決別の音
きっとあなたとは縁がなかった。
そう言えたらどんなにいいか。彩夏はそっと溜息をついた。
帯が苦しくて仕方がない。慣れない振りそでなんて着たくなかったのに。
「ご趣味は?」
「……はい」
それでもどうにか答えようとしたところで、母が割り込んできた。
「この子は読書とお菓子作りが趣味ですの」
「そう、ですね」
そんなことしか答えられない。
結局、この見合いに乗り気なのは母であって私じゃない。
酷い話だと思う。私には付き合ってる彼氏だっているのに。
母の見たてによれば、私はひどい趣味で、結婚もできないダメ娘。らしい。
だから私が気にいる人と結婚すれば幸せになるにきまってる! というのだが……私は母のほうこそ趣味が悪いと思えて仕方ない。
確かに、稼いではいそうだ。公務員だし、安定してそう。だけど、こちらを見る目は好きになれない。
上から下までじっくりと見て鼻で笑ったのがよくわかった。
この人は私を自分に釣り合うかどうかとしてしか見てないんじゃないだろうか。
――帰りたい。
母と見合い相手の話はよく弾んでいる。
私を除いて二人の相性は良さそうだ……それなら二人で結婚すればいいのに。
それでもどうにか合間を見て「お手洗いに行かせていただけますか」とだけ言えた。私にしては上出来だろう。
ほうほうの体で部屋を抜け出し、綺麗なお手洗いに入る。
まだ始まって30分。あとどのくらい続くのか知らないが、それまで精神的に持つかどうか。
(またストレスでげっそり痩せたりしたらたまったもんじゃない)
ざぁざぁと流れる水で顔を洗ってしまいたいが、化粧の関係上それは無理で。
仕方なしにハンカチを軽く濡らして首回りを冷やす。――本当に、たまらない。色々な意味で。
ため息をつく気にもなれないまま、胸が重くふさいでいく。
いつまでもここに籠っていては母が来かねない、そう思って出ようと引き戸に手をかけた。
その瞬間、自動で開いた。
(え?)
向こう側には長身の人影。逆光になっていて表情こそわからないが、驚いたのか動きが止まっている。
軽く会釈して隙間をすり抜けようとしたら、体をひねって通してくれた。
「彩夏」
すれ違う瞬間にかすれた声がぽつりと落ちる。二の腕を軽くつかまれた。
「……しのちゃん?」
あのころとは大分変わったが、彼女は私のヒーローだ。
高校生の頃、私を助けてくれた。その分私も一生懸命努力した。彼女のそばにいるために勉強も、交友関係も。
母にはそれが気に食わなかったようで、彼女のことを悪しざまにののしって私も気がくるってるとまで言われた。
高校を出てからは、彼女に連絡を取ることすら許されなくなって……私は、彼女が何をしているのか全く知らない。
「わるい……呼びとめて」
「ううん、そんなことないよ……まだ戻らなくてもいいし、きっと」
「戻れ。そのほうがいい。スマイルでいればいい。そうすればきっとうまくいくさ」
「………戻りたくない」
「そうか」
「ねぇ」
私も手を伸ばして彼女の二の腕に触れる。
「逃げたら、だめかな」
初めて会ったとき、彼女は言った。「逃げたっていいんだよ」と。
その台詞を彼女に問う。お墨付きが欲しかった。
実際に逃げればとんでもないことになるのは目に見えている。母は最悪、私の職場まできて怒鳴り散らすだろう。
ただでさえ母には前歴があるので、怒らせないことに越したことはない。
それでも、逃げたかった。
愛してくれ、なんて贅沢は言わない。
ただ、私という人格を尊重してくれる人と一緒になりたかった。
そうしてくれる人になんてそうそう会えないと分かっている。でも、そういう人なら心から愛せると思った。
「逃げたっていいよ」
彼女はそう言った。
そっと私の頭に手を置いて、呟くような小さな声でそう言った。
それは余りにも弱々しく、彼女こそそう言ってもらいたいのかもしれないと、そんなことを思った。
化粧室から出る。
離れがたいと訴える心を押さえつけて、私と彼女は身を離した。
さよならもまたねも言わなかった。
部屋に戻れば母が内心イライラしているようで、私をにらんできた。
それをしっかりと目を反らさずに見つめ返してから、見合い相手の対面に座る。
背を伸ばして、口を開いた。
「あなたは、なぜ結婚したいと思われたんですか?」
きっと、私とあなたには縁なんてないでしょうに。
誰でもよかったなら、私でなくてもいいでしょう。
不思議に気持ちは穏やかだった。この話を断ってしまえば、母と全面戦争に入るだろう。
それでも、この人とは結婚したくないと思った。
最初の1秒にも満たない時間で、人は第一印象を決めるという。そして一度持った印象というのは、その後の相手の言動で強化されていくと。
最悪の第一印象、それを抱かせたことに気づいてすらいない鈍感な人と一緒にはいたくない。
深く息を吸う。
笑え。楽しくなくとも。笑って言え。優雅に、たおやかに。見た目だけは誰からも文句がつけられないような姿で、言い放て。
「私が結婚するとしても、貴方のような人とではありません。私は私を尊重してくれる人と、生涯をともにしたいので」
目の前の男の表情が醜くゆがむ。思いもしなかったのだろう、私のような立場の弱い人間がかみついてくることがあるなんて想像もしなかったに違いない。
装飾品だけは立派でも、この男はだめだ。
やがて目の前の男は顔を真っ赤にして立ち上がった。
母が必死で引き留めているが、そんなものかまうものか。
何が吐き捨てるようにわめいて出て行く男に、頭を下げた。――所詮、その程度なのだろう。
「母さん、私帰るね」
「……あなた、何を考えてるの!」
「初対面で人のことを鼻で笑うような人と一緒にいたくはないもの」
「お父さんになんて言うつもりなの!」
悲鳴のような声でそれだけを言うと、母は部屋を急ぎ足で出て行った。
仲人さんもそれに続いて、謝りに行くのだろう、そんな会話が聞こえた。
テーブルの上の冷め切ったお茶を一口飲んで、鞄を手にする。後悔はなかった。
部屋を出ようとして、ふと振り返った。
空調の音がかすかにする、明るい部屋。美しい調度品、凝った絵、豪華な花。そんなものに埋め尽くされた部屋が、とても寂しく見えた。
生きなくてはいけない。
「さよなら」
ふすまを閉める音が静かに耳に届く。
それは、決別の音に似ていた。