〇・一四五キログラム。これを方程式に代入し、速度を導き出すと……秒速約三十九・八メートル。これを時速に換算すると……」


 彼女の口から告げられたその『速度』に、僕は全身の血液が逆流するような衝撃を受けた。


「時速、約百四十三キロメートルじゃ」


「……ひゃく、よんじゅう……」


 僕は、自分の口から言葉がまともに発音できないのを感じた。

 時速百四十三キロ。

 それは、あの天才投手が、高校生という枠組みを遥かに超え、プロのスカウトたちをも唸らせていたという、彼の代名詞である『剛速球』の球速そのものだった。


「これは暴力ではない。嫌がらせでもない」


 如月瑠璃の冷徹な声が、テントの裏側の静寂を完全に支配した。


「彼は、この暗闇の中で、三十本以上の竹串を用い、己の体重という静的な圧力をかけることによって、時速百四十キロを超える最高のストレートがミットのポケットに激突した瞬間の『衝撃』を、物理的に再現したのじゃ」


 僕は、足元に縫い付けられたミットから、もう一度竹串の群れを見上げた。

 ただの猟奇的なオブジェに見えていた三十本の竹串が、今、僕の目には全く別のものとして映っていた。

 これは、ボールだ。

 ピッチャーマウンドから放たれ、空気を切り裂き、時速百四十キロという恐ろしい速度でキャッチャーミットに突き刺さる、目に見えない『白球の軌跡』そのものなのだ。


「さらに言えば、この竹串の配置には、もう一つの恐るべき物理的模倣が隠されておる」


 如月さんは、僕の驚愕を待つことなく、さらなる真理の扉を開け放った。


「サクタロウ。先ほどお主も確認した通り、この竹串はすべてポケットの中心に向かって収束しているが、その『刺さっている位置』そのものは、一点に集中しているわけではなく、ポケットの周囲に円形を描くようにして均等に配置されておるじゃろう。硬式野球ボールの表面には、百八つの縫い目が存在する。投手がボールを投じる際、指先でこの縫い糸を強く弾くことによって、ボールには強烈なバックスピンがかけられる。俗に言う『フォーシーム・ファストボール』じゃ。バックスピンのかかったボールは、空気抵抗によって重力に逆らうような揚力を生み出し、打者の手元で浮き上がるような錯覚を与える。……そして、その強烈な回転を持ったボールが、キャッチャーミットのポケットに激突した瞬間、ボールの縫い目はミットの革に対して、回転軸に沿った『円形の摩擦痕』を残すのじゃ」


 如月さんの純白の指先が、三十本の竹串が描く円形のシルエットをなぞるように動いた。


「もう理解したじゃろう。この三十本の竹串がポケットの周囲に円状に配置されているのは、決して偶然ではない。彼は、竹串を打ち込む位置によって、時速百四十キロのストレートが生み出す強烈な『回転軸』と、縫い目が革に食い込む『摩擦の面積』までもを、完璧な幾何学として模倣したのじゃ」


 僕は、呼吸を忘れたまま、彼女の言葉に聞き入っていた。

 頭がどうにかなってしまいそうだった。

 これは、人間のやることじゃない。ただボールを投げたい、という未練だけでできることじゃない。


 彼は、肩を壊して去ってしまった相棒のキャッチャーミットを盗み出し、こんな暗く冷たい泥濘の中で、たった一人で。

 二度と投げることのできない自分の『最高のストレート』を、三十本の竹串に分解し、その軌道ベクトル、運動エネルギー、そしてボールの回転軸に至るまで、すべてを狂気的なまでの計算と執念によって、この大地に完全に固定したのだ。

 幻のボールを、物理的な質量を持つ『彫刻』として、永遠にこの世界に刻み込むために。


「サクタロウ」


 如月さんの声が、僕の思考の海に静かに波紋を広げた。


「竹串の一本一本が、最高のストレートの物理的再現じゃ。……彼は、相棒のミットを壊したかったわけでも、復讐をしたかったわけでもないのじゃよ」


 彼女は、泥濘に縫い付けられたミットを見下ろしたまま、『情動の視座』へと切り替えていく。

 点と線は繋がり、物理的な質量はすべて計算され尽くした。

 残るは、この狂気的な再現の奥底に沈む、犯人の『情念の核』を抉り出すことだけだ。


 来月の文化祭のノイズが遠のき、世界から僕たち二人と、この縫い付けられたミットだけが切り離されたような、絶対的な静寂の中で。

 如月瑠璃は、実行犯である天才投手がこの泥濘に突き刺した、あまりにも重く、哀しい『祈り』の正体を、冷徹な声で宣告しようとしていた。



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