北の庵の魔女
その男が森の奥にひっそりと佇む私の庵を訪ねてきたのは、代替わりして二年、先代の魔女が亡くなって半年が経った頃だった。
黒に紅い意匠の甲冑をまとい濡れそぼったサーコート姿の男は、兜は被らずに雫の滴る前髪で表情を隠してはいるが、畏怖を抱くほどの敵意も示さぬ優男然としていた。
暖をとるために多めにアルコールを飛ばしたグリューワインでもてなすと、男は口をつける前に王直属の騎士だと身分を告げてくる。
庵があるのは王都の北に位置する森の中であり、その先は魔物の巣窟である山脈があるのみで、王都からの使者などこれまでに数えるほどしか訪れたこともない。
用向きはある薬の調達であったが、生憎と切らして久しく材料も底をついている。
そもそもドラゴンの希少な鱗を主原料とする強壮剤は、その効果の強さからよほどの事が無いと服用されることはない。故に作り方は知識として習得してはいるが、実際に作ったためしがなく不安が無くもない。
材料の不足分は依頼者に用意させるのがここの習わしでもあるので、竜の鱗のほか希少な薬草の根などをリストにし、全てをそろえて出直すように渡せば、ざっと目を通しただけで背負い袋から必要なものをすべて取り出してテーブルに並べてしまった。
思わず探るようにその表情を伺いみると、全ては王の指示により用意されたものを持ち込んだと、こちらを見下すような不愛想な物言いで答える。
レシピ自体は門外不出のはずだが、過去にオーダーが無かったわけではなく、記録として残っていたのかもしれない。
随分と上から目線の騎士は、おそらく三十路に届いたくらいであろう。それに引き換え私の見かけは小娘のようだが、半魔であるが故に半世紀ほど生きている。
そうでなければ先代の知識を吸収し、北の魔女を名乗ることなど出来はしないのである。
どうも此方を見下しているような騎士の態度に、反発心から出来上がるのに二月の猶予が必要だと申し出ると、さも当然の様に出来上がるまでここに居座ると言い出した。
所詮は魔女の庵である。
接客に使う広めの作業場の他は、簡易キッチンのついた寝室があるのみで、とてもではないが他人を住まわす余裕などない。
黙って扉を指させば、飲み干したワインのグラスをテーブルに戻し、恭しく一礼して出て行った。
残された素材を整理し、レシピ集を漁って手順を確認してから普段の生活に戻る。
近くの村から頼まれている風邪薬や傷薬を調合し、裏の畑に植えてあるハーブ類の手入れを終えて夕食の準備に取り掛かる。
干し肉の残りを気にしつつ、薬を届けた際に補充する食材を思い浮かべながらスープを作るのは、秋の深まりが気になりだすこの時期ならではの事で、先代が生きていた時は仕入れるキノコでよく揉めたものだ。
昨晩は天気が良かったせいで朝から霧が深かったこともあり、近くの泉に沐浴に赴いた。
こんこんと湧き出る水は一年を通じて一定の水温なものだから、この時期の沐浴もことのほか快適にこなすことができる。
複雑な調合を必要とする作りを作るときは、ここで身を清め精神統一するのが習わしだった。
まとっていたローブを枝にかけ、薄布の沐浴着のみになって泉に腰まで浸かる。幾度か手桶で頭から水をかぶり心を研ぎ澄ませていくと、体中に魔力がみなぎってくる。
本来の魔女ならば不要なこの習わしも、人の血が混じった私には必要不可欠で、これを行わないと魔力を必要とする複雑な薬の調合ができないのだ。
面倒くさいと思う反面、人とは比べ物にならない程の寿命を持つ私は、人に交じって暮らせない以上この仕事以外を選びようもなかった。
満ちた魔力を溜息なんぞで零さぬよう、平常心で振り返って全てを霧散させてしまった。
悲鳴を上げなかった自分をほめてやり。
いつの間に近づいていたのか、昨日の騎士が半身を血に染めて腕組みして立っていた。足元には大型の獣が横たわっていることから、狩りをして返り血でも浴びたのだろうと思うが、ここに現れることが腑に落ちない。
王都から来ると庵の少し手前に小川が流れており、橋のたもとに洗濯などをするための板場が設けてあるのだ。普通の感覚ならばそこで選択なり解体なりを行うべきだろう。
問い質すために口を開きかけて相手の視線が下がっていることに気が付く。沐浴した姿なのだから、張り付いた薄布で体のラインははっきりとしてしまっているだろうし、胸の頂も透けているだろう。
とは言え、二十近く年下のお子様に羞恥に染まる己を見せる無様はしたくはないので、なけなしの意地でゆっくりを岸に上がってローブを纏う。
魔力を補充するのは今は無理なので黙って庵に向かって歩き出せば、後ろから男の忍び笑いが聞こえた気がして一気に体が熱くなる。後で顔でも出そうものなら、徹底的にやり込めてやると誓って庵の扉を思いっきり閉めた。
結局それから薬ができるまでの二か月間、男と顔を合わせることはなかったが、森のどこかに潜んでこちらを窺っていることは分かっていた。
庵を留守にすれば、帰宅時には玄関に燻製肉や果物が置かれていたし、夜間の森がやたらと静かだったからだ。寒さが増したこの時期は、オオカミや冬眠できなかったクマが出るのに、その気配が無いのは大いに助かった。
見張られているようなこの状況に不快感が無いのは自分でも訳が分からないが、薬ができてしまった今、渡すことで彼が居なくなってしまうことに不安や寂しさを感じていた。
独りで生きていけるように努力してきたのに。
独りでやっていくと先代の墓の前で誓ったのに。
独りでも寂しくなんかないとーーー、暗示をかけたはずなのに……。
それでも生業として薬師をしている以上、できた薬を渡さないわけにはいかない。
泉のほとりまでやってきて、見えぬ男に約束のものができたと静かに伝えれば、森の中から甲冑姿のあの男が現れた。
だまって薬を手渡せば、なぜだか私の手ごとその大きな手のひらで包んでしまう。
揺れてしまった瞳を、彼はどう捉えただろうか。
止まった時は、小鳥の囀りで動き出す。
彼はその場で膝をつき、穏やかな表情で求婚の申し入れをしてきた。
嬉しかった。
悲しかった。
応えたかった。
応えられなった。
私は半魔であり、その寿命は貴方と比べることもできないほど長いのだと。貴方を看取った後に独りで生きていける自信が無いと気持ちを伝えれば、少しあきれたような表情で立ち上がると、おもむろに私を抱きしめて耳元で囁いた。
自分は魔王の血を引く半魔であり、貴女が幼き頃より先代の魔女に許しを受けて見守っていたのだと。だから、何の心配もないのだと囁いてくれた。
私は思い違いをしていたのだ。
人の王の使者だと思っていたが、魔王の騎士であり、気づきもしなかったが先代が亡くなった後からずっと近くで見守ってくれていたのだ。
庵を閉めてしまうことに一抹の寂しさを抱きながらも、自分の気持ちに素直になって求婚を受け入れた。彼はそんなところも気遣ってくれて、ここで一緒に暮らそうと言ってくれた。
魔王と人の王は不可侵の条約を結んでいて、その監視が彼の役割であるのだから、ここでもその役はこなせるのだと笑った。
初めて見た彼の笑顔に涙がこぼれた。
なんと心が温まるのだろうと、涙を流しながら笑って彼に抱き着いてしまった。