「今度一緒に、行きませんか?」
「たまにはのんびりしたい」
帰宅早々リビングで伸びる桜さんが、仕事疲れの声のまま聞こえるか聞こえないか、微妙な音量で呟いた。私がもし炒め物でもしていたら聞こえなかったくらいの声は、運よく何もしていなかった私にも届く。
「言っても桜さん、仕事バカじゃないですか」
「仕事バカとは失礼ね。私は別に好きでやってるわけじゃないし」
「好きでやってない人は、こんな連日残業していませんよ」
しかも、他の人の分をやって残業しているなら、なおさら。
私の言葉に、桜さんは言い返す言葉を失う。キッチンから見えないがじっとこちらを見ている桜さんの表情くらいは容易に想像がついた。
最近の桜さんと言えば、仕事の繁忙期前だからと自分の仕事以外にも、後輩の業務もやっているらしい。いつもなら意地でも定時で上がる彼女が、後輩さんの面倒を見ていることにも驚いたが、それで連日残業をしている桜さんの方が私としては驚きだった。
出会った頃は、ほとんど仕事の話と言えば上司への愚痴だけで、彼女の周囲の話なんて聞いたことがなかった。後輩の面倒を見ていることにも驚いたし、自分の業務以外はやらないと決め込んでいた桜さんにとって、それはあまりにも大きな変化だったからだ。
「でも、何か桜さんが楽しそうで何よりです」
夕食を作りながらの返事に、ついに彼女はキッチンの中へと侵入してきた。今では私の砦となったここも、元は彼女のものだから、表現としてはどうかな、とも思うけど。
「広子ちゃん、あなた私の話ちゃんと聞いてた?」
「えぇ、しっかり」
「なら楽しそう、なんて出てこないはずじゃない?」
火を使っていないことを確認した彼女は、後ろからおずおずと抱きしめてくる。昔は私がスキンシップを嫌がっていたが、今はいつの間にか逆になっていて、思わず笑みがこぼれてしまう。
あの日――私の思いを告げた日を境に、桜さんは私への接触を極端に避けるようになっていた。互いの距離感が解らなくなったとのちに語ってくれたが、あの頃を思い出すと言わない方が良かったのかなと思ったのは一度や二度ではない。
でも話し合って、ようやくつかんだ互いの距離は居心地がよく、時々こうして抱き着いてくる桜さんが愛おしくてたまらない。
「だって桜さん、嫌な時はわざわざ話題にしないでしょう?」
「私だって愚痴のために話題にくらいするわよ」
「桜さんの愚痴は上司以外向いていませんよ」
一緒に過ごすようになって一年以上、私になりに彼女のことを理解できるようになった。
桜さんは、基本女性を貶めるようなことは絶対言わない。愚痴を含め、彼女の女性に対しての敬意を感じる。
ただその中で一人、烏間さんだけは例外で、あの人の話をするときは大体面倒そうに話しているし、あの人の話は尽きることがない。
でもそれは桜さんにとって信頼している証で、それだけ二人の関係が良好なことを示しているようで、なんだか私も思わず微笑んでしまう。
「そうじゃなくて……私もたまにはのんびりしたいわけよ」
背中越しにこぼれた言葉は、どこか弱弱しい。どうやら本当に疲れているみたいだ。もしくは――
「桜さん、何かあったんですか?」
夕食を作る手を一度止め、腰に回されていた彼女の手を包み込む。私より小さい手は震えていて、何かがあったことを口よりも物語る。
私も口下手ではあるが、桜さんは重要なことであるほど重く閉ざす傾向がある。ここで選択を間違えると全く話をしてくれなくなってしまうので、慎重に言葉を選ぶ。
「別に……」
「何もないならいいんです。もし何かあったなら、お話してくれませんか?」
ぎゅっと抱き着く力が強くなり、背中の熱が一層強くなる。頭をぐりぐりと押し付けてくるのがかわいくてたまらないけど、ばれたら拗ねられそうだったからぐっと我慢。
「……」
「桜さん」
「……友人が、結婚する、って聞いた」
か細い声が放ったものに、私も思わず口をつぐんだ。
桜さんの交友関係はかなり広いが、彼女が友人、と称する人たちのほとんどは彼女と一時期同居を許していた人たちのことを指す。桜さんの場合男性であればよかったね、で済む話なのだけれど、そうではないことは私が一番よく知っている。
その〝友人〟の結婚。すなわち。
「そう、ですか」
声が震えている桜さんに、私はどう声をかけるか悩んだ。彼女もそれをわかっているからか、その先を話そうとしない。
ふわりと香る、今日の夕食。作っている私と、そんな私を抱きしめて動かない桜さん。互いに無言なのは、思うところがあるからだ。
一時期、私もその道を望んでいた時期はあった。それは桜さんも同じで、誰もが一度は夢見ることだとは思う。それが当たり前で、誰もが通る道と疑いもしないことだから。
でも、私たちはその道から外れた人たちだ。今でこそ様々なところで話題にこそ上がっているけれど、普通の人たちから見れば奇異な存在なことに変わりない。物珍しくみられることなんてザラで、偏見は絶えず、社会的に〝おかしい〟というレッテルも張られている。他の人たちと同じように大々的に祝われることもなく、むしろ祝福されないことだってある。
そして、彼女と私はそれでも二人でいることを選び、彼女の友人はそうではない道を選んだだけの事。
「招待状送るから、って」
そっけないような、そしてどこか泣き出してしまいそうな声。まるで自分との時間を放り投げるような、投げやりな口調だった。
「結局、こうなるのよね。どれだけの時間を過ごしても、離れたらこうやって結ばれる人を見つけるの。久しぶりに会うと、私といる時よりずっと幸せそうにしてて、あぁこの子も、って思ってね。自分で送り出したはずなのに、こんなことを想うこと自体間違ってるって、」
わかっては、いるんだけど。
徐々に小さくなっていく声に、桜さんの手を握る自分の手が少し強くなった。この手を離してしまったら、彼女が縋る場所がなくなってしまう気がした。
話口調からして、こうして送り出した数は一回や二回のものではなさそうだ。そして桜さんのことだから、律儀に招待され、何度も祝福する参列者の一人として、美しい花嫁を見送ってきたのだろう。
――自分は祝福される側になれないと思いながら。
私はまだ自覚して日が浅いが、桜さんはもっと前から、そうなれないことを悟っていた。徐々に現実味を帯びている私より、ずっと前から。
歯がゆい、と思った。どうして私じゃ、と。
「……ごめん。広子ちゃんに言っても、どうしようもないっていうのは最初からわかっていたの。だから――」
違う。桜さんにそんなことを言わせるために聞いたわけじゃない。
「ほら、夕飯冷めちゃうわ。今日のお夕飯は――」
「待って、ください」
話を逸らそうとする彼女を引き留める。これ以上話をしても変わらないかもしれないけど、このまま何事もなかったように振る舞われることを考えたら、放ってなどいられない。
とっさに引き留めて自然と向かい合う。私よりも小さい体に、彼女はいったいどれほどの苦労と我慢を重ねてきたのか、想像することさえおこがましい。
でも、少なくとも今、目の前にいるのは私だ。私がどうしたいのか、彼女とどうありたいのかを決められるのは、私しかいないから。
「ちょ、危ないじゃない」
「桜さん」
今までの私は、怖気づいて何も言えなかった。桜さんの言葉を全部聞き入れて、彼女の居心地がいいように返事をするだけだった。それがこの関係を続けるための条件だと、思い込んでいたから。
でも、それは半分正解で、半分は間違いだった。
だってそれは、彼女の痛みを共有できない、上辺だけの関係に他ならない。私は桜さんとそんな薄っぺらい関係でいたいわけじゃないのだ。それは、今まで彼女と関係を築いてきた人たちと同じで、彼女にとって〝いつか離れること〟を前提にしたものだ。
それじゃだめだから。私は、桜さんと。
「今度、大きめの休みを取りませんか?」
いろいろ考えて出た答え。私の切羽詰まった声色に、彼女は何を感じたのか。まっすぐ見つめる私の目から逃れるように、桜さんは目を逸らす。休みの有無以外の気配を感じていたのだ。その辺はさすがと言うべきか、桜さんらしいというか。
でも、私がここで折れるわけにはいかない。気づかれたからなんだというのだ。ここで私も一緒に黙ってしまったら今までと何も変わらない。彼女の、桜さんの苦労や我慢を少しでも一緒に持って歩きたい、と願ったのだ。
「たまにはのんびりしたいんですよね」
「ま、まぁ……」
「なら、一緒に来てほしいところがあるんです」
そのために、私から近づくことが、歩み寄ることが一番大切だ。
目を逸らす桜さんの頬を包み、再び私と視線を絡ませる。どこか怯えを帯びた瞳は、私が告げる言葉が何か。
――なに、わかっていないのだ。
「来月でもいいです。その先でも、一年後でも。桜さんの気持ちが固まったら」
「な、何言って」
「福岡、なんですよ」
放った言葉に、桜さんの顔が疑問の色を浮かべる。彼女の考えと的外れな解答に驚きすぎて、返事を考える間が生まれる。
私は、その瞬間を待っていた。
「一緒に来てください。私の実家に」
「……――は!?」
思った通りの反応に、思わず笑ってしまいそうになる。私に捕まっている桜さんは逃げる術も、自分の驚いて見開いた瞳や閉じることを忘れた口元隠すこともできず、ただ微笑む私に見つめられている。徐々に理解してきたのか、みるみるうちに顔が赤くなる彼女が、愛しくてたまらない。
「広子ちゃん、あなた、何言って――」
「ここ数年、帰っていないこともありますし、両親にもきちんと報告したかったんです」
私が決めた、この世で一番大切な人のことを。
あふれた愛しさを隠すことなく、ありのままを伝える。今の私が彼女を安心させるためには、これが何よりも効果的だと思ったから。
桜さんは、私の話を理解すればするほど顔を赤くして、視線を右往左往と彷徨わせている。口をパクパクさせて、逃げようとするも力が抜けてしまったのか、結局私の体に預けてきた。
「……じゃ、ないの」
「どうしましたか?」
口下手で、自分の気持ちを隠してしまう、どうしようもない人。
「バカ、じゃないのって言ったの」
同じだからこそ、抱える痛みを共有したいと思えるんだ。
「馬鹿で結構です。桜さんが好きだから、そう思うんですから」
「……ご両親を悲しませてしまうかもしれないのに」
「もしそうなったら、一緒に説得してください」
「それで、仲が悪くなったりでもしたら」
「喧嘩したら仲直りすればいいだけです。父も母も、きちんと話を聞いてくれる人たちですから」
何があっても、私はこの人から離れないと、誓った。
強くて、儚い人。いつもは強気なくせに、大事な時であればあるほど自分を押し殺す、どうしようもない人だけど。
「……こういう時、広子ちゃんには敵わないわね。若さかしら」
「私だってやるときはやりますよ。それに年だって三つくらいしか変わらないじゃないですか」
徐々に柔らかさを取り戻す桜さんの声色。預けて隠された顔が上がって、三度視線が絡み合う。
――その表情は、もう愁いを帯びていなかった。
「それも、そうね。いつもは私任せな癖に、いいところは全部持っていっちゃうの」
「人聞き悪い事言わないでください。私だって頑張ってるのに」
「あら、それは失礼」
「もう……」
いつもの桜さんだ。お調子者で、優しい人で、私の愛しい人。
「さ、夕食にしちゃいましょう。今日はなにかし――」
だから、これは溢れた分。この気持ちを、桜さんにもあげたいと思ったんだ。
重なった唇から、少しでも伝わればいいのに、なんて。
「今日は懐かしの回鍋肉ですよ」
「なっ……!」
何気ない口調で返したけど、桜さんはそれどこじゃなさそうだ。
自分からはスキンシップを取るくせに、自分はされると純粋で、可愛い姿を見せてくれる。私以外に魅せないその表情は、私だけが知っていればいい。
桜さんに会うまでは、自分に独占欲があるなんて考えたこともなかったけど、彼女を独り占めしたい気持ちに気づいた時、人を好きになることの意味を知った。
「もう、広子ちゃん!」
「顔赤くしてる桜さんも可愛くて素敵ですよ」
私はこの人が好きだ。彼女が今まで出会ってきた誰よりも好きだと胸を張って言える自信が、私にはある。
だから、貴女にも気づいてほしい。
いつも人間関係をどこか諦めている貴女だから、私はそうじゃないと伝えたい。諦めなくていい人なんだと、思ってほしい。言葉だけじゃ信じてもらえないから行動して、その証を刻んでいく。
「広子ちゃん」
「はい」
「……今度、いいえ、来月ね。一週間くらい休み取るから、合わせてくれる?」
だから私は、彼女の精一杯を受け取って。
「もちろんです」
あふれてやまないこの愛を、彼女を抱きしめて伝えよう。
――すべては、私たちだけの幸せのために。
久しぶりにこのページ開いたら、なにがなんだかわからなかった。
ご無沙汰してます、如月です。
今回はうちの子短編第一弾ってことで能見さんと矢野さんのお話。
これから徐々に増えていく予定です。頑張りますのでよろしくお願いします。