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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『不協和』 ~section9:視線の交差と、見えざる投手への祈り~

 完璧な静寂に包まれた音楽室の中で、如月瑠璃の小さな靴音が、ダークグレーのパンチカーペットを踏みしめる鈍い音を立てた。

 一四七センチの小柄な彼女が、縦一・二メートル、横一・五メートルという、バッターボックスと全く同じ寸法を持つ『指揮台』という特異点の上へと、静かに、しかし絶対的な支配者の足取りで登ったのだ。


 壁際で息を殺している五十人の吹奏楽部員たちも、学生指揮者の先輩も、そして僕も、彼女の一挙手一投足から目を離すことができなかった。

 先ほどまでの彼女は、事象の表面を削り取り、テーピングの摩擦や鉛の重心といった『物理的な痕跡』を冷徹に抽出する鑑定者だった。しかし、自らその長方形の陣地の上に立った今の彼女の背中からは、それとは全く異質の、ひどく深く、底知れない気配が漂い始めていた。


 如月さんは、指揮台の中央に直立したまま、純白の手袋をはめた両手を体の脇に自然に下ろしていた。

 しかし、その足の配置は、音楽を指揮する者のそれとは明らかに異なっていた。彼女は両足を肩幅よりも少し広く開き、ほんのわずかに膝を曲げ、重心を落としている。それはまるで、これから強大な運動エネルギーを発生させるための土台を、自らの身体で作っているかのような姿勢だった。

 先ほど僕が実演したエア剣道の構えとは違う。空間に横たわる見えないホームベースに対して、半身に構える、打撃のスペシャリストの足運び。


「サクタロウ。先ほどわしは言ったな。打者がこの陣地に立つのは、決して自己完結する遊戯のためではない。必ず『ある存在』と対峙するためである、と」


 如月さんは、半身の姿勢のまま、ゆっくりと首だけを僕の方へ向けた。


「はい……打つべきボールを投じてくる者。投手の存在ですね」


「左様。野球というスポーツにおいて、バッターボックスという長方形の空間は、常にマウンドというもう一つの特異点と、絶対的な直線で結ばれていなければならぬ。打者の視線は、そして打者の全身の神経は、ただ一点、そこから放たれる白球のみに集中しているはずじゃ」


 如月さんはそう言うと、傍らに立つ学生指揮者の先輩へと、静かに視線を移した。


「この吹奏楽部の長よ。お主に一つ問う」


「な、なんだい……?」


 突然話を振られた先輩は、ビクッと肩を震わせて直立不動の姿勢をとった。


「この指揮台の『角度』についてじゃ。普段、お主がこの上に立ち、五十人の奏者たちを統率する際、この台座はどのように配置されている?」


「どのように、って……」


 先輩は戸惑いながらも、自身の記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。


「もちろん、部員たち全員の顔が見渡せるように配置するよ。音楽室の壁に沿って、木管楽器や金管楽器が半円状に座席を組むから、指揮台はその半円のちょうど中心……扇の要のような位置で、部員たちの正面を向くように真っ直ぐに置かれてる」


「真っ直ぐ、じゃな」


 如月さんは、ふん、と短く鼻を鳴らした。


「ならば、お主の足元のフローリングの木目と、この台座の縁のラインをよく見比べてみるがよい」


 先輩は言われた通りに視線を落とし、僕もつられて指揮台の足元を覗き込んだ。

 月見坂市の新校舎のフローリングは、音響効果を高めるために寸分の狂いもなく直線的に板が張り合わされている。その直線的な木目のラインに対して、ダークグレーのカーペットが張られた長方形の指揮台は……。


「……ズレている」


 先輩の口から、驚愕の呟きが漏れた。


「フローリングの木目に対して、指揮台の向きが……右斜め方向に、数度だけ角度がズレている。僕が朝練を終えた時までは、絶対に木目と平行になるように、綺麗に真っ直ぐ配置されていたはずなのに」


「その通りじゃ」


 如月さんの凛とした声が、先輩の呟きを上書きするように響いた。


「犯人は、あの短いデジタルの死角の中で、ゴミの竹刀をバットに改造しただけではない。この重い木製の台座を自らの手で動かし、その『角度』を意図的に捻じ曲げたのじゃ。音楽のための扇の要としての役割を破壊し、ただ一人の打者が立つための『バッターボックス』として、正しい向きに再配置するためにな」


 五十人の部員たちが、息を呑む音が聞こえた。

 ただ台座がズレているだけではない。それは、犯人がこの空間に持ち込んだ異常な見立てを完成させるための、最後にして最大のピースだったのだ。


「打者の視線は、常にマウンドの上のただ一人へと向けられる」


 如月さんは、ゆっくりと顔を前方に向けた。

 半身に構えた彼女の右肩のライン。その延長線上にある、彼女のアメジストの瞳が真っ直ぐに捉えている『視線の先』。

 僕も、そして五十人の部員たちも、彼女の視線の軌道を追うようにして、一斉に首を動かした。


 数度だけ角度をズレらされた指揮台。

 その上に立つ打者の正面に広がる風景。

 そこにあるのは、半円状に並ぶはずの吹奏楽部員たちの座席ではない。グランドピアノでも、壁に掛けられたティンパニでもない。

 そこにあったのは、音楽室の壁の全面を大きく切り取った、巨大な『防音ガラスの窓』だった。


 新校舎の三階に位置するこの音楽室の窓は、採光と開放感を高めるために、床から天井近くまで達する巨大な一枚ガラスで構成されている。スマートシティの高度な技術で作られたその特殊なガラスは、外の騒音を一切室内に通さない代わりに、外の景色をまるでハイビジョンのスクリーンのように鮮明に映し出していた。

 西日が差し込み始めた、午後四時過ぎの太陽の光。

 その窓ガラスの向こう側、三階の高さから見下ろす形で広がっていたのは、月見坂市が莫大な予算を投じて整備した、広大な『新校舎のグラウンド』だった。


「あっ……」


 誰かの口から、小さな、しかし決定的な理解を伴った声が漏れた。

 窓の向こうに見えるグラウンド。水はけを完璧に計算された人工芝と、赤茶色のアンツーカーが敷き詰められた、プロの球場にも引けを取らない美しい野球のフィールド。

 そして、そのグラウンドの中心。

 如月瑠璃の鋭い視線が、防音ガラスを突き抜け、空間を飛び越え、ピンポイントで突き刺さっているその場所。


 そこには、土がわずかに高く盛られ、白いピッチャープレートが埋め込まれた『マウンド』があった。


「……嘘だろ」


 僕は、全身の産毛が総毛立つような、どうしようもない悪寒に襲われた。

 偶然ではない。絶対に、偶然であるはずがないのだ。

 縦一・二メートル、横一・五メートルというバッターボックスの寸法を持つ指揮台。

 そこに立てかけられた、先端に鉛を仕込み、両手で強く握り込むための強固なグリップを与えられた、竹刀という名の本物のバット。

 そして、窓の外のグラウンドの中心にある、マウンドと一直線に結ばれるように、緻密に計算されてズラされた台座の角度。


 犯人は、この新校舎三階の音楽室という完全に隔絶された密室の中から、ガラス越しに遠く離れたグラウンドのマウンドを見下ろすための『完璧な打席』を、たった一人で構築していたのだ。

 それは、空間の概念を根底から捻じ曲げる、あまりにも巨大で、あまりにも狂気的な『見立て』だった。

 五十人の部員たちが、恐怖に顔を引き攣らせ、後ずさりする。彼らの目にも、もはやこの部屋が音楽室には見えていないはずだ。ここは、たった一人の打者が立つためだけに作られた、狂気のバッターボックスなのだから。


「サクタロウよ。そして、壁際で震える者たちよ」


 如月さんの声が、間接照明の柔らかな光の中で、ひどく冷たく、そしてどこか厳かに響いた。

 彼女は純白の手袋をはめた両手を胸の前で軽く組み、静かに目を閉じた。


「事象の表面を撫でるだけの論理は、ここまでじゃ。ここからは、ただの物理的観察眼では決して辿り着けぬ、人間のドロドロとした情念の深淵……『情動の視座』をもって、この狂気の見立てのルーツを解き明かそう」


 情動の視座。

 それは、如月瑠璃という天才だけが持つ、他者の感情のメカニズムを物理的な現象として冷徹に分析し、その行動原理を完璧にトレースする能力。

 彼女は決して、犯人の悲しみや執念に『共感』しているわけではない。彼女の心は常に絶対零度のまま、他者の情動というバグだらけのシステムを、極めて論理的にデバッグしているだけなのだ。

 しかし、その共感なき理解の解像度があまりにも高すぎるが故に、彼女の紡ぐ言葉は、まるで犯人自身の魂が憑依したかのように、圧倒的な生々しさを持って僕たちの心に突き刺さってくる。


「今日の昼休み。文化祭の喧騒が新校舎を包み込む中、犯人は巨大な看板の死角を利用し、誰にも見られずにこの音楽室へと侵入した」


 如月さんは目を閉じたまま、透明な犯人の姿をその場に幻視するように語り始めた。


「犯人の手には、武道場の裏から拾い集めた古い竹刀。そして、あらかじめ用意しておいた大量の鉛テープと、非伸縮性の医療用テーピングが握られていた。犯人はまず、この重い指揮台を自らの手で動かし、その角度を微調整した。窓の向こうに見えるグラウンドのマウンドと、己の立ち位置が、完全な直線で結ばれるように」


 彼女の言葉が、音楽室の空気に過去の映像を鮮明に投影していく。


「陣地を構築した犯人は、次いで凶器の製作に取り掛かった。竹刀の先端を分解し、鉛の塊を限界まで詰め込む。それは、ボールを遠くへ飛ばすためではない。発生した強大な遠心力によって、己の腕の関節が悲鳴を上げようとも、絶対に途中でスイングを『止める』ことができないようにするためじゃ」


 如月さんの言葉に、僕はハッとした。

 止めることができない。それはつまり、一度振り始めたら、もう後戻りはできないという、犯人自身の退路を断つための構造だったのか。


「そして犯人は、竹刀の柄に分厚い下地を巻き、その上から白いテーピングを、指から血が滲むほどの強い力で締め上げていった。右手と左手を隙間なく密着させ、手首の可動域を完全に殺し、全身の力を一点に集中させるための、極めて暴力的なグリップの成形じゃ」


 如月さんは、そこでゆっくりと目を開いた。

 彼女のアメジストの瞳は、窓の外のグラウンドのマウンドを、氷のように冷たい視線で真っ直ぐに貫いていた。


「バットが完成した時。犯人はこの指揮台の上に立ち、実際にその忌まわしいグリップを両手で強く握りしめた。あの黒ずんだ摩擦痕が残るほどの強い圧力でな。……そして、犯人は見たのじゃ。この防音ガラスの向こう側、はるか下方に広がるグラウンドの、誰もいないマウンドの土を」


 音楽室の空気が、さらに一段階、重く粘り気のあるものに変わった。

 五十人の部員たちが、誰一人として瞬きすらできずに、如月さんの紡ぐ情動のルーツに引き込まれている。


「サクタロウ。お主は先ほど、これを承認欲求をこじらせたアート作品だと言ったな。人を驚かせ、優越感に浸るための悪戯だと。しかし、情動の視座をもってすれば、手に取るように分かる。ここに残されているのは、他者へ向けられた自己顕示欲などではない。もっと深く、もっと痛切で、そして底なしに哀しい、ただ一人の人間へ向けられた『祈り』じゃよ」


「祈り、ですか……?」


 僕が震える声で問い返すと、如月さんは静かに頷いた。


「考えてもみよ。ここは三階の音楽室じゃ。どれほど完璧なバッターボックスを作り上げ、どれほど実戦的なバットを構えたところで、窓の向こうのグラウンドから、本物のボールが飛んでくることなど物理的にあり得ない」


 彼女の冷徹な指摘は、当たり前の事実でありながら、だからこそ犯人の行動の異常性を残酷なまでに浮き彫りにした。


「ガラスという絶対的な断絶がある。距離という越えられない壁がある。犯人も、そんなことは百も承知じゃ。百も承知でありながら、それでも犯人は、この異常な重心のバットを両手で強く握りしめ、窓の向こうのマウンドを見つめ続けた」


 如月さんの声のトーンが、わずかに低く、そして重くなった。

 それは共感ではない。事象の奥底に横たわる『絶望の質量』を、ただ正確に物理法則として変換し、僕たちに提示しているだけだ。


「犯人はここで、待っていたのじゃ。窓の向こうのグラウンドから放たれる、絶対に来ない『見えない投手の球』をな」


 ――絶対に来ない、見えない投手の球。

 その言葉が、僕の胸の奥底を、鋭い氷の刃で深く抉るように突き刺さった。


「そのピッチャーは、おそらくもうマウンドには立っていない。あるいは、二度とボールを投げることができない状態にあるのじゃろう」


 如月さんは、情動の深淵を淡々と、論理的に解体していく。

「怪我か、退部か、あるいはもっと取り返しのつかない何かか。理由は分からぬが、犯人とその投手との間に約束されていたはずの『最後の勝負』、あるいは『最後のバッテリー』としての時間は、不本意な形で永遠に失われてしまった。……だから犯人は、この音楽室という隔絶された空間に、一人きりのバッターボックスを作り上げたのじゃ」


 僕は、息をするのも忘れて彼女の言葉に聞き入っていた。

 壁際の部員たちの中には、あまりの情念の重さに耐えきれず、両手で顔を覆って泣き出しそうになっている者もいた。


「テーピングの摩擦痕に込められた、強烈なまでの握力。それは、失われた時間を取り戻そうとする、どうしようもない未練の表れじゃ。そして、先端に鉛を詰め込み、途中で止めることができない構造にした理由。それは……もし幻のボールが飛んできたなら、己の体がどうなろうとも、絶対に最後まで振り抜いてみせるという、狂気にも似た『執念』じゃ」


 如月瑠璃は、純白の手袋をはめた手で、窓の外のグラウンドを指差した。


「犯人はこの陣地で、決して届くことのない幻の白球に向かって、自らの魂を削るような素振りを繰り返したのじゃろう。誰にも見られず、誰の記憶にも残らず。ただ己の中の喪失感という空洞を埋めるために、静寂の密室の中で、強大な遠心力に振り回されながら、何度も、何度も、哀しいスイングを繰り返した。……このテープに染み付いた接着剤の匂いと、黒ずんだ摩擦の汚れは、その祈りのような儀式の、残酷なまでの副産物なのじゃ」


 音楽室は、完全な沈黙に支配されていた。

 ただの悪戯だと思っていた。気味の悪いゴミだと思っていた。

 しかし、如月瑠璃の『情動の視座』によって解体されたそのルーツの正体は、あまりにも重く、そしてあまりにも哀しい、一人の人間の絶望の痕跡だった。

 最新鋭のスマートシティのインフラに囲まれたこの洗練された空間の中で、デジタルの網の目をすり抜け、ひっそりと行われていた孤独な儀式。

 僕は、指揮台の上に立てかけられたあの包帯の竹刀を、もはや気味の悪い異物として見ることはできなかった。

 そこにあるのは、行き場を失った情念の墓標であり、絶対に叶うことのない幻のゲームへの、不器用すぎる手向けだったのだ。


 彼女は、他者の絶望に涙を流すことも、同情の言葉を口にすることもない。ただ、そこにある物理的な事実と、情動という名のバグのメカニズムを完璧に解き明かし、満足げにアメジストの瞳を細めているだけだった。


 五十人の部員たちも、学生指揮者の先輩も、そして僕も。

 その人間離れした天才の姿と、彼女が暴き出した深淵の底知れなさに、ただ圧倒され、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

 窓の外では、西日がさらに赤みを増し、グラウンドのピッチャーマウンドの影を、長く、そしてどこまでも孤独にグラウンドの土の上に伸ばしていた。



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