1-俺のプロローグ
1章
俺のプロローグ
昔、小さなインコを飼っていた。
鮮やかな黄緑色でころころとよく頭をかしげるインコ。とても賢くてよく俺の口癖をマネしていた。
俺は友達にも恵まれていたしいじめられた経験もなかったが、どんな奴と遊ぶよりもそいつと一日中意味もない単語を繰り返し口にしているのが楽しかった。時にはまるで人間を相手にしているかのように愚痴を吐くことも。唯一何でも話せる友人だった。
けれど、小学校4年生の夏。突然そんな日々も終わった。
学校帰りに友達と公園で遊び、帰りが少しだけ遅くなったある日。いつもの鳥籠にあいつの姿はなかった。
リビングでは申し訳なさそうにうつむき黙っている母親がいて、しきりに「ごめんね」と繰り返していた。
話を聞くとその日、籠の中を掃除しようといつものように籠の外にインコを出して放していると気が付けばいなくなっていたという。窓を開けていても決して外には出て行かなかったあいつが何を思ったのか突然逃げ出したと。嘘ではないと思う。でも、どうしても信じられなかった。奴が来てから一度もそんなことはなかったから。
ただ、その日以来俺は誰かに弱い部分を見せなくなった。
甘えたりなんてもっての外。誰かに頼り頼られなんて考えなくなった。
頼ったり甘えたり。そんなことはこの上なく情けなくて無意味なことだと思った。
信じることも、ただただ面倒になった。
午前10時。
厚手のカーテンの細い隙間から鋭い日射しが差し込んでいるだけの真っ暗な部屋で今日もまた目を覚ます。外の世界から零れた騒音だけがこの部屋に響いている。きしむ体をうねらせながら少しづつ意識を呼び起こす。
目を開けたのはそれから15分経った後だ。
うっすら肌寒い空気は締め切ったカーテンのせいかこの部屋の造りのせいか、それともそういう季節が顔を見せてきているのか。やけに冷たい床を踏み込み、台所の冷蔵庫を開ける。男の一人暮らしとは腹は減っていてもそう都合よく食べ物が保存されているとは限らない。いつになったらこの小さな貯蔵庫に食べ物は詰まってくれるのか。溜まっていくのは使いもしない調味料ばかりだ。
ため息にも似た呼吸を一息して、重たい頭を持ち上げる。まだ開ききらない瞼の間から暗闇を透かしてグラスを手に取る。ここの水はとてもまずい。口の端から滴る雫を着古したTシャツの端で拭い、ぼんやりと部屋の中を見渡す。
こうして冷静に眺めてみると、本当に人が住むような部屋ではないほど散らかっている。脱ぎっぱなしの下着に大量のコンビニの袋。中はもちろん空になったコンビニ弁当のゴミたち。たまに飲みきった缶ビールの姿も見える。掃除をすべきだと思いはするがタバコを一本口にした瞬間に忘れてしまう。厳密には忘れたフリ。
換気扇の下に広がる燃えカスと花びらにも見える灰皿に敷き詰められた吸い殻。全部俺を責めてくるようで嫌になる。こんな暮らしもかれこれ5年続いている。やめたくても抜け出せない。抜け出す気もないから当然だ。
午後4時。
気が付けばきしむソファーの上で二度寝にふけっていた俺はようやくしっかりと目を開いた。
日が沈むのが最近早いおかげでもう部屋の中の闇は深みを増していた。
あちこちを向いていた髪の毛を一気に流し、乱暴に体をこすってはほんの数分で一日の禊は終了。ここ最近といってもずいぶん前から風呂に浸かっていない。疲れをとるほど動いていないし、いくら洗い流してもこれから俺はまた汚れていくのだから無意味だ。
乱暴にタオルでかき乱す髪は昔から変わらずうねっている。美容室に行ったのは半年前で今では前髪も目の前を通り過ぎてきた。
襟が緩まった大好きなバンドのTシャツはずいぶん色あせて古着屋で高く売れそうなほどになった。5年前に比べて俺の体重は6キロほど減少。浮き出た鎖骨が悲しいほどに丸見えだ
上に紺色のジャージを羽織り、パソコンの電源を入れる。ここから俺の仕事はようやく始まる。
パソコンのメール通知は毎日約15件。それより多い時もあれば少ない時もある。
果たしてそのメールには何が書いてあるのか。希望予算と希望配達日時の他に並べられているのは、しょうもない性癖の告白。
俺はそのラブレターを受け取り、希望日時までに形にして薄っぺらいDVD-Rに焼いてお届けする。気が付けば俺の通帳には何万か支給されているという仕組みだ。これは合法かどうかなんて考えたこともない。考えたら負けだとは思っている。
いつかは大きな輝く希望を胸に毎日を過ごしていたのに今となっては大した目標もなくただ明日もこうしてメールをチェックして顔も知らないブタから小遣いをもらってひっそりと生きている。
俺はこんなことをするためにこんな汚い街にいるわけではないのにな。
午前1時。
多くの人間が布団に戻るころ俺はようやく外に出る。別に人ごみが嫌いなわけじゃないが、気が付けばこの時間に決まって外に出ている。学校を卒業してからずっとこうしてきた。
近くのコンビニには少しイカれた店長とコロコロかわる新人アルバイト。大体この店の歴史は見てきたほどに通い詰めている。別にお気に入りでもなんでもない。ただ単純に家の近くにあるから。それだけだ。
「860円です」
無愛想な金髪の女子大学生が気だるげにつぶやく。ちょっとは色気をだしてみろよと俺もつぶやいた。心の中で。
静かに開いた自動ドアを出て、向かう先は資料の倉庫。
「いらっしゃいませー」
「ういーす」
ここで働く社員の吉川さんはもう7年俺の顔を見てきている。
「また来たのか」
「これも仕事っすから。さすがに見飽きました?俺の顔」
そうだなと笑う彼は俺よりずっと年上でいい学歴もなければただの気のいいおじさんだ。
「今日入荷ありました?」
「ああ、アダルトは百数本入ったよ」
「もう並んでます?」
「まだこれからだけどこの台車に乗ってるから取って言っていいよ」
「あざーす」
ところどころ剝げかかった鉄の台車に並ぶぴかぴかDVDの数々。その中から俺はいつも好きでもないジャンルと女優を大量に抜きとっていく。あまりの量に常連であろうよく見かける剝げた親父はいつも三度必ず俺を横目で見る。
いい加減慣れろよ。
視線を返すと必ず咳をして顔をそらすのがこの親父の癖。そんなどうでもいいことまで俺の日常に入り込んでいるのかと思うと頭が痛くなる。
今日もまた十数枚のアダルトビデオをレジに積む。
「あの子やめたんすか」
「そう。最近の子は根気が無くてな。出来ないなら最初から深夜になんか希望出さなきゃいいのにね」
「まあ、そうっすね」
「割引きで五千八十円。また三泊でいいか?」
「はい」
慣れた手つきで鍵抜きをして袋に詰めてくれる吉川さんはいつも小言で返事をする。7年前はそんなことなかった。この人も年をとったんだろうか。
「また三日後に」
そう言って笑顔を見せるところはいつまでたっても変わらない。とてもいい人。ただそれだけの人なんだろう。
資料を手に入れた俺は自宅に戻るとすぐさま作業に入る。
観たくもない男と女の汚いパフォーマンスに目を汚して、その中から飛び切りいいシーンを探す。そんなもの無いと思っていてもだ。これを手に入れたいがために金を払う男の気持ちは一生かかっても俺は理解できない。したくもない。
高校を卒業してこの街に来てからだ。全てがまるで逆転して俺を襲ってきたのは。
夢に少しでも近づきたいがために親に頭を下げて入学した映像の学校に通うため、俺は単身で上京した。
在学中は夢中で課題に取り組み、自主的にも好き勝手やっていた。
それが高く評価されればされるほど同期や後輩に知り合いが増えて、人脈もできた。大きくならなければ好きなように好きなことは出来ないと知った。有名監督や先生、仲間にも「お前は成功していくんだろう」そう言われてきた。そして卒業式の日、卒業証書を手にして仲間と集合写真を撮ったあの瞬間。俺は絶対に間違えない。そう思っていた。
それが今ではこのざまだ。就職には失敗し、普通に生きるのも苦痛になってしまいには俺は世間から消えた人間そのものだ。当時の仲間とはもう一切連絡を絶ち、無様な姿を見せまいと流行っていたSNSもやめた。携帯は仕事以外で鳴ることはなく、大概の相手が得体のしれないスケベな親父からの依頼電話。
当時付き合っていた彼女は俺の転落人生を予想したのかずいぶん前に音信不通になった。まさか20歳を超えてで自然消滅を経験するとは思っても見なかった。情けないにもほどがある。
まさに盛大な挫折を経験した俺は何もする気が起きず、食べ物の味すらわからなくなっている。さすがにやばいなと思っていても人はなかなか変われないものだ。
今の俺は世の中から吐き出された道端のガムみたいに無意味で汚れた存在に成り下がった。
こんな話聞いたら、みんな笑うんだろうな。俺だっておかしいくらいなんだから。
一日に仕上げる駄作の本数は約五本。
最後の一作を仕上げたところでようやく俺の相棒でもあるパソコンは眠りにつく。
固まりきった体の筋肉を無理やりに動かして一日の締めに火をつける。
ずっしりと広がる重みを全身で感じながら煙を吐き出す。
こんな人生くそくらえと思えば思うほど気力はなくなっていく。
確実に俺の細胞は死へとまっしぐらなのは自分でも分かっている。
それでも、見ないふりを繰り返してまた俺の朝は幕を閉じる。
誰に言うでもないおやすみの挨拶はいつもこう。
「しょーもな」