4話 さようなら
階下からは人々が騒ぎ、大声で笑い合う声が聞こえた。微かに漂ってくる香ばしい香辛料の匂いが鼻を突く。窓から差し込む月の光で青く染まった部屋の空気は淡く、透き通っている。
この世界に転生して一年が経った。
僕の「お父さん」と「お母さん」はこの家で料理屋をしているようで、飯時には多くの人で階下がとても騒がしくなる。今日は何かの祭りのようで特に忙しくしていた。いつも僕を連れて家事や仕込みをしている「お母さん」もこの時間だけは僕をベットに残していく。
逆に言えば、僕が一人になれるのはこの時間だけだ。
バランスを崩さないようにゆっくりと立ち上がる。まだ幼いこの体はとても軟弱で、筋肉が全然ついていない。それでもやっと昨日立ち上がることができるようになったのだ。
そのまま縋り付くようにベットの周りを囲んだ柵を掴み、体を引き揚げていく。
このベットは幼児用に作られたもので、転落防止用の柵が取り付けられている。幼児がベットから出ないように取り付けられている柵であるため、その上に登れば高さは自分の身長の倍以上、三倍近くになる。この高さで頭から落ちたら、この柔らかな体は耐えられないだろう。
苦労しながら柵の上にまたがった僕が見たのは、窓のそとに見える青い月とその下で無数のランタンに照らされた街だった。ランタンのオレンジの光に照らされた街路には露店が並んでいて、仲睦まじく歩く恋人たちの間を縫って仮面を被った子供たちがかけていく。露店脇では男たちが酒樽をテーブルがわりに飲んで歌って騒いでいた。道脇に所狭しと並んだ露店にはキラキラと輝く宝石が施された腕輪や首輪、渦を巻いたカラフルなキャンディー、タレが染み込んだ肉など様々なものが並べられている。
僕が転生したのは、本当に美しい世界だったようだ。とても温かく、幸せな世界。
だけど、今の僕にこの美しさは苦痛でしかない。温かさを、幸福を感じるたびに僕の心は削られていく。
窓を通して僕を見下ろす月を見上げて呟く。
「すず、浩介、父さん、母さん、僕はもう生きるのをやめようと思う。僕はあなたたちを失った。これ以上何も失いたくない。このまま生きていても多分僕はもっと失い続けるだけだと思うんだ。ならいっそ、ここで終わりにしようと思う。そうしたら、きっとみんなにも会えるよね。」
満足に動かすことができない体で一年も苦痛に耐えてついに手にした、「終わらせる」機会。やっとこの苦痛から、罪悪感から、恐怖から、逃れることができる。
「さようなら。」
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「うぉーい、酒もう一杯ー。」
「はーい、麦酒でいいわね。」
客からの注文を受けたリンはそそくさと厨房に向かう。厨房では夫のカインが大きな体で汗をかきながら忙しそうにしていた。
今日からセントヘラの建国記念祭が始まる。七日七晩続く祝祭の初日である今日は特に忙しい。去年はお腹の中にケイがいたため店を開けることができなかったがケイもある程度成長し今年は開けられるということでリンもカインも張り切っていた。
「カイン、焼き魚できてる?持ってくわよ。」
「おう、頼む。今皿につける。」
この店はカインとリンの二人だけでこじんまりと営んでいるのだが、普段はともかく今日のような祝祭日には多くの人がひっきりなしにやってくるためてんてこ舞いになってしまうのだ。そのためいつもならケイを背負って店に出ているリンも今日ばかりは寝室においてきた。
ケイも一歳になるとは言えまだ幼児、リンにも不安がないわけではないが流石にこんなに騒がしい場所に連れ出すことはできないと思ったのだ。この店も小さいとは言え酒を出す店であるためガラがいいとは言い切れないのも理由の一つだ。
「リン、いいぞ。持っていってくれ。」
焼き魚の盛り付けが終わったようで、リンは裏の井戸で冷やしていた麦酒と一緒に持っていく。皿を持ち上げるとレモンのスッとした香りが立つ。
カインの作る料理は彼の図体に似合わずとても丁寧に作られており、この小さな料理屋がやっていけているのもこの丁寧さゆえだろう。いつも無表情でおとなしいケイが彼の作る食事を食べる時だけはどこか嬉しそうにしているように見えるのも気のせいじゃないとリンは思っている。
「じゃあ、持っていくわね。」
リンがそう声をかけて厨房を出ようとした時、突然体の芯が抜かれたように力が抜けリンはその場にへたり込んでしまった。取り落とした皿と麦酒の瓶がパァーンと音を立てて割れ、その音で気づいたカインがリンに駆け寄る。
「おいっ、リン!どうした!」
へたり込んだリンは自分の首元が熱くなっていることに気がつく。これは…
「ケイッ!」
リンは心配するカインに目もくれず三階の寝室を目指して駆け出す。店で食事をしていた人々が必死の形相のリンを見て驚いたように目で追う。
リンの首元で放熱しているのは一本のネックレス。真っ白な乳白色の宝石が嵌め込まれた簡素な作りのそのネックレスはただの装飾品というわけではない。これはもう一つの乳白色の宝石がついた腕輪と対になっている。加護の円環、守護の円環というのが二つの名だ。リンの首にかかっているネックレスが加護の円環、そして守護の円環はケイの腕についている。これはリンがつけている加護の円環を供給源としてケイがつけている守護の円環に魔力の供給を行うもので、その名の通り対象を保護するための魔導具だ。
「ケイ、ケイ!」
リンの首元では相変わらずネックレスが放熱を続けている。この放熱は守護の円環に魔力が供給されている証拠だ。
加護の円環が反応するなんて理由は一つしかない。ケイの身に何か起きている。ケイに危害を加えようとする何かしらの力が働いているのだ。逸る気持ちと対照的にもたつく体を必死に引っ張って寝室までたどり着く。
「ケイッ!」
リンは音を立てて扉を開け部屋に飛び込んだ。




