第2話『暗箱』 ~section10:第2のルーツと、1日目の終了~
スマートフォンの頼りない光の軸を、僕は恐る恐る体育館の中央――僕と如月さんが今立っている、まさにこの広大な空間のど真ん中へと向けた。
頭上十五メートルには、摩擦熱で滑車を焼き切るほどの命懸けの振り子運動によって天空へ捧げられた、三つの車輪が鎮座している。ならば、その真下にあたるこの場所こそが、投手自身を示すルーツである『マウンド』の座標になるはずだ。
光の円環が、自律型清掃ロボットに磨き上げられたリノリウムの床面を舐めるように動く。
僕は息を止め、そこに落ちているであろう『投手の痕跡』――例えば、ボールの縫い目の切れ端や、マウンドのロージンバッグの白い粉、あるいは彼自身の血や汗の染みなどを探し求めた。
しかし、何度光を往復させても、床には先ほど確認した『グラウンドの土の残骸』以外、何一つ異常なものは落ちていなかった。
「……何もない。如月さん、マウンドを示すルーツなんて、床のどこにも見当たりませんよ」
僕が戸惑いの声を上げると、如月さんは暗闇の中で静かに息を吐き出した。
「お主はまた、目に見える『モノ』の形ばかりを探しておる。この巨大な見立てにおいて、存在しないこと自体が最大のメッセージであると、先ほどの四つ目の車輪の欠落で学んだはずじゃろう」
「存在しないこと自体が、メッセージ……?」
「そうじゃ。サクタロウ、鞄から再びお主の得意なデジタルの板切れを取り出し、如月学園の『全体見取り図』を開いてみよ」
僕は言われるがままにタブレットを起動し、学園のポータルサイトから校内の全体マップを表示させた。青白いバックライトが、僕たちの顔の輪郭を幽霊のように暗闇に浮かび上がらせる。
画面には、広大な敷地を誇る如月学園の施設配置が、幾何学的な平面図として描かれていた。西の正門から入り、特別室が並ぶ南棟。そこから教室が連なる東棟へと繋がり、さらに北の体育館へと至る、コの字型にも似た巨大な建造物群。
「まず、第一のルーツがあった場所じゃ。今日の昼、我々がいた南棟三階の『音楽室』。そこにピンを立てよ」
僕は画面をタップし、西の正門近くに位置する南棟の音楽室に、赤いマーカーを置いた。
「次に、あのバッターボックスに立った打者の視線の先……窓の向こうに見えていた、グラウンドの『ピッチャーマウンド』にピンを立てよ」
南棟の窓から見下ろせる、校舎群に囲まれた学園の中央に広がる広大な野外グラウンド。その中心にあるマウンドの座標に、二つ目の青いマーカーを置く。
「そして最後じゃ。今我々が立っている場所。南棟から東棟を抜け、さらに渡り廊下を渡った先……学園の北に位置するこの巨大な『体育館』の中央に、三つ目のピンを立てるのじゃ」
僕は画面をスワイプし、北の体育館のアリーナの中心に、三つ目の黄色いマーカーを落とした。
赤、青、黄色。
三つのピンが、タブレットの画面上で点灯する。
「……ピンを立てました。でも、これが一体何に……」
僕は画面を見下ろしたまま、言葉を失った。
三つのピンの位置関係。それは、無造作に散らばっているわけではなかった。
南棟の音楽室を頂点とし、中央のグラウンドを真っ直ぐに貫き、北の体育館へと向かって、巨大な扇を広げるようにして、完璧な『野球のダイヤモンド』の陣地を形成していたのだ。
「気付いたようじゃな、サクタロウ」
如月さんの声が、僕の脳の芯を冷たく震わせた。
「あの天才投手は、この暗箱の体育館の中だけで完結するような、小さな箱庭のゲームを描いたわけではない。南棟の音楽室という極小のバッターボックスを本塁と定め、中央のグラウンドの実際のマウンドを投手席とし、そして北のこの巨大な体育館の天空を、走者が駆け抜けるための『塁ベース』として見立てたのじゃ。南から北へ。己の投じる幻の白球の軌道を、この学園の建造物すべてを使って表現したのじゃよ」
僕はタブレットを持つ手をガタガタと震わせながら、その絶望的なスケール感に圧倒されていた。
「学園の、敷地全体……。南棟から中央グラウンド、そして北の体育館まで。数百メートルにも及ぶ如月学園のキャンパスすべてを、たった一つの『巨大な野球のダイヤモンド』として空間を上書きしたっていうんですか……!」
「左様。ただの狂気ではない。完璧な空間認識能力と、それを実行に移すだけの圧倒的な身体能力。そして何より、失われた相棒との幻のゲームを、この学園という世界そのものに刻み込もうとする、底知れない執念じゃ」
僕が体育館の床でマウンドの痕跡を見つけられなかったのは当然だったのだ。
なぜなら、この体育館はダイヤモンドにおける『一塁・二塁・三塁』のベース領域そのものであり、マウンドはここから遥か南、中央グラウンドに設定されているのだから。
十五メートルの天空に吊るされた三つの車輪は、体育館の天井という極地であると同時に、この学園全体を覆う巨大な見立ての『外野の果て』を強引に定義するための、残酷な楔だった。
「……恐ろしい。たった一人の人間の、純粋な情念と腕力だけで、この最新鋭のスマートシティの地図が、完全に彼個人の『野球盤』に塗り替えられている」
僕はタブレットの画面から顔を上げ、再び漆黒の体育館の闇を見渡した。
先ほどまで感じていた、暗黒に対する生理的な恐怖はすっかり消え失せていた。代わりに僕の胸を満たしていたのは、自らの命を削ってまでこの巨大な儀式を執り行っている『姿なき投手』に対する、純粋な畏怖の念だった。
彼は、この学園のどこかに潜み、明日の文化祭本番でも、この幻のゲームを進行させようとしているのだろうか。それとも、三つの車輪を天空に捧げた時点で、彼の葬送は終わったのだろうか。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
その時、完全な無音の密室だった体育館に、唐突に電子的な和音が鳴り響いた。
一瞬、犯人の仕掛けた新たなトリックかと思い肩を跳ねさせたが、それはすぐに、月見坂市の防災行政無線と連動した、学園の『午後五時の下校チャイム』のメロディだと気付いた。
分厚い防音の暗幕越しでも微かに聞こえてくるその夕焼け小焼けの旋律は、僕たちがいかに異常な空間の淵に立たされていたかを、無理やり日常のスケールへと引き戻すような、ひどく間の抜けた響きを持っていた。
「午後五時。もう、そんな時間ですか」
僕が緊張の糸を少しだけ緩め、スマートフォンの画面で時刻を確認すると、如月さんは静かに息を吐き、右手の純白の手袋の指先を左手で摘まんだ。
「時間切れじゃな。今日のところは、この巨大なダイヤモンドの外堀と、ベースのルーツを解明しただけで良しとしよう」
彼女は、まるで舞台の幕引きを宣言するように、一切の未練なく純白の手袋を引き抜いた。
左手、そして右手。
神聖な鑑定の儀式を終えた手袋が、丁寧に折りたたまれ、指定のブレザーのポケットへと仕舞い込まれる。
彼女のその流れるような所作によって、体育館を支配していた重苦しい情動の質量が、スゥーッと潮が引くように薄れていくのを感じた。
「本日はここまでじゃ、サクタロウ。犯人の描いた図面の広大さは理解できたが、焦って闇雲にベースを追い求めても、我々が彼のペースに巻き込まれるだけじゃからな」
「そう、ですね。それに、これ以上この暗闇にいたら、本当に僕の精神がすり減ってしまいそうです」
僕はタブレットを鞄にしまい、深く安堵の溜息をついた。
如月さんは踵を返し、僕のライトの光を待つことなく、体育館の中央北側にある扉――外界へ通じる防音扉ではなく、旧校舎へと続く古い渡り廊下の入り口に向かって、真っ直ぐに歩き出した。僕は慌てて彼女の小さな背中を追いかける。
軋むような音を立てて、体育館北側の重い扉を押し開く。
瞬間、外界の生温かい空気と、遠くで響く吹奏楽部の練習音、そして文化祭の準備を終えて帰路につく生徒たちのざわめきが、暴力的なまでの日常のエネルギーとなって僕たちを包み込んだ。
夕日に赤く染まった、新校舎とは比べ物にならないほど古い木造の渡り廊下。そこから見上げる空が、酷く眩しく、そして懐かしく感じられる。
「帰るぞ、我らが拠点へな」
如月さんは、夕日を背に受けて美しい漆黒の髪を揺らし、旧校舎の図書室へと続く古い木張りの床を、コツコツと心地よい足音を立てて進み始めた。
僕たちの目指す場所は、彼女が勝手にアンティーク家具を持ち込み、自分だけの聖域に作り変えたあの図書室だ。あそこなら、この巨大なダイヤモンドの見立てから切り離された、絶対的な安全地帯として息をつくことができる。
「はい、お疲れ様でした、如月さん」
僕はスマートフォンのライトを消し、夕日の差し込む古い渡り廊下を彼女と並んで歩き始めた。
しかし、僕の視界の端には、未だにあの十五メートルの天空で、誰も触れることのできないまま宙吊りにされている『三つの車輪』の残像が焼き付いて離れなかった。
南棟が本塁。北の体育館が塁ベース。
ならば、来月に迫る文化祭本番。
この巨大なダイヤモンドにおいて、あの天才投手は一体どこに現れ、誰に向かって最後の『幻の白球』を投じようとしているのだろうか。
狂気と哀しみに満ちた見立てのゲームは、まだ一回の表が終わったばかりだ。
夕日に染まる古い渡り廊下に、二つの長い影が静かに伸びていく。
僕たちの、ルーツを探るための長くて重い一日目が、こうして静かに幕を下ろした。




