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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section10:最初の見立てと、続くグラウンド~

 西日の差し込む防音ガラスの向こう側、新校舎の広大なグラウンドに横たわるピッチャーマウンド。

 そこから放たれるはずだった、絶対に来ない幻の白球。

 完璧な音響を誇る音楽室のど真ん中に作られた孤独なバッターボックスと、己の手首を破壊してでも最後まで振り抜くために作られた、異形のバット。

 それらすべての点と点が、如月瑠璃の『情動の視座』という冷徹な方程式によって完璧に結びつけられ、一つの巨大で哀しい景色として僕たちの脳裏に焼き付けられた。


「これは剣の道にあらず。見えない球を待つ者のルーツじゃ」


 静寂に包まれた音楽室の特異点から、如月さんの凛とした声が結論を断言した。

 それは、この狂気的な事象に対する最終的な判決であり、得体の知れない恐怖の正体を、白日の下に引きずり出すための絶対的な言葉だった。

 彼女の断言が響き渡った瞬間、五十人の吹奏楽部員たちを金縛りにしていた目に見えない呪縛が、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。


 人間が最も根源的な恐怖を抱く対象。それは『正体が分からないもの』だ。

 なぜこんな奇妙な形をしているのか。なぜこんな場所に置かれているのか。それが分からないからこそ、人間の脳は勝手に最悪の想像を膨らませ、怨念だの呪いだのといったオカルトチックな恐怖を増幅させてしまう。

 しかし今、如月瑠璃という一人の天才の物理的な観察眼と論理的な解明によって、その未知のベールは完全に剥ぎ取られた。

 得体の知れない気味の悪い呪いのアイテムは、剣道部から盗まれた古い竹刀と、ホームセンターで買える鉛テープ、そして医療用のテーピングで作られた『野球のバットの模造品』へと、見事にその正体を格下げされたのだ。

 そして、そこに込められていたのは、見ず知らずの他者を呪うような陰湿な怨念などではなく、かつての相棒だった見えない投手へ向けられた、不器用で痛切な未練と執念。ただ一人の野球部員が、己の喪失感を埋めるために行った、孤独で哀しい素振りの痕跡に過ぎなかった。


「……なんだ。ただの重いバットだったのかよ」


 壁際で息を潜めていた男子部員の一人が、憑き物が落ちたような声でポツリと呟いた。


「怪我か何かでボールが打てなくなって、それでこんな誰もいない昼休みの音楽室で、一人で素振りしてたってことか……」


「気味悪い呪いとかじゃなかったんだ。……なんか、ちょっと可哀想かも」


「でも、だからって私たちの指揮台を勝手に動かしていい理由にはならないでしょ。しかもあんな重い鉛なんか仕込んで、危ないじゃない」


 壁際から、次々と日常のトーンを持った話し声が波のように広がっていく。

 彼らの言葉には、先ほどまでの半狂乱のパニックや、生理的な忌避感は微塵も含まれていなかった。あるのは、正体が判明したことによる圧倒的な安堵と、ルールを破った見知らぬ犯人に対する同情、あるいは呆れや軽い怒りだけだ。

 如月さんが暴き出した『情動のルーツ』は、凡人である彼らの目には『怪我で野球ができなくなった可哀想な生徒の、迷惑な忘れ物』という、常識の枠内に収まるスケールへと自動的に矮小化されていた。

 得体の知れない異物は、その物理的な構造と情動のメカニズムを完璧に論理的に解明されたことで、彼らにとってはすでに脅威ではなくなってしまったのである。


「おい、一年生! もう気味悪がる必要はない。それはただの重い廃材だ、早くそれを持って、武道場の裏の廃棄ボックスに捨ててこい!」


 副部長の男子生徒が、すっかり落ち着きを取り戻した声で指示を飛ばす。


「はいっ! すぐ片付けます!」


 先ほどまで泣きそうになって拒否していた一年生が、今度は躊躇うことなく指揮台へと駆け寄ってきた。彼は両手でその分厚いテーピングのグリップを握りしめ、「うわっ、本当に先っぽがめちゃくちゃ重い!」と声を上げながらも、それを小脇に抱えて音楽室の防音扉へと走っていく。

 異物が部屋から持ち出されたことで、音楽室の空気は完全に浄化された。


「よし、みんな! 指揮台の角度を元の位置に戻すぞ! 文化祭まで時間がない、すぐに合奏のフォーメーションを組み直すんだ!」


 学生指揮者の先輩が、欠けた指揮棒を振り上げながら力強く号令をかけた。

 五十人の部員たちが一斉に動き出す。ティンパニが所定の位置へと運ばれ、パイプ椅子が美しい半円を描くように手際よく並べられていく。チューニングのために、フルートやトランペットがそれぞれバラバラの音出しを始め、音楽室は本来の活気ある、規律の取れた『調和の空間』としての姿を急速に取り戻していった。


 僕は、その慌ただしくも平和な日常の光景を、部屋の隅に移動して呆然と見つめていた。

 彼らは救われたのだ。

 如月瑠璃の冷徹な物理的観察眼と情動の視座が、彼らをパニックのどん底から救い出し、合奏の時間を奪い返してくれた。これ以上、この部屋に得体の知れない恐怖は存在しない。

 しかし、当の如月さんは、部員たちが自分に向ける畏敬と感謝の入り混じった視線など、欠片ほども意に介していなかった。


「……ふん。事象のルーツは暴かれた。これ以上、この騒がしい凡人の群れの中に留まる理由はないな」


 彼女は、音楽室の片隅で、先ほどまでの圧倒的な支配者の顔から、ただの退屈そうな少女の顔へと戻っていた。

 彼女の目的は、あくまで『モノのルーツを探ること』ただ一つ。謎が解け、真実が白日の下に晒された時点で、彼女の知的好奇心は完全に満たされている。吹奏楽部の部員たちが恐怖から解放されたことも、再び合奏のフォーメーションが組めるようになったことも、彼女にとっては意図しない単なる副産物に過ぎないのだ。他者の感情に寄り添い、救済の喜びに浸るような人間らしい共感など、彼女の辞書には最初から存在しない。


 如月さんは、純白のシルク手袋の指先をもう一方の手で摘み、ゆっくりと、しかし一切の未練なく引き抜いた。

 左手、そして右手。

 神聖な儀式を終えた手袋が、指定のブレザーのポケットへと畳まれてに仕舞い込まれる。

 時計の秒針による空間の調律も、手袋を通した絶対的な物理鑑定も、すべては終わった。


「帰るぞ、図書室へな」


 彼女は踵を返し、僕に向かって短く告げた。


「あ、はい……お疲れ様でした、如月さん」


 僕はホッと息を吐き出し、タブレットを鞄に仕舞うと、彼女の小さな背中を追って歩き出した。

 すれ違いざま、指揮者の先輩が僕たちに向かって深々と頭を下げた。「ありがとう、如月さん、朔くん。君たちがいなかったら、僕たちはまだあそこで怯えて、合奏すらできないままだったよ」

 先輩の感謝の言葉に、僕は安堵の笑みを浮かべて軽く会釈を返したが、如月さんは完全に無視して、重厚な防音扉の方へと真っ直ぐに歩みを進めていた。


 音楽室の重い扉が開き、廊下の喧騒が再び耳に飛び込んでくる。

 新校舎の廊下は、文化祭の準備に追われる生徒たちでごった返していた。段ボールを抱えて走る実行委員や、模擬店の看板の装飾について笑い合う女子生徒たち。スマートシティの高度なインフラに守られた、安全で無邪気な高校生活の風景。

 僕は、その平和な空気に全身を浸し、大きく背伸びをした。


「いやあ、無事に片付いて良かったですね。一時はどうなることかと思いましたけど、やっぱり如月さんの言う通り、怪我をした野球部員の哀しい未練だったんですね。僕の『前衛アート説』は完全に外れちゃいましたけど、ただの素振りの痕跡だと分かって、みんなも安心したみたいですし……」


 僕が緊張から解放された安堵のままに言葉を紡いでいると、前を歩いていた如月さんの小さな背中が、ピタリと立ち止まった。

 艶やかな漆黒のストレートヘアが、廊下の窓から差し込む西日を受けて静かに揺れる。

 彼女は振り返らないまま、極めて平坦な、しかし絶対零度の冷たさを帯びた声で口を開いた。


「サクタロウ。お主はやはり、事象の表面を撫でることしかできぬ愚鈍なままじゃな」


「え……?」


「音楽室の群れが、あれを『ただの可哀想な素振りの痕跡』として自己完結させ、日常に戻っていくのは勝手じゃ。あれはルーツを読み取る目を持たぬ、幸福な凡人どもじゃからな。しかし、わしの助手であるお主までが、その程度の認識で事態が終息したと思い込んでおるとは、嘆かわしいことこの上ない」


 彼女の言葉に、僕の背筋を冷たいものがツーッと滑り落ちた。

 終わったはずではないのか。謎はすべて解明され、呪いのアイテムはただのゴミとして処分されたはずだ。


「いいか、サクタロウ。よく思い返すのじゃ」


 如月さんはゆっくりと振り返り、その美しいアメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。


「犯人は、わざわざ音楽室の監視カメラの死角を、巨大なベニヤ板を利用して物理的に作り出した。電子錠が『常時解錠モード』になるタイミングを正確に狙いすまし、完全な密室を形成した。そして、指揮台の寸法とバッターボックスの寸法が一致しているという幾何学的な事実を利用し、窓ガラスの向こうのマウンドと一直線になるように、重い台座の角度を数度だけ微調整したのじゃ」


 彼女の提示する事実の羅列が、僕の脳内にあった『哀しい素振り』という安っぽい同情のストーリーを、容赦なく解体していく。


「これほどの緻密な計画。これほどの狂気的な執念。スマートシティのデジタルの網の目を、アナログな手法で完全にハックし、空間の意味そのものを『上書き』してしまうという、途方もない規模の異常行動。……それが、たった一回、未練がましく素振りをするため『だけ』に用意されたものだと、本気で思っておるのか?」


「それは……」


 僕は言葉に詰まった。

 確かに、異常すぎるのだ。ただ素振りがしたいだけなら、夜の公園でも、自分の部屋でも、いくらでもできる。

 犯人は、わざわざこの月見坂市が誇る新校舎の音楽室を、完璧な『バッターボックス』として見立てることに異常なまでの執着を見せていた。

 まるで、これが何かの巨大な儀式の『始まり』であるかのように。


「犯人の頭の中にある異常な野球のゲームは、あの音楽室という小さな空間の中だけで完結するものではない」


 如月さんは、窓の外に広がる学園の広大な敷地へと、静かに視線を向けた。


「野球というものは、バッターボックスとマウンドだけで成立するものではない。一塁、二塁、三塁というベースがあり、ファウルラインがあり、そして九人の野手が守るべき広大なフィールドが存在して、初めてゲームとして機能する」


 その言葉の意味を理解した瞬間、僕の足元から一気に血の気が引いていくのが分かった。

 音楽室の指揮台は、単なる始まりの『打席』に過ぎなかったのだ。

 もし、犯人がこの学園全体を、己の狂気的な情念を表現するための『巨大な野球のダイヤモンド』に見立てているのだとしたら?

 あの音楽室のバッターボックスは、これから始まる途方もない異常行動の、ほんの第一歩に過ぎないのだとしたら?


「サクタロウ、恐怖に震えるのは勝手じゃが、足元はおぼつかせぬようにな」


 如月瑠璃の声音には、一切の恐怖も、事件に巻き込まれることへの躊躇いもなかった。

 あるのはただ、何者かがこの学園全体を使って仕掛けた巨大な謎に対する、純粋で危険な知的好奇心だけだった。


「打席が用意されているということは、グラウンドはまだ他にもあるということ。まだ一回の表が始まったばかりじゃ」


 彼女が告げたその残酷な事実が、僕の脳裏に絶望的な確信となって響き渡る。

 僕たちは、狂気のゲームのほんの入り口の扉を開けたに過ぎなかった。

 如月さんは微かに口角を上げると、再び硬い靴音を響かせて廊下の奥へと歩き出した。

 僕は、背後に広がる新校舎の巨大な空間を恐怖とともに一度だけ振り返り、そこに見えない白線が引かれているような錯覚を振り払うと、小柄な天才の背中を慌てて追いかけた。


 文化祭の狂騒に沸くスマートシティの学園。

 その裏側で静かに進行する、見えざる投手に捧げられた巨大で哀しい見立て。

 僕と如月瑠璃の、真実のルーツを辿るための本当の探索が、ここから静かに幕を開けようとしていた。



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