09.別れと新たな来訪者
冬の寒さがどんどんと増していく。
ユノの稼ぎで俺の暮らしぶりはよくなった。
本当なら豪快に飲み歩いたり、それこそ遊郭で遊びたい。しかし、ボロ家の修繕や、古くなった農具の修理や新調、ほかにも買わなければならないものが山ほどある。俺は堅実なのだ。
家の中が過ごしやすくなり、家にいるのが苦ではなくなった。以前はボロボロの家にいると気が滅入ってきたが、いま家は火鉢で温められ、行燈の光で明るい。隙間風もないし、掃除が行き届いている。
家にいる間は、よくユノが話しかけた。子供なりに気を遣っているのは感じるが、それでも楽しそうに笑うユノを見るとこちらも少し楽しくなる。
カイセは口数こそ少なく、口調も固いままだったが、時々冗談なのかわからない事を言って俺を困惑させた。
ある日の夕方、カイセは夕暮れの空を見上げて言った。
「もといた世界では、コウモリのような羽の生えたトカゲがいるんだ」
「……へえ」
「ドラゴンというのだが、私はドラゴンの飛ぶ姿が好きなんだ。自由で、力強くて」
「そうか」
俺のそっけない返答に、カイセは困った顔をする。
「楽しい話ではなかったか」
「突拍子がなさすぎて、ぜんぜんわからん」
「そうか。……見せられたらいいんだが」
そう言い、カイセは再び空を見た。日の落ちる薄闇の中、真っ黒いコウモリが数匹飛んでいる。なるほど、このコウモリを見て、そのド……ドラ……ヘンテコな動物を思い出したのか。
俺は想像してみた。
草の間を走り回るトカゲの背中に、コウモリの黒い羽をつける。パタパタと飛び、空中の虫をパクリと食べる。
……ヘンテコだな。
朝、カイセが血を飲み、夜にユノが血を飲む。
何度も手のひらを切られ、痛みはあるが、この状況にそれほど不快感はなかった。
もちろん、男に手を舐められるという気持ち悪さはあったが、俺がメシを食うのと同じようにこいつらは血を飲むのだ、と不思議と納得していた。
「ショウ」
夕飯を食べていると、カイセが声をかけた。
今日の献立は川魚の干物と山菜粥だ。カイセが珍しく米炊きに失敗してびしゃびしゃになったため、粥にして湯がいた山菜を入れた。そこに、初めて買った卵を割って入れた。うん、うまい。
「なんだ。メシは問題なくうまいぞ」
「私のマリョクが回復した」
「――そうか」
もうそんなに日数が経ったのか。
あっという間だったな。
「明日、もとの世界に戻ろうと思う」
「そうかい。よかったな」
「ああ。それで……」
いつも言い切る口調なのに、歯切が悪い。
「言いたいことがあるなら言えよ」
「気を悪くするかもしれない」
「勝手に居候して血を吸っといて、これ以上厚かましいことなんてあるかよ」
俺はそう言い、粥をごくりと飲み込んだ。
少しひどいことを言ったかも知れないが、事実だ。
カイセは意を決したように息を吸い、言った。
「私たちと一緒に、あちらの世界に行かないか」
「は?」
危うく粥の入った椀を落とすところだった。
一緒に行く?
あちらの世界?
頭が混乱するが、ふとカイセが最初に言っていた事を思い出した。
――――我々の存在を多くの人間に知られたくない。あなたには命を救ってもらった恩があるから、我々のことを誰にも話さないと誓っていただけるならこれ以上何もしない。
………………なんだ、そうか。
一緒に暮らして、少しは気の許せる仲になったと思ったが、やっぱり人間とバケモノは分かり合えないんだな。
「そんなに俺が信用ならないか? 俺が他人に、お前らのことをべらべら喋るとでも?」
「そうじゃないんだ。理由があって――」
「知らねえよ。来てほしかったら俺を引きずって行け」
椀をあおって粥を飲み干し、立ち上がった。
「マリョクが回復したなら、もう血は飲まないよな。寝るわ」
「…………」
「なんだよ」
「懐中時計はもう売ったか? あの、銀の丸い……」
「ああ、あれ」
なんとなく売らずに、箪笥の中にある。しかし大事に取ってあると思われるのは癪だ。
「売ったよ。とっくに」
「そうか、ならいいんだ」
カイセは無表情で答えた。なんだ、まだ手元にあるなら奪い返してから帰ろうとしたのか?
少しでも気を許した俺がバカだった。
寝間に布団をひき、横になる。
腹いっぱい食ったのに、落ち着かず寝られない。目を固く閉じ、寝返りを何度も繰り返す。
そのうち眠ってしまったようだ。夢は見なかった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、障子に朝日が当たってぼんやりと明るい。
ずるずる、と布団をたたむ音がする。障子を開けて二人の寝ている場所を見ると、ユノが二人分の布団を片づけていた。
着ているのはいつもの着物ではなく、最初に会った時のものだった。
「おはよ、ショウ。起こしちゃったかな」
「いや」
「兄上は外で準備してるよ」
布団をたたみ終わったユノは、朱色の外套を羽織って戸口の方へ歩いて行った。
見送るつもりはなかったが、俺もなんとなく外に出る。
カイセが何もない空間に両手を突き出していた。カイセもユノと同じように朱色の外套の姿だった。泥汚れはなく、破れていたところは丁寧に繕ってある。カイセから針仕事を教えてほしい、と言われたがこれを直していたのか。
カイセは振り返り、俺と目が合うと微笑んだ。
「ちょうど呼びに行こうと思っていた。準備完了だ」
「そうか」
冬の朝。俺は両手を袖に入れて縮こまる。風はないが、空気が冷たく刺すように痛い。
「じゃあね、ショウ」
「おう」
昨日のわだかまりは、なんとなく消えていた。
俺を連れていく話はなくなったようだ。
カイセが口を開いた。
「私たちがいた痕跡は消しておいた。もう迷惑はかからないと思う」
「そーかい、そりゃよかった。じゃ、春の恩返しを楽しみにしてるぜ」
「ああ。必ず」
カイセは両手を目の前に突き出した。ユノがカイセの腰にぎゅっと抱きつく。
瞬きをすると、一瞬で消えた。
びゅうっと冬の冷たい風が吹きつける。
寒さに耐えきれず、慌てて家の中に入った。
ふと思い立ち、押し入れの中にある懐中時計を見る。何も変わっていない。
もしかして石や木の葉になっているのかも、と思ったが違ったようだ。
「狸に化かされたってことはないみてぇだな」
懐中時計を押入れに戻す。
半纏(※綿入りの上着)を着て、火鉢に炭を入れた。
指先が雪のように冷たい。火鉢の上に手をかざす。
手のひらを見る。
何度も切られ、何度も血が流れたが、手のひらには傷ひとつない。
「ああ……」
ため息をついた。何のため息だろうか。
◇ ◇ ◇
そこからは穏やかな日々が続いた。
懐に余裕があるので、簡単な仕事をして小銭を稼ぎ、家に帰って暖かい布団でゆっくりと寝る。
家は隙間風がなくて過ごしやすく、米が毎日食える。
望んでいた、理想通りの生活だ。
俺は満足していた。
あいつらの畳んだ布団を見る。最初は三つ折りができなかったが、すぐに覚えてピシッときれいにたたむようになった。
天気のいい日、全部の布団を外に干した。あいつらの使っていた布団は、新品のようにきれいだった。使っていた匂いすらしない。
――痕跡を消しておいた。
そういえば、床には髪の毛一本も落ちていない。最後に綺麗にしておいたということか。変なところで律儀なやつだ。
それから数日後。
トントン、トントン
朝方、扉を叩く音がした。夜が明けたばかりだ。
眠い目をこすり、扉を開ける。
そこには目が覚めるような美人がいた。