死の淵
恐ろしいほど静かな時間が流れていた。
普段はあちこちにいる魔物たちの鳴き声もなく、これだけの木々があるのに葉が擦れる音ひとつもしない。
ただただ静寂が耳に痛い。
いや……聞こえていないだけなのかもしれない。
10m以上離れているのにもかかわらず、意識しないと呼吸さえできないほどの殺気と威圧感を発している魔獣。
体の機能が正常に働いている可能性の方が低いだろう。
(私はどうすればいい……?全員が生き延びれる道はある?動けない子は置いて全滅だけは避けるべき?……っ、わからない)
隊長の肩書を持つ者として数々の戦いに身を置いてきた。
騎士団の任務などいつも死と隣り合わせ。
しかしレイラはそんな中でも、死へと続く道を全て回避し生き抜いてきた。
騎士団に入りたてで、今の強さを手に入れる前は何度も死にかけた。
強くなってからも討伐難易度の高い魔物との戦闘が増え、1回1回の危険度は増した。
それでも今日までは、自分の首を刎ねようとする死の糸を何とかくぐり抜けてきたのだ。
(…………。……ここまでね)
頭の中に自然と、自らの生を諦める言葉が浮かんだ時。
今までレイラを襲っていた恐怖が嘘のように消えた。
動けない団員たちを見捨てるにしても、全員が生き延びる道を模索するにしても。
殿にはレイラがいないといけない。
そうでなければ時間稼ぎすらできないからだ。
(いいタイミングだったのかもしれないわ。どうせ隊長の座は他に譲るつもりだったし……)
魔物が魔獣化をするため動けないこの時間。
本来なら生存のための戦略を練るべきなのだろうが、レイラの頭の中には、走馬灯のように歩んできた人生が次々と浮かび上がってきていた。
幼い頃から今まで、楽しさや嬉しさを感じた記憶など数えるほどしか無い。
代わりに、自分を惨めにする理不尽な記憶は掃いて捨てるほど浮かんでくる。
(命を懸けて私が戦えば、この子達は逃がしてあげられるかしら……。……そうね、それがいいわ、そうしましょう)
作戦も何も無い。
自分の死が確定した戦いにレイラは身を投じようとした。
勝つことなど考えていない。
囮になって、部下たちから敵の意識を逸らすことができたらいい。
ロベルタの街から少しでも引き離せたら万々歳だ。
そんな投げやりな考え。
思考も、心も、体も。
全てが嫌なほど冷え切っているのを感じているレイラは、後ろにいる部下たちに最後の命令を出そうとした。
——その時だった。
「流石にこれは予想外でしたね」
死の淵に立たされているこの場には不釣り合いな、呑気とも言えるほど穏やかな声がレイラの後ろから聞こえてきた。
その瞬間。
冷え切ったレイラの体が無意識に震え、ブワッと毛穴から冷や汗が吹き出す。
死を受け入れて静まっていた恐怖や不安や緊張がぐちゃぐちゃに混ざりながら再び蘇る。
(そうだ、忘れてた。…………最悪)
今日出会ったばかりの他人。
何の義理もない。
助ける必要性も感じない。
できることなら囮にして部下を逃がしたい。
それでも……。
守らなければいけない人物がいるのを、レイラは思い出してしまった。
「っ……。……ジン様、我々ができるだけ時間を稼ぎます。その隙にお逃げください」
ジンにそう告げたレイラは自分の不甲斐なさに押し潰されそうだった。
なぜなら今のレイラには、たった一つの選択肢しか選べないからだ。
ジンを守るために、自分を慕い、苦楽を共にしてきた部下たちの命を……諦める選択肢しか。
命を懸ける必要があるのなら自分の命だけを犠牲にしたかった。
しかし今やその願いは叶わない。
今ここで部隊が全滅しようとジンだけは、騎士団の未来のために全力で守らなければいけない。
魔獣出現の一報を聞き、後に派遣された国の討伐隊が、黒騎士たちの死体の中にジンの死体を見つけてしまったら。
罪を問われるのはレイラたちだけではない。
黒銀の騎士団全体が罰を受ける。
己の無力さに視界が滲んでいくのが分かった。
しかし決して涙は零すまいと、レイラは爪が手の平に食い込むほど拳を強く握りしめた。
「ジン様……どうか、お逃げください」
レイラは、無力感も不甲斐なさも、怒りも悔しさも悲しみも全部自分の心に押し込んで、この場にいる部下に命じようとした。
——『死ぬまで戦いなさい』と。
そしてレイラの部下たちも待っていた。
自分の信頼する上司がその命令を下すのを。
グルォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!
丁度、ジャイアントベアの魔獣化が終わった。
完全な魔獣となったその姿はもはや原型をとどめておらず、2倍ほどに巨大化したその巨体は禍々しい黒い靄に覆われている。
Aランクの魔獣の討伐には最低でも100人規模の討伐隊が必要だが、今いる戦闘員は10人ちょっとだ。
向かい合っているだけで分かる圧倒的な戦力差は、黒騎士たちの頭から『勝利』の2文字を掻き消すには十分で。
それでも自分の言葉を待つ部下たちに、レイラはこの命令が最後になるという覚悟を持って言葉を紡ごうと口を開いた。
が、優しく……レイラの頭に乗せられた大きな手がそれを遮った。
「これ、僕が倒してもいいでしょうか」
緊張で強張ったレイラの顔を覗き込むようにして、緩やかに告げられた言葉。
何を言われたか理解できない。
目の前にいるこの男は今何と言った?
僅かな表情の機微すら把握できるほど近くで見つめ合っているのに、ジンが何を考えているか分からない。
返す言葉を失っているレイラ。
その反応をどう捉えたのか。
ふっ……と優しく微笑んだジンは、レイラたちの元を離れスタスタと魔獣いるの方向へ歩いて行く。
レイラと黒騎士たちは、その後ろ姿をただ呆然と見送った。
が、数秒の時間を要してレイラが我に返る。
「なっ、なりませんジン様!!Aランクの魔獣など一人でどうこうなるものではっ……」
『ない』という言葉をレイラが発する前に、ジンの姿がヒュッと消えた。
状況が把握できないレイラは、視界の中でジンの姿を探す。
その時。
グルァア゛アアアアアアアアアアアアアアア!!!
突然魔獣が天を仰ぎ今日一番の咆哮を上げた。
鼓膜に突き刺さるほどの声量に、思わず黒騎士たちが耳を塞ぐ。
(この雄叫びは何?攻撃前の威嚇?)
混乱するレイラは事態を何とか理解しようと努める。
が、その必要はなかった。
頭など使わなくても、すぐにその場にいる全員が何が起きたのか理解することになったからだ。
「え……なんか、倒れて行って……」
黒騎士の一人がぽつりと漏らした言葉。
その言葉通り、スローモーションのようにゆっくりと、魔獣の巨体が後ろへ倒れて行く。
——下半身を残して。
オブジェのように地面に立っている魔獣の下半身は、真っ直ぐに薙いだ一線で上半身と切り離されていた。
目に映る歪な景色を呆然と眺める黒騎士達の耳に、魔獣の上半身が地面に叩きつけられたことによる地響きが届く。
それとほぼ同時に、音もなく、まるで手品でも披露しているかのように、彼女たちのすぐ前にジンが姿を現した。
一滴の返り血も浴びていない綺麗な姿で黒騎士たちの元へ戻ってきたジンは、微笑みを浮かべたままレイラに右手を差し出した。
「これどうぞ。討伐証明、必要ですよね?」
何がなんだか分からないままジンが差し出したものを受け取ったレイラ。
そんな彼女の手には、赤黒い血液にまみれた拳大ほどの石が乗っていた。
付着している血液を拭うと、奥からルビーのような品のある赤色が現れる。
「…………魔石」
魔獣は心臓を潰そうと肉体を真っ二つにしようと死なない。
唯一倒す方法は、額についている魔石を肉体から切り離してから殺すこと。
つまり、自分たちの前に現れたあの魔獣にも魔石はあり、それが今自分の手にあるということは……と、一つ一つ現実を確かめながら状況を把握していくレイラ。
そんな彼女は、数十秒かけて思考をまとめると、ゆっくり顔を上げ、目の前でレイラの指示を大人しく待っている男の顔をまじまじと見つめた。
『男性様にそんなことをしたら失礼だ』などという考えは一切浮かばなかった。
レイラを含む黒騎士たちは、死を回避した安堵を感じるのも忘れ、ただただ脳が現実を受け入れるのを待った。




