第1話『不協和』 ~section2:長方形の台座と、包帯の竹刀~
見えない結界の内側、五十人の部員たちが本能的に忌避し、ポッカリと空いた空白の特異点。その中心に足を踏み入れた僕の視界を、残酷なほど鮮明な『異常』が埋め尽くしていた。
広大な音楽室のど真ん中。五十人の奏者たちが半円状に囲むべき、その円の要となる絶対的な中心座標。そこには、合奏の支配者である指揮者が立つための『指揮台』が置かれていた。
縦が一メートル強、横が一・五メートルほど。表面に滑り止めのためのダークグレーのパンチカーペットが張られた、頑丈な木製の長方形の台座だ。高さは二十センチほどあり、周囲の床面から一段高くなっている。カーペットの表面には、歴代の学生指揮者たちがリズムを取るために踏みしめた靴の擦れ跡が、白っぽい染みのようにいくつも残っていた。
本来であれば、この長方形の台座の上に立った指揮者のタクトが振り下ろされることで、無秩序な音の塊が美しいハーモニーへと昇華されるはずの神聖な場所である。指揮台とは、ただ一人で群れを統率し、すべての音の責任を背負う者のために用意された、絶対的で孤独な玉座なのだ。
しかし今、その長方形のボックスは、音楽を紡ぎ出すための機能的な中心としては機能していなかった。それはまるで、何かの不吉な儀式のために特別に用意され、周囲の洗練された空間から完全に孤立した祭壇のように見えた。
その台座の上に、周囲の環境とはおよそ結びつかない、狂気すら感じさせる異物が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って立てかけられていたからだ。
それは、一本の『棒』だった。
長さは一メートルと二十センチ弱。その真っ直ぐな形状と長さからして、武道場で使われる剣道の竹刀であることは間違いない。だが、それは僕が体育の授業や、放課後の武道場から聞こえてくる気合いの声とともに見慣れている、あの凛とした武具の姿をしていなかった。
四つ割りの竹を組み合わせ、柄と剣先を丈夫な革の部品で覆い、それらを一本の弦でピンと張り詰めて束ねた、あの機能美に溢れる竹刀の姿はどこにもない。
その竹刀は、持ち手の部分から先端の先革に至るまで、真っ白な医療用の包帯とテーピングによって、一切の隙間なく、執拗なまでにぐるぐる巻きにされていたのだ。
「なんですか、これ」
僕はたまらず、喉の奥から絞り出すように低くひび割れた声で呟いた。
間接照明の柔らかな光を浴びて、その真っ白な表面が、まるで自ら不気味な発光をしているかのように浮かび上がっている。ただ適当に白い布が巻かれているだけではない。手を伸ばせば触れられるほどの至近距離で観察すると、その作業の異常なまでの執念と精巧さが浮き彫りになってくる。
まず下地として、純白の医療用綿包帯が全体に厚く巻きつけられている。それは、出血を伴うような深い傷や、骨折した患部を保護するための、柔らかく吸水性の高い本格的な医療用品だ。そして、その柔らかい包帯の上から、今度は関節や筋肉を強固に固定するための非伸縮性の白いテーピングテープが、螺旋状に幾重にも重ねて締め上げられている。
包帯の柔らかい質感を、硬いテープが暴力的なまでの強い力で押さえ込み、ところどころで竹刀の本来のスマートな輪郭すら失わせるほどに、不自然な凹凸を作って膨れ上がっていた。
それはまるで、肉が削げ落ちるほどの取り返しのつかない大怪我を負った人間の手足を、無理やり元の形に繋ぎ止め、機能不全に陥った肉体を強制的に活動させるために施された、痛々しくも生々しい医療処置の痕跡そのものだった。
直感的な、生理的な不快感が僕の胃の腑から込み上げてくる。
この音楽室は、月見坂市が莫大な予算を投じて構築したスマートシティのインフラの恩恵を最大限に受けている空間だ。部屋の奥に鎮座する高価なグランドピアノの、鏡のように磨き上げられた黒光りする塗装。壁際に並ぶ、ホルンやユーフォニアムといった真鍮製の管楽器が放つ黄金色の輝き。あるいは、特定の周波数の反響を抑えるために計算され尽くした木目調の音響パネルが作り出す、幾何学的な美しさ。
それらの『芸術と調和』を象徴する美しい人工物たちの中心で、この『大怪我の手当てを施された棒』が放つ異質さは、あまりにも際立っていた。
無機質なただの竹の棒であるはずの竹刀が、まるで脈打つ血肉を持った生き物であるかのような錯覚。痛覚など持たないはずの物質に対して、修復や保護を意味する『治療』が執拗に加えられているという強烈なミスマッチ。それらが複雑に絡み合い、見る者の脳の処理に深刻なエラーを起こさせ、得体の知れない気味の悪さを際限なく増幅させているのだ。
壁際に逃げ込んだ吹奏楽部の部員たちが、これに触れることすら躊躇い、遠巻きにして怯え、文化祭前の貴重な合奏を放棄してまで避難していた理由が、今なら痛いほど理解できた。
こんなものに安易に触れれば、自分の中にまでその不浄で執念深い感情が物理的に感染してしまうのではないか。人間の根源的な防衛本能が、この棒への接触を全力で拒絶している。理屈ではない。ただ直感として、これは『触れてはならないモノ』なのだと、五十人の生徒全員が悟っていたのだ。
「あの、如月さん。それに、朔くんも」
不意に背後からかけられた弱々しい声に、僕はびくっと肩を揺らして振り返った。
そこには、吹奏楽部の学生指揮者を務める三年生の男子生徒が立っていた。手には、先端が少し欠けた愛用の指揮棒が力なく握られている。普段ならこの指揮台の上に堂々と立ち、五十人の部員を統率しているはずの頼れる先輩だ。しかし今の彼の顔には、見知らぬ乱入者である僕たちへの怒りや咎めるような色はなく、ただ現状に対する深い困惑と、精神的な疲労の色だけが濃く滲んでいた。
「これ、いつからここにあったんですか」
僕は、この異常な空間の張り詰めた緊張を少しでも解きたくて、努めて冷静な声を取り繕って彼に尋ねた。
この学園は最新のネットワークで管理されている。僕の鞄の中にあるタブレット端末から生徒会のポータルサイトにアクセスすれば、何らかのデジタルの痕跡を辿ることもできるかもしれない。しかし、僕はあえてそれに頼ろうとは思わなかった。すべてがデジタルで完璧に管理されたこのスマートシティにおいて、人間のドロドロとした情動が絡む事象は、往々にしてデジタルの網の目をすり抜けた『死角』で発生する。だからこそ、まずは現場にいる当事者の生の声、アナログな証言を集めることが先決だと判断したのだ。
「今日の昼休み明けだよ。五時間目の授業が始まる前に、少しだけスコアの確認と自主練をしておこうと思って、僕が一番にこの音楽室を開けたら、もうあの状態だったんだ」
指揮者の先輩は、忌々しそうに、しかしどこかひどく怯えた目で、指揮台の上の包帯の竹刀を睨みつけた。
「朝練の時は、あんなもの絶対になかった。今日の朝礼前まで、僕はこの指揮台に立って全体の音出しを指揮していたんだから間違いない。朝練が終わってから昼休みまでの間、音楽室の防音扉は電子錠で完全にロックされていたはずなんだ」
「電子錠なら、生徒証のICチップか顔認証のアクセスログが残っているはずじゃないですか。誰がいつ入ったか、システムを調べればすぐに分かるのでは?」
「それが……」
先輩は深くため息をつき、手元の指揮棒を苛立たしげに反対の手で叩いた。
「文化祭前で、他所のクラスや実行委員の連中も、巨大なベニヤ板や機材の搬入でこの廊下を頻繁に行き来してるだろ。昼休みの間、打楽器の移動や換気のために出入りしやすいよう、一時的にシステムのセキュリティレベルを落として『常時解錠モード』に設定してしまっていたんだ。そのせいで、誰がいつ入ってきたかの個別ログが記録されていない。完全に僕の管理ミスだ」
文化祭という非日常の熱狂が、スマートシティの強固なセキュリティに思わぬアナログな死角を作り出していたのだ。
「誰のタチの悪いイタズラか知らないけど、あんな気味の悪いモノ、誰も触りたがらないんだよ。一時間くらい前までは、副部長が『誰かあれ捨ててこいよ』って一年生に命令して、一年生は『気持ち悪いから嫌です』って泣きそうになって、結局誰も手を出せなくて……そのまま合奏のフォーメーションも組めず、バラバラに個人練習で時間を潰すしかなかったんだ。文化祭まで時間がないのに、完全に部内の空気が崩壊してる」
「演劇部の小道具とか、美術部が作った前衛的なオブジェの置き忘れって線はないですか。彼らなら、こういう奇抜なものを作りそうですけど」
「ないよ。いくらなんでも非常識すぎる。文化祭前でどの部活もピリピリしてるのに、わざわざ他所の部活の聖域である指揮台のど真ん中に、あんな呪いのアイテムみたいなものを放置するなんて。これはただの嫌がらせだ。吹奏楽部の活動を邪魔したい奴の、陰湿なイタズラなんだ」
先輩の吐き捨てるような言葉に、僕は小さく頷いた。
そうだ、ただの悪質なイタズラだ。誰かが昼休みの電子錠が解除されていた隙を突いて忍び込み、わざわざこんな手の込んだ不気味なモノを設置して部員たちを脅かそうとした。動機は分からないが、吹奏楽部に恨みを持つ他部活の生徒か、あるいはレギュラーを外された部員への個人的な嫌がらせかもしれない。そう考えれば、この不快な事象も『タチの悪い陰湿な悪戯』という、高校生活という日常の枠内にどうにか収めることができる。
僕は内心でホッと息を吐き、隣に立つ如月さんに視線を向けた。「どうやら、ただのイタズラみたいですよ」と、この場を切り上げる口実を見つけたつもりだった。
しかし、如月さんは僕と先輩の会話など、最初から全く耳に入っていないようだった。
彼女は指揮台の縁に身を乗り出すようにして、一四七センチの小柄な体を少しだけ前傾させ、真っ白に膨れ上がったその棒を舐めるような視線で静かに観察していた。
彼女の艶やかな漆黒のストレートヘアが肩から滑り落ちる。その美しいアメジストの瞳は、僕が推測したような人間関係のトラブルや、先輩が語る部内の内情といった不確かな情報ではなく、目の前にある『モノ』が発する確固たる物理的な情報だけを貪欲に拾い上げている。
「愚鈍な推測じゃな、サクタロウ」
不意に、如月さんの冷徹な声が音楽室の空気を切り裂いた。
「陰湿な嫌がらせ? 小道具の置き忘れ? お主らは、この空間の底にどろどろと沈殿している、生々しいルーツの臭いにすら気づかぬのか。事象の表面しか見えぬ節穴の目しか持っておらぬとは、本当に嘆かわしいことじゃ」
「臭い、ですか」
僕が怪訝な顔をして問い返すと、如月さんは呆れたように小さく息を吐き、ツンと形の良い鼻先を動かした。
「五感を研ぎ澄ませ。スマートシティの無菌室のようなこの空気の中に、微かに、だが確実に混じっている異臭があるじゃろう」
言われて、僕は深く息を吸い込んでみた。
管楽器の真鍮の金属臭、ピストンを滑らかにするためのバルブオイルの匂い、そしてフローリングに塗られたワックスの匂い。それらに混じって、確かに嗅ぎ慣れない匂いが微かに鼻腔を突いた。
ツンとした、薬品のような、あるいはゴムの接着剤のような独特の揮発臭。
「……テーピングの、粘着剤の匂いですか」
「左様。酸化亜鉛を多く含む、非伸縮性テーピング特有の強力な接着剤の匂いじゃ」
如月さんは竹刀に巻かれた包帯の表面を、まるで愛おしい美術品でも眺めるかのように見つめたまま、淡々と事実を紡ぎ出した。
「電子錠のアクセスログというデジタルの記録が残っていなくとも、物理的な証拠は嘘をつかぬ。最新鋭の空調システムが、この部屋の空気を常に循環し、浄化しているはずのこの空間で、接着剤の揮発臭がこれほどはっきりと残っているということは、このテープが巻かれたのはごく最近……数時間以内のことじゃ。つまり犯人は、どこか別の場所でこの気味の悪い棒を作り上げ、それを完成品として持ち込んだのではない」
如月さんはゆっくりと振り返り、僕と指揮者の先輩を射抜くような鋭い視線で見据えた。
「犯人は、昼休みの誰もいないこの音楽室に忍び込み、この指揮台の前に一人で立ち、少なくとも数十分間、黙々とこの竹刀にテーピングを巻き続けていたのじゃ。何かに憑かれたように、強烈な情動をその両手に込めてな」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たい氷の柱をねじ込まれたような強烈な悪寒が走った。
昼休みの静まり返った音楽室。分厚い防音扉を閉め切り、完全に社会から隔絶された密室の中で、たった一人、不気味な医療用テープを竹刀に巻き続ける誰かの後ろ姿。
一・二メートル近くある長い竹刀の端から端まで、これほど分厚く、かつ一切の隙間なく包帯とテーピングを巻きつける作業には、相当な時間と労力が必要だ。ただ巻くだけではない。テープのシワを伸ばし、一定の強いテンションを保ちながら螺旋を描いて巻き上げていくのは、相当な指先の力と途切れない集中力を要する。
そんな狂気じみた作業を、誰にも見られずに、いつ人が入ってくるかも分からないこの場所で完遂したのだ。
それは、単なる『嫌がらせ』や『悪戯』といった言葉で片付けられるような、底の浅いエネルギーではない。
そこには、もっと深く、暗く、気が狂うほどの強い執着と、どうしようもない未練、あるいは祈りにも似た怨念のようなものが確実に存在している。如月さんの言う通り、これはただの忘れ物などではない。誰かの異常なまでの情動が物理的な形を成した、紛れもない『ルーツの痕跡』なのだ。
如月さんはゆっくりと姿勢を正すと、指定のブレザーのポケットにスッと手を入れた。
「小道具や悪戯という凡庸な殻を被ってでも、ここに己の痕跡を残さねばならなかった不器用な情動。……さあ、わしに見せてみるがよい」
彼女の白く美しい手がポケットから取り出したのは、二つのアイテムだった。
一つは、直接モノに触れ、そこに残されたわずかな物理的証拠を拾い上げるための、純白の手袋。
そしてもう一つは、銀色の美しい装飾が施された、重厚な懐中時計。
不協和音が消え去り、恐怖と忌避感が支配する音楽室の重苦しい静寂の中で、デジタルの網の目をすり抜けた人間の情動を解き明かす、如月瑠璃の本当の『鑑定』がいよいよ始まろうとしていた。




