山田亮という男の子
私の隣の席には山田亮という男の子がいた。
いつから隣の席だったかはわからないけど、いつの間にか窓際の最後尾の席に亮君は座っていた。
『おはよう!亮くん!』
『おはよう、リン』
亮くんとは、家が近所で昔からよく一緒にいることが多かったから、自然と同じ学校に通うようになったし、自然と仲良くなって恋仲となるまでにそう時間は掛からなかった。
しかし、亮くんにはある力が宿っているということを初めて聞いた。
ここまで長い時間一緒にいたのに、そんな話一切聞かなかったし、知らなかった。
なんでも、あらゆる理を支配する能力というものを手に入れたらしい。
初めて聞いたときはついにおかしくなってしまったのか、と思ってしまった。
でもその力というものを目の前にして、私は驚くしかなかったのだ。
なにせ、亮くんが空を飛んでしまったから。
あぁこの人は特別なんだなって一瞬で理解した。
それでどこか誇らしくなった。
私の好きな人はそんなことができる人だって知ったから。
『リン。その、来週の土曜のことなんだけどさ、で、デートに行かない?』
その言葉を亮くんから聞いたときはそれこそ有頂天になりそうな勢いで肯定していたような気がする。
ただそんな亮くんはその当日、どこか不安げな表情をしてこの場に現れたのだ。
なんでも最近夜な夜な不気味な声や幻聴を聞くようになったらしい。
それがどこか核心に迫っていて、どうにも他人事に思えないらしい。
『私の前でくらい弱さを見せてもいいんだよ』
確かそんなことを言った気がする。
亮くんは何事も自分でやろうとする気があるから。
いろいろとため込むことがこれまでも多かった。
だからせめて私の前では弱くていい、弱さを見せてほしい、そう思っていた。
『ありがとう、リン』
でも私はその時にちゃんと向き合ってくれたと勝手に解釈したのがいけなかった。
だって亮くんは力を持っていると私に話してくれたのだから。
きっとそれにも意味があるんだって言ってあげるべきだったのだ。
私の前で弱さを見せていい、というのは私が亮くんの弱さを受け入れることができるとき、初めていうことができるものだというのに。
多分このくらいの時、いやもっと前から世界は、狂っていた。
私もどこかで聞こえていたはずだ。
この世界のおかしさを。
でもどこかで私は栓をして、私には関係のないことだって思っていた。
世界各地で同時多発的に発生する自然災害。
謎の死者が現れるという治安。
得体のしれない謎の痕跡。
すべてはこの時から残されていた。
この日から関東を中心に不可解な地震が観測されたように。
幸い震度もそこまで高くはなかった。
でもそれでも、どこか不可解なものだった。
その地震が何週間にもわたって一定周期で発生していたから。
死傷者も出ていない。
地震大国ということもあって建物の耐震性も都心ははるかにしっかりしている。
でもこんなにも地震が続くことはあり得るはずがなかったのだ。
『いったい何が起きてるんだ』
『亮くんは大丈夫?』
『あぁ、特に問題はないけど。リンのほうは?』
『おじいちゃんのほうが結構堪えてるらしいけど、全然。地震なんかに負けてたまるかーって息まいてたよ』
『元気いっぱいだね』
『そりゃ、亮くんが治してくれたからね!おじいちゃんも今度改めて来てほしいって』
『それならよかった』
そう、亮くんはその力を使って、私のおじいちゃんを助けてくれたのだ。
もう長くないといわれたその身もすでに自由に動かせるくらいに回復させ、おじいちゃんは若返ったようだ、とも言っていた。
すべて亮くんのおかげだった。
私のおじいちゃんを助けてくれたのも、私自身を助けてくれたのも亮君だったから。
でも、私はその結果しか見ていなかったんだ。
亮くんがどんな目にあっているかも知らないで。
そうして月日が流れていったある日のこと。
この地域一帯を台風が襲ったのだ。
それも一言で言えば、大災害と言い表されるような、未曾有の台風だ。
死傷者、行方不明者が一万人を超え、都心を浸水地へと変容させた。
幸い私の家の立地が高かったこともあって、浸水せずに済んだ。
しかしその他多くの家が浸水し、外に出ていた人が暴風に足を攫われ、水圧によって出られなくなった家の中で溺死する人も後を絶たない。
それに加え、これまでの地震が何かの余震であったかのように大規模な直下型の地震が襲って来たのである。
街は崩壊し、インフラは崩壊。
私の母親も残業中、社内で死んだことを知った。
こんなことありえないと思った。
起きていいはずがないって神様を恨んだ。
でも、そんな時、私はなぜこんなにも無傷でいられたんだろうってふと思った。
怪我をして、死ぬ人がたくさんいて、それでも私はそんな死にそうな人のうちの一人だったはずなのに。
だからどうしようもない感情が亮くんに向いてしまったのだ。
亮くんならなんとかできたんじゃないかって、おじいちゃんや私を救ってくれたように、私のお母さんやほかの人も救えたんじゃないかって。
私を助けてくれたのは亮くんだと知っていたのに。
わたしはそんな八つ当たりをしてしまったのだ。
亮くんはそんな私にもごめん、といってどうしようもないといった表情をした。
私が勝手に亮くんに当たってしまっただけなのに、亮くんはそれでも謝ったのだ。
そして運命の日。
『皆既日食です!今、太陽が完全に月に隠れました!』
そんな音が施設のほうから聞こえた時に、ついにやってきた謎の黒い獣。
私のお父さんを貪るように喰らい、あちこちから悲鳴が聞こえる。
え……。
と一瞬思考が飛び、いったい何が起こっているのか認識することすらままならなかった。
だって目の前でその上半身を闇に覆われ、声すら出せずに体をだらん、と力なくしているのを見たから。
それがお父さんだって認識もしたくなかった。
それからはよく覚えてもいなかった。
必死に逃げたような気もするし、なぜか暗闇のまま一向に動こうとしない月と太陽に恐れたような気もする。
インフラが崩壊した街のほうへ行こうとすればするほど暗闇に足を掬われもした。
なんで暗いままなのか。
とか、なんでこの地域だけこんなことが起こっているんだ。
とか、なんで私だけって思った。
でもそれもすべては私が見てこなかっただけなのだ。
今日がその日だけだっただけ。
今日が世界が壊れた日だって、たったそれだけだ。
それを後に誰かがこう言ったのだ。
エクリプスの夜。
蝕の明けない宵闇と。
そして今がその時なんだ。
あの日食が私、いや私たちの記憶を想起させた。
なぜそんな記憶があるのだとか。
それが夢で今起こっていることが現実なんだとか。
なぜまたこの夜になってしまっているのだとか。
色々と疑問に思うことがあった。
でも、私にもわかることが一つある。
それは亮くんが、いや山田が何かやってくれたということ。
山田だけが真実を知っているということだ。
「お、おい。今……」
「お前も見たのか……?」
「わ、私……怪物に襲われて……」
「今のは……一体……」
「なんでこんなことに……」
「今になってなぜ……」
「お、お母さん!お母さんは……!」
「ど、どうすれば」
しかし、他の人たちはその記憶に困惑するしかない。
どういうわけか自分とは似て非なる記憶がいきなり入り込んできたのだ。
混乱しないはずもない。
でもそんな中でもどこか現状を正しく把握はできなくとも、理解に努めている人がいた。
その人たちは決まってあの空を眺める。
「や、まだ……?」
「おい、待てよ……。いやそんなわけないよな……!」
「お前はっ……ただの厨二野郎、だろ……?」
あぁそうだ。
何が厨二野郎だ。
何が黄昏だ。
何が左手の疼きだ。
全部真実じゃないか。
そこまで考えたところで私は一つの相違に気づく。
ここら一帯を塵に変えた未曾有の災害がこの街を襲っていないことに。
「そういえば、なんでそんなに傷を作っているの……?」
夢のような記憶の中で山田はその能力の代償と言って聞かされたのは、酷い疲労感が伴うこと。
それだけだった。
それこそ、おじいちゃんを救ってくれた時は、およそ一日を寝たきりで過ごすほどに衰弱していたのを私自身が確認していた。
じゃあ、その傷は?
左手が疼く?覚醒する?
一体なんのことを言っていたの?
でもそんな中で確かなことは一つある。
未曾有の水害をもたらした台風を退けたのが山田だということ。
あの日不自然なほどに増えた包帯は何かあったんじゃないかってずっと思ってた。
「あなたが私たちを救ってくれたの?」
あの恐怖から。
あの絶望から。
もしそうなのだとしたら、私は、私たちは、どれだけ愚かに……。
どれだけ愚かしく映っていたのだろう。
あの時授業を抜け出して行った時も。
あの時窓の外を眺めて風が騒がしいと言っていた時も。
敵と戦っていたという妄言も。
その全てが本当で、陰ながらに私たちを守っていたのなら。
どうして私たちが山田を害する原因になる。
そんな資格も、立場も私たちはないというのに。
そんな時だ、大きな雷鳴とともにその雷が地へと落ちたのは。
否、そこにいたのは私たちが恐れ慄いた、黒い獣へだ。
それが何者でもない誰かの手によって落命させられたのだ。
考える必要もない。
こんなことができるのは一人しかいないから。
『この世界に未来はない。俺のせいだ。どうあっても守らなければいけなかった。守る力を持った俺が』
『なんでそんなに背負い込むの……?亮くんはもう十分にがんばった。頑張ったよ……』
『俺の力ならこんなことになるはずもなかった。俺の力があればあの日常が終わることなんてなかったはずだ。……だって、ずっと俺のそばには脅威が住んでいたのだから』
山田は語っていた。
夜な夜な聞こえる声があの謎の黒い獣の声だったんじゃないかと。
突然現れたわけじゃないのだと。
ずっと俺らの生活の中にあの化け物は潜んでいたのだと。
そう言った。
『俺がこの能力を持った時点で本能的に何か感じ取ったんだ。これがなんなのか、何をすべきなのか、全て分かった!でも!でも……、俺はそれから目を背けた。こんなことになるなんて思ってなかった』
だから、だから。
『俺はやり直さなければいけない。確実にこの世界に理は必要だ。全てが終わらせて、全てを構築し直した時、必ず理が必要となるはずだ』
『亮、くん……。一体何をするつもり……?』
『理とは、物事がそうあるべきだという道理だ。俺はずっとそれがどういうことかわかっていなかった。でもいつかリンのおじいさんを救った時に気づいたんだ。この力は使用者の物事がそうであって欲しいという願望の力でもある。そして、それが本来の道理から外れれば外れるほど力の制御が難しくなった』
そういえば山田は空を飛んでいたりもした。
あの時もそんなことを感じていたのだろうか。
『でもそれを特別な言葉で表すとしたら覚醒と呼ぶべきなんだと思う。不可能を可能にして見せる力だから。だから、俺は全てをやり直す……!!』
『やり直すって……何をするの……!』
『決まっている。この世界が狂った始まりからやり直す!いつからか世界に不可解な災害が続いた。いつからか原因不明な死者が増加した。いつからか世界がおかしくなったその瞬間があるはずなんだ。だから俺はその全てを覆す!!この力を使って!!!』
『っ!?その左手……』
山田の左手は見るも無惨に爛れていた。
それだけじゃない。
その血すら黒く変容し、あの謎の黒い獣につけられたのだろう無数の傷も刻まれている。
『なぁ、リン。もし、世界をやり直すとしたらどうすればいいんだろうな。これまでに起こった事象は、経験は、記憶は、いったいどうなるんだろうな』
その声に私はなぜか察してしまう。
山田は私たちに日常がもう訪れないことを悔やんでいたから。
『ねぇ亮くん……。まさか、そんなことしない、よね?』
『…………。人に希望はあっちゃいけない。希望を持つ事態こそが既に誰も救われない世界だから。だから、俺は一人でやらなきゃならない。それに、俺は弱いからさ。結局力を持ったところでリンに頼ってしまう。それじゃあ何も成し得ない』
その言葉が私を悲壮の海へ放った。
全ての未来を一人で担うと山田は言ったのだ。
たった一人で。
『この悪魔の数日で分かったことがある。あの化け物は闇の中でしか活動できない。というより、闇の中でやっと世界に顕現できる。それもひとえに太陽の力ゆえだ。太陽の光が化け物の活動を制限していた。だからこの日食が絶好の機会だった』
それなら、と山田は言う。
『それまでに化け物を殺し尽くす。そしてこの夜を終わらせる』
『ど、どうやって……』
『この日食の範囲は覚えてるか?関東と中部の南方面だ。ならそれ以外の地域はどうなってるんだろうな』
そうだ。
ここだけがこんなことになっているなら他の場所に……。
『いや、考えるだけ無駄か。どの道、災害で都市部の機能は停止。これで終わるはずもない。でも、それなら俺がなんとかできる。だからこうなるまでにもっとこの力を理解し、支配しきらなければならない。そして、なんとしても月を動かす。もしくは破壊する』
『つ、月を……!?』
『もし世界をやり直すことができたのなら何も問題もなくできると思う。でも、本当に全てが終わったときに俺が残っていられるかはわからないな』
私にはその言葉の意味はわからなかった。
全てが終わったら一緒に、ずっと一緒にいようってそう思ってもいいんじゃないの?
なんでそんな悲しそうな顔をしている。
『ねぇ、一つ約束してくれる?』
『なに?』
『簡単なことだよ。みんなにってわけじゃない、私だけで、私だけでいいから私といるときに自分に嘘はつかないで。きっと記憶は消えちゃうんでしょう?でも、私なら亮くんを忘れるはずないから。ちゃんと本当のことを言えば信じてあげられるはずだから。だから一人だなんて言わないで。私も一緒に頑張るから』
その時山田はどう思っていたんだろう。
いや、決心していたんだ。
他でもない私がそうお願いして、そして信じてあげられなかったことだから。
『……わかった』
私は何て愚かなんだろう。
自分でこう言っておきながら、山田の抱えたものに気付けなかった。
なんだよあの厨二って、うるさいやつだってそう思うしかできないじゃん。
気づかせる気ゼロじゃん。
全部一人で抱え込んで全部一人でこなして、ずるいよ。
すごいよ……。
本当に日常がそこにはあったんだから。
だからせめて私はありがとうって、私たちを守ってくれてありがとうってそう言うんだ。
『俺がやるんだ』
私の最後の光景は世界をやり直すと誓った少年の横顔だった。