第2話『暗箱』 ~section1:バッターボックスの余韻と、旧校舎への動線~
『打席が用意されているということは、グラウンドはまだ他にもあるということじゃ』
前を歩く小柄な少女の背中から放たれたその絶対的な宣告は、僕の脳内で何度も、何度も、不吉な警鐘のように反響し続けていた。
新校舎三階の廊下。文化祭を一ヶ月後に控えた月見坂市のスマート校舎は、放課後の無邪気な狂騒と熱気に満ち溢れていた。
天井に等間隔で埋め込まれた昼白色のLED照明が、チリ一つない清潔なフローリングの床を煌々と照らし出している。廊下の両側に並ぶ各教室のドアはすべて開け放たれ、そこからは段ボールを切り刻むカッターの音、電動ドライバーの甲高い駆動音、そして絵の具やスプレーの匂いが、生徒たちの笑い声とともに次々と溢れ出してきている。数メートル先では、文化祭実行委員の腕章をつけた女子生徒たちが、色鮮やかな装飾が施された看板を囲んで何やら楽しげに議論を交わし、さらにその奥からは、模擬店で使うための大量のパイプ椅子を乗せた台車を、男子生徒たちがふざけ合いながら乱暴に押してくる姿が見えた。
それは、どこにでもある、安全で、平和で、エネルギーに満ちた高校生活のありふれた日常風景だった。
ほんの数十分前、この場所を通って音楽室へと向かっていた時の僕も、間違いなくこの無邪気な日常の風景の一部として、彼らと同じ世界を生きていたはずだった。
しかし今、僕の目に映るこの学園の風景は、先ほどとは全く異質の、ひどく歪で、得体の知れない緊張感を伴ったものへと変質してしまっていた。
僕の視界の中で、楽しげに笑い合う生徒たちの姿が、まるでピントの合わない不鮮明なノイズのようにぼやけていく。
代わりに僕の脳髄を強烈に刺激し、視界の解像度を強制的に引き上げてくるのは、如月瑠璃という天才の『情動の視座』によって暴き出された、この学園に潜む狂気のルーツそのものだった。
音楽室のど真ん中に作られた孤独なバッターボックス。
手首を破壊してでも最後まで振り抜くために作られた、鉛の詰まった異形のバット。
そして、それを用意した見えざる犯人が、この学園全体を『巨大な野球のダイヤモンド』に見立てているという、途方もないスケールの異常行動の可能性。
幽霊や呪いといった、実体のないオカルトに対する恐怖なら、論理で否定すれば消え去ってくれる。
しかし、僕が今抱いている恐怖は、それとは全く違うベクトルだった。
犯人は、幽霊などではない。この学園のどこかにいる、血の通った生身の人間だ。
生身の人間が、監視カメラの死角を計算し、重い指揮台の角度を微調整し、ミリ単位で空間の幾何学を計算して、この学園の施設を『野球の陣地』に作り変えている。
その圧倒的なまでの物理的労力と、それを支える異常な執念。
僕は、無意識のうちに自分の両腕をさすりながら、前を歩く如月さんの小さな背中を慌てて追いかけた。
「如月さん……待ってください」
僕の震える声に、彼女は歩みを止めることなく、ただ冷徹な声だけを背越しに投げ返してきた。
「歩幅が狭いぞ、サクタロウ。お主のポンコツ脳は、たった一つの見立ての可能性を提示されただけで、足の筋肉の動かし方すら忘却してしまったのか?」
「そうじゃなくて……怖いんですよ。如月さんがさっき言った通りなら、この学園全体が、犯人の作った『狂気の野球盤』の上に乗っているってことじゃないですか」
僕は、周囲の喧騒に紛れさせながら、声を潜めて訴えた。
「廊下ですれ違う生徒たちも、文化祭の準備をしている実行委員たちも、誰も気づいていない。でも、犯人は確かにこの学園のどこかに『見えない白線』を引いている。僕たちは今、その見えないフィールドの上を歩かされているんじゃないかって……そう考えると、足の裏から嫌な汗が止まらなくて」
それは、実体のない幽霊に怯えるのとは違う。
物理的な距離と寸法が弾き出した、極めて論理的で切実なパラノイアだった。
「ふん。気づかぬまま日常を謳歌できるのは、凡人の特権じゃ。ルーツを読み取る目を持たぬ者たちは、見えない白線を踏み越えようが、マウンドの上で弁当を食べようが、何一つ恐怖を感じることはない」
如月さんは、階段の踊り場に差し掛かると、リズミカルな靴音を響かせて一階へと降り始めた。
「しかし、一度その深淵を覗き込み、事象の裏側に張り巡らされた『見立ての幾何学』を認識してしまった者には、もう元の幸福な風景は二度と見えぬ。お主のその恐怖は、事象の表面を撫でるだけの愚鈍な思考から、一段階上の『論理の視座』へと足を踏み入れた証拠じゃ。助手としては、わずかばかりの進歩と言えるじゃろうな」
彼女の言葉は、慰めでも何でもなかった。
むしろ『お前はもう、こちら側の世界に引きずり込まれたのだ』という、残酷な事実の宣告に他ならなかった。
一階に降りた僕たちは、新校舎の出口を抜け、グラウンドの脇に併設された屋根付きの連絡通路へと出た。
西日がグラウンドの土を赤く染め上げ、人工芝の緑とのコントラストを奇妙なほど鮮やかに浮かび上がらせている。
僕は、グラウンドの中央にあるピッチャーマウンドから、できるだけ視線を外すようにして歩いた。あの土の盛り上がりを見るたびに、音楽室の窓ガラス越しに孤独な素振りを繰り返していた、見えざる打者の狂気が脳裏にフラッシュバックしてしまいそうだったからだ。
「如月さん。僕たちの目的地は、旧校舎の図書室ですよね」
僕は、彼女の斜め後ろ――助手としての定位置をキープしながら、確認するように尋ねた。
「当然じゃ。それとも他に行きたい場所でもあるのか?」
「そうではないんです。……ただ、この動線が、どうしても気になってしまって」
僕は、連絡通路の先にある巨大な建造物を見据えながら、ゴクリと乾いた喉を鳴らした。
如月さんが勝手に占拠し、拠点としているアンティーク家具だらけの『図書室』は、このスマートシティのインフラから見放された、敷地の最も北の端にある『旧校舎』に位置している。
この新校舎の南棟から旧校舎へと向かうための動線は、事実上、一つに限られていた。
グラウンドの脇の東棟を通り、グラウンドの対岸にある『北棟』――すなわち、巨大な『体育館』へと向かう。
そして、その体育館の中をショートカットするように横切り、裏手にひっそりと繋がっている古い『渡り廊下』を渡ることで、ようやく目的の旧校舎へと辿り着くことができるのだ。
つまり、僕たちは旧校舎へ帰るために、嫌でもあの巨大な体育館を通り抜けなければならない。
「動線が気になるとは、どういうことじゃ?」
如月さんが、前を向いたまま問い返してきた。
「……音楽室が、本塁でしたよね」
僕は、自分の頭の中で組み上がってしまった、恐るべき幾何学の図面を口にした。
「そして、グラウンドの中央が、ピッチャーマウンド。……もし犯人が、公認野球規則のダイヤモンドの寸法を、この学園の敷地全体に正確に投影しているのだとしたら。本塁からマウンドを通って、その一直線の延長線上にある『二塁ベース』、あるいは一塁や三塁を含む外野の陣地は……」
僕は、連絡通路の先にそびえ立つ、巨大な壁のような建造物を指差した。
「あの『体育館』の領域と、完全に重なり合うことになるんです」
僕の推測を口にした瞬間、足元から冷たい泥水が這い上がってくるような錯覚に陥った。
もし犯人のゲームが現在進行形で続いているのだとすれば、僕たちがこれから通過しようとしているあの体育館は、単なるスポーツ施設などではない。犯人が『二塁ベース』周辺のフィールドとして見立てた、次なる狂気の舞台そのものなのだ。
見えない白線を踏み越える恐怖が、僕の足を重くする。
しかし、如月さんは僕の論理的なパラノイアを聞いても、立ち止まるどころか、むしろその歩調をわずかに速めた。
「ほう。なかなかどうして、捨てたものではないなサクタロウ」
彼女の横顔には、恐怖など微塵もなかった。あるのは、己と同じほどの冷徹な計算能力を持った何者かの思考をトレースする、純粋で危険な知的好奇心の光だけだ。
「空間の幾何学を平面に投影し、次なる特異点の座標を自ら導き出したか。その推論が正しいかどうか、わしの目で直接確かめてやろうではないか」
連絡通路を抜け、僕たちの目の前に、ついにその巨大な体育館が立ちはだかった。
如月学園の全校生徒を一度に収容できるほどのアリーナを誇る、月見坂市のスマートシティ構想の結晶の一つ。
しかし、その外観を目にした瞬間、僕は思わず息を呑み、歩みを完全に止めてしまった。
前を歩いていた如月さんもまた、ピタリと足を止め、アメジストの瞳を細めてその巨大な建造物を見上げていた。
「……なんだ、これは」
僕の口から、困惑と畏怖の入り混じった呟きが漏れた。
この体育館は、本来であれば、自然光を最大限に取り入れるために、壁面の上半分がすべて巨大な強化ガラスで覆われた、非常に明るく開放的なデザインになっているはずだった。日中であれば、照明を点けずとも太陽の光だけで十分に競技が行えるほどのエコシステムが組み込まれているのだ。
しかし今、僕たちの目の前にそびえ立っている体育館は、その本来の姿とは全く異なる、異様で不気味な様相を呈していた。
壁面の巨大な強化ガラスのすべてが、内側から下ろされた分厚い黒布によって、完全に覆い隠されていたのだ。
太陽の光を完全に遮断するための、重厚な『暗幕』。
それは、体育館の一階部分の窓から、遥か上方の二階観覧席の窓に至るまで、文字通り一切の隙間なく、徹底的に引かれていた。
普段の明るく開放的なガラス張りの施設はどこにもない。そこにあるのは、光を吸い込むような漆黒の暗幕によって完全に密封され、周囲の風景から完全に孤立した、巨大な『ブラックボックス』だった。
「文化祭の、ステージ設営……ですよね」
僕は、自分の声が微かに震えているのを自覚しながら、隣に立つ如月さんに言った。
「一ヶ月後の文化祭で、この体育館は軽音楽部のライブや、演劇部のメインステージとして使われます。そのための舞台照明のテストや、プロジェクションマッピングの調整をするために、昼間でも光が入らないように暗幕を引いているんだと思います。大道具の搬入とかも、今週から本格的に始まっているはずですから」
僕は、必死に自分の頭の中で『日常の論理』を組み立て、この異様な光景に正当な理由を付与しようとしていた。
そうだ、これはただの文化祭の準備だ。音楽室の時と同じように、文化祭という非日常のイベントが、この学園のインフラに一時的なイレギュラーを引き起こしているだけだ。そこに、狂気的な見立ての続きを結びつける必要は全くない。
しかし、僕のその必死の自己暗示は、隣に立つ少女の冷徹な一瞥によって、いとも簡単に打ち砕かれた。
「理由などどうでもよい。問題なのは、その結果として、この巨大な空間が今どのような状態に置かれているかじゃ」
如月さんは、暗幕で完全に密封された巨大な体育館の入り口――分厚い鉄製の二重扉を、静かに指差した。
「すべての窓が暗幕で塞がれ、光が遮断された空間。それは即ち、外の監視の目から完全に切り離された『絶対的な死角』が形成されているという物理的な事実じゃ」
彼女の言葉が、西日の当たる連絡通路の空気を、急激に冷たく凍りつかせた。
「音楽室の時は、巨大なベニヤ板の看板が、たった三十分間だけ監視カメラの視界を遮るという、局地的な死角に過ぎなかった。しかし、今のこの体育館はどうじゃ。窓という窓がすべて塞がれ、外部からの視線が完全にシャットアウトされた、容積数万立方メートルにも及ぶ巨大な密室。……お主の言う通り、見えざる投手に捧げられた狂気のゲームがまだ続いているのだとすれば、これほど『好都合なグラウンド』はあるまい?」
僕は、絶望的な悪寒とともに息を呑んだ。
如月さんの言う通りだ。もし犯人が、この学園のインフラの死角を利用して、誰にも見られずに巨大な『見立て』の工作を行っているのだとすれば。
文化祭のステージ設営という名目で合法的にすべての窓が塞がれ、完全なブラックボックスと化したこの体育館は、犯人にとって、まさに願ってもない巨大なアトリエとなる。
僕が先ほど頭の中で描いた『二塁ベース』の幾何学的な位置関係が、この異様なブラックボックスの存在によって、ただの妄想から、恐るべき現実の可能性へと急速に輪郭を帯び始めていた。
「さあ、開けるのじゃ、サクタロウ」
如月さんは、微かに口角を上げ、アメジストの瞳に純粋な知的好奇心の光を宿しながら、体育館の重い二重扉を顎でしゃくった。
「この巨大な暗箱の中で、果たして犯人はどのような狂気的な情動の痕跡を残しているのか。……あるいは、お主の論理的パラノイアが危惧した『見えない白線』が、本当にこの暗闇の中に引かれているのか。わしの観察眼で、直接確かめてやろうではないか」
僕は、ごくりと乾いた喉を鳴らした。
逃げ出したい衝動に駆られたが、助手としてのプライドと、旧校舎へ帰るための唯一の動線であるという事実からは逃れられない。
僕は覚悟を決め、鞄のストラップを握り直すと、光を拒絶するように閉ざされた体育館の重い鉄扉のハンドルへと、ゆっくりと手を伸ばした。
ハンドルを押し下げ、体重をかけて扉を手前に引く。
ギィィ、という、長い間開けられていなかったような重苦しい金属の軋み音が、西日の当たる連絡通路に響き渡った。
そして、扉の隙間から、太陽の光を完全に吸い尽くしたような、圧倒的で濃密な『暗闇』が、物理的な質量を伴って僕たちの足元へと溢れ出してきた。
僕と如月さんは、旧校舎への通過点に過ぎなかったはずのその巨大なブラックボックスの内部へと、静かに足を踏み入れたのだった。




