第3話『結晶』 ~section6:デジタルの妄信と、清めの盛り塩~
ゴォォォォォォォォォッという、鼓膜を直接引き裂くような猛烈な風の咆哮だけが、旧校舎七階の屋上を暴力的に支配していた。
夕日に赤黒く染まった広大なコンクリートの平原。その完全なる中心点、四方のパラペットから引かれた見えない対角線が交差する幾何学的な特異点に、それはひっそりと、しかし周囲の荒涼とした風景を拒絶するような異様なまでの自己主張を伴って鎮座していた。
光の反射すら計算されたかのような、極めて透明度の高い半球状のアクリルカバー。
その内側に封じ込められているのは、手のひらに収まるほどのささやかな、しかし夕日の残光を受けて鮮烈な色彩を放つ『紅白の粉末』の山だった。
無機質で退色したグレーのコンクリート床において、その純白と真紅のコントラストはあまりにも生々しい。まるでそこにだけ別の次元の法則が適用されているかのような錯覚すら覚えさせる。強力な透明のシーリング材によってコンクリートと完全に一体化し、外気の侵入を一切許さないその密閉空間は、周囲でどれほど大気が荒れ狂おうとも、中のサラサラとした粉末の美しい円錐形を完璧に保ち続けていた。
「透明なカバーで、完全に密閉されている……。これなら、どんな強風が吹いても、雨が降っても、中の粉は絶対に吹き飛ばないし、濡れることもない。……でも、なんでわざわざこんな手の込んだことを?」
僕は強風に煽られてバランスを崩しそうになりながら膝を突き、アクリルカバーの表面に顔を近づけた。
見れば見るほど、不気味だった。ただの悪戯でこんな大掛かりなことをするはずがない。接着剤が完全に硬化しているところを見ると、今日昨日に設置されたものではないことは明らかだ。この広大な学園全体を使った巨大なダイヤモンドの見立て。その構想を練るために犯人が到達したこの『俯瞰の特異点』に、わざわざこのような手の込んだ祭壇のようなものを構築した理由。
赤と、白の粉末。
僕の脳内で、その二つの色彩と、この『旧校舎の屋上』という特殊な空間の条件が、一つの不吉な連想ゲームを開始した。
「赤と白……紅白。そして、このこんもりと盛られた山の形……。如月さん、これってもしかして……『塩』じゃないですか?」
僕が顔を上げて尋ねると、如月さんは風に靡く漆黒の髪を純白の手袋で押さえながら、無言のままアメジストの瞳をすがめて僕の次の言葉を待った。その冷徹な視線に促されるように、僕は自らの思いつきを、確信を持って言葉にしていく。
「盛り塩ですよ。よく飲食店の入り口とか、曰く付きの土地の四隅に置いてある、あれです。でも、これはただの厄除けや客寄せじゃない。ここは旧校舎の、しかも立ち入り禁止の屋上だ。こんな場所にわざわざ強固なカバーまでかけて、血のような赤と清浄の白を混ぜた不気味な盛り塩を設置する理由なんて、オカルト的な意味合い以外に考えられない」
僕は立ち上がり、風に煽られる制服のブレザーのポケットから、自らの『武器』であるタブレット端末を素早く取り出した。
網膜認証でロックを解除し、月見坂市の高速ネットワークに接続する。夕暮れの薄暗い屋上で、青白いバックライトが僕の顔を人工的に照らし出した。その無機質な光と、指先でタップするたびに返ってくるデジタルの確かなレスポンスが、僕の強張っていた神経を少しだけ落ち着かせてくれる。
「如月さんは物理的な質量しか信じないかもしれないけど、僕たち普通の人間にとっては、こういう『情報』の蓄積も立派なルーツの探求なんです。……古い建物、特に学校の屋上なんていうのは、いつの時代もオカルトや怪談の温床になる。もし過去に、ここで飛び降り自殺や悲惨な事故があったとしたら? この学園の巨大な見立てを実行している犯人は、その怨念や呪いを恐れて、あるいはその儀式の一環として、この屋上のど真ん中に『清めの盛り塩』を設置したんじゃないでしょうか」
僕は震える指先で画面をスワイプし、如月学園の生徒たちだけが暗黙の了解で共有している、非公式のアンダーグラウンドな掲示板サイトへとアクセスした。検索窓に『旧校舎』『屋上』『事故』『飛び降り』『幽霊』といった、いかにもなキーワードを次々と入力していく。
検索結果が、数ミリ秒のラグもなく画面にズラリと表示される。
僕はそれを高速でスクロールしながら、自分の仮説を補強してくれそうな情報を血眼になって探した。
膨大なデジタルの海。そこには、生徒たちが匿名で書き込んだ無数の噂話や、真偽不明の都市伝説が、文字の羅列となって堆積していた。
『七年前、旧校舎の屋上からダイブした女子生徒がいるらしい』
『あの屋上の扉、なんであんな厳重に南京錠と太いチェーンがかかってるか知ってる? 夜になると屋上から足音が聞こえるからだよ』
『オカルト研究会が昔、あそこで降霊術をやって失敗したって噂、マジ?』
『屋上の中心には、絶対に入っちゃいけない結界があるらしい』
断片的な、そしてソースの存在しない無責任なテキストデータ。しかし、今の僕にとっては、それらがすべて点と線で繋がり、一つの巨大な『真実』を形成していくように思えた。
赤は血と怨念を、白は清浄と浄化を意味する。紅白の盛り塩は、強力な怨霊を鎮めるための呪術的な意味合いを持っているのではないか。透明なアクリルカバーは、その神聖な結界を物理的な風雨から永遠に守るための、現代的なアレンジなのだ。
僕の心臓が、恐怖と、そして自らの見事な推理に対する興奮で、ドクドクと早鐘のように鳴り始めた。
僕はタブレットの画面を如月さんの方へと突き出し、早口でまくし立てた。
「見つけましたよ、如月さん! やっぱり、過去にこの学園の旧校舎で、何度か不審な事故が起きているっていう噂が掲示板に書き込まれています! 公式な記録からは月見坂市のスマートシティ構想のイメージダウンを避けるために消されているかもしれないけど、生徒たちの間では都市伝説として語り継がれているんです!」
吹き荒れる風の音に負けないよう、僕は声を張り上げた。
「間違いない。あの天才投手は、学園全体を野球盤に見立てるという狂気の計画を実行するにあたって、この場所を『神聖な儀式の中心』に選んだんだ。だからこそ、一番高くて誰にも見られないこの場所に、呪い避けの『紅白の盛り塩』を置いた。あのアクリルカバーは、ただの風除けじゃない。結界を維持するための、完全な密閉容器なんです! 犯人は、ただの物理的な腕力や幾何学的な計算だけじゃなく、こういう呪術的な儀式にまで手を出している、本物の異常者なんですよ!」
息を切らして一気に推論を披露した僕は、達成感とともに如月さんの反応を待った。
これだけ論理的に、情報の裏付けを持って説明したのだ。いくら彼女でも、この不気味な紅白の粉末の正体が「オカルト的な盛り塩」であることを認めざるを得ないはずだ。
しかし。
如月瑠璃の反応は、僕の期待したような驚きでも、納得でもなかった。
彼女は、僕が突き出したタブレットの青白い画面に、ただの一瞥もくれなかった。
吹き荒れる強風の中、漆黒の髪を激しく靡かせながら、彼女はただ、極北の氷河よりも冷たいアメジストの瞳で、僕の顔を真っ直ぐに射抜いていた。
その視線には、怒りすらない。ただ、救いようのない知的生命体を見るような、絶対的な『軽蔑』と『憐憫』だけが浮かんでいた。
「……終わったか? その、耳障りで中身のない、電子のゴミの読み上げは」
強風のノイズを切り裂くように、如月さんの凛とした、しかし絶対零度の声が響いた。
「え……? いや、ゴミって……でも、ここにちゃんと過去の事故の噂が……」
「愚鈍」
たった二文字の宣告。
それは、僕の構築したデジタルの論理の城を、一瞬にして粉砕するほどの圧倒的な質量を持っていた。
「愚か者め。お主はまたしても、その薄っぺらいデジタルの板切れの中に逃げ込み、自分の見たい幻影だけを繋ぎ合わせて『真実』を作り上げた気になっておる。それがどれほど非論理的で、観測者として恥ずべき致命的な行為であるか、まだ理解できんのか」
如月さんは、呆れたように小さく息を吐き、純白の手袋に包まれた指先で、僕の持つタブレットの画面をパシリと弾いた。
「画面の中のオカルトに逃げるな。サクタロウ。匿名という安全圏から放たれた、質量もルーツも持たない文字の羅列など、この世界の物理法則においては何の根拠にもならん。お主が今読み上げたその情報は、誰が書いた? いつ書いた? その飛び降りたという現場を、誰が物理的に観測した? ……すべてが不明な、ただのノイズの集合体じゃろうが」
「で、でも! じゃあ、この赤と白の粉末は何なんですか! こんな屋上のど真ん中に、丁寧にカバーまでかけて接着されている不自然な粉なんて、オカルト的な儀式の『盛り塩』以外に説明が……」
「だから、愚鈍だと言うのじゃ」
如月さんは、僕の言葉を冷酷に遮り、コンクリートの床に固着されたアクリルカバーの中の『紅白の結晶』を冷徹な眼差しで見下ろした。
「お主は、その画面の中の『幽霊』や『呪い』という情報に脳を支配された結果、目の前にある物質の物理的な特性を自らの目で観察することを完全に放棄した。赤と白だから、そして山のように盛られているから『盛り塩』であるという非論理的な思い込みによって、自らの観察眼を自ら塞いでしまったのじゃよ」
如月さんは、ゆっくりと僕の方へと向き直り、そのアメジストの瞳で僕の逃げ道を完全に塞いだ。
「お主は、そのカバーの向こう側にある粉末の『質量』を、己の目で正しく見極めたと言えるか? 光の反射率は? 水分の含有量は? 粒子の形状は? ……何も見ておらぬだろう。お主はただ、自分の抱いた恐怖という感情を正当化してくれる都合の良いテキストデータを、その板切れの中から探し出してきただけじゃ」
彼女の言葉は、ぐうの音も出ないほどの正論だった。
確かに僕は、その粉末が『本当に塩なのかどうか』を、一度も疑わなかった。赤い粉末が『本当に血の跡なのか』を、自分の目で確かめようともしなかった。ただ不気味なシチュエーションに怯え、手元のタブレットが弾き出した『検索結果』にすがりついただけだ。
スマートシティの住人である僕にとって、検索エンジンが提示する答えは常に『正解』だった。しかし、如月瑠璃の生きる世界——すべてのモノが確かな質量とルーツを持つ物理の世界において、僕の行為はただの現実逃避でしかなかったのだ。
「情報の海で溺れるのは終わりじゃ、サクタロウ。その無能な板切れの電源を落とし、鞄にしまえ」
如月さんは、ブレザーのポケットへと純白の指先を滑らせた。
「この世界に、呪いも幽霊も存在せん。あるのは、そこに不自然に置かれた質量の事実と、それを残した人間の、血の滲むような物理的動作の痕跡だけじゃ。……これより、この空の玉座に残された真のルーツを、物理法則という絶対的な定規を用いて解体してやろう」
吹き荒れる強風の中、僕が羞恥心に顔を赤くしながらタブレットの電源を落とすと、青白いデジタルの画面は漆黒に染まり、僕の逃げ道は完全に絶たれた。
それと同時に、如月さんがポケットから『あるもの』を取り出す、微小で硬質な金属音が響いた。
彼女の神聖なる物理的解体の儀式が、いよいよその幕を開けようとしていた。




