ラヴェンナ、怪奇な事件
今年のラヴェンナは涼しい。雨上がりには肌寒く感じてしまうくらいだ。もちろん毎年、今年のような冷夏ではなく、溶けるように暑い夏もあれば、幸せな気分にさせるポカポカと暖かい夏もある。無論冷夏も例外ではない。これはラヴェンナに限らず、気候というのものはそういうものであるのだが、とはいっても今年の夏は少し涼しすぎる。寒いと思える日もあるくらいだ。
ここ、ラヴェンナの海港都市リドは、明日催される漁業振興の祭りの準備で賑わっていた。ローマ帝国が東西に分裂し、衰退が目に見えるようになってきたものの、それでもやはりこの時期だけは酒を飲んだり、歌って騒いだり、国の情勢の不安定さを忘れることができる。この祭りのときほど、幸せそうな笑い声が飛び交うことは、一年の残りのどこを探してもまずないだろう。
港では、水夫や貿易商、奴隷などが魚や貿易の商品を掛け声とともに下ろしている。魚が大量なのか、または祭りの時期で景気がいいということで大きい商談が成立しているのか、たくさんの人だかりができていた。
港だけではなく、どこも人であふれて盛り上がっており、酒場には仕事終わりまたは仕事をほっぽりだして酒を酌み交わす汗臭い男衆、湯屋には祭りで踊り子をするため体をきれいに濯ぐ女子、露天市場には果物やパンを買いにきた年増や子供奴隷が列をなしている。
日が沈み始めた街を二人の青年が駆け巡る。ソロとソロと同い年の修道院見習いは、家路につく人だかりを縫って、石が敷き詰められた大通りを猛スピードで駆け下りていく。石は綺麗に敷き詰められてはいるが、大小様々な石が使われているので、つま先に引っかかって何度か転びそうになった。
露天市場で人だかりに出くわし、ぶつかりそうになるも、細身ではあるが小柄ではない体をうまくくねらし、躱す。
少し息を切らせながらも、決してスピードは落とさない。
もう一人の修道院見習いはソロに着いていくのを諦めたのか、大通りを全速力で走り抜けるソロの無礼な行為の詫びに、すれ違う通行人に会釈をしながら小走りでついていった。
なお、ソロは脇目もふれず家に向かった。
(帰って来た。ラウルおじさんが帰って来た。)
ラウルの帰還を聞いて胸を躍らせ、早く会って話をしたいという気持ちがさらにギアをあげさせる。
「ソロ!」
ソロがさらに加速しようとした瞬間、誰かに呼ばれた気がした。
(気のせいか)
いや、おそらく誰かに呼ばれたのだろうが、早く帰りたい心が、その事実をかき消した。
しかし、その声はすぐに確信に変わった。
「おーい、ソロ」
声はさらに遠く、小さくなったが、太く聞き覚えのある声だった。確かに誰かが自分を呼んだ。さすがに二度も呼び止めた者を無視することはできない。
ソロは徐々にスピードを緩め、渋々坂道を引き返した。
さっきまで猛スピードで走っていた青年が、足を止め引き返すので、何事かと思った通行人の視線を集める。
すると、遅れをとっていたもう一人が、ソロに追いついた。
「おい、どうしたんだ。なんか落としたのか」
「いや、誰かが呼んでるから」
「ふーん。ラウルおじさんじゃねーの」
(そうか。)
「先、帰ってて」
一方的なお別れの言葉を残して、ソロは修道院見習いの横を通り過ぎた。
もしかすると、と思いまた加速し走り出した。
「明日、教会来れるのかー」
「いや、明日は行けない」
ソロは後ろから男の問いに対し、振り返りはせず手を挙げて答えた。男がそのまま帰ったのも確認しないまま、期待を胸に大通りを引き返していった。
その期待はすぐに打ち砕かれた。呼んだのはヒゲを生やした禿頭の中年の男で、この坂道で羊乳を売る店主、ここらの露天市場の首長であるバンだ。
「なんだ、おっちゃんか」
隠す気もない落胆した気持ちは、冷たい言葉で現れる。
しかし、バンそんな言葉はものともせず、いや、耳には入らず、酒臭い声で話し始めた。
「なんだとはなんだ。ガキの頃散々世話してやったのに」
「世話された覚えはないけど」
本当は覚えていたのだが、いちいち相手にするのは面倒だし、何か小っ恥ずかしかった。
「お前が本当に小さかったからな。忘れても無理は…」
「ごめん。用は何?俺急いでるんだ」
急いでいるのに中身のない話は聞きたくない。
「用って‥‥そりゃ、お前があんなスピードで坂走ってたら気になるだろう」
ソロは溜息をついた。落胆と、どこか安堵まじりのため息だった。
(このおやじは変わらないな。良いも悪いも変わらない。おせっかいなところも変わっていない。これは適当にあしらってすぐに帰れそうにない。よし、わかった。腰を据えて話してやる)
ソロはこの頬を真っ赤にした酔っ払いの相手をすると腹を括った。
「ラウルおじさんが帰って来たんだ。さっき教会の神父が教えてくれた」
「なんだ、あいつが帰って来たのか。何年も帰って来ないから、死んだと思ったぜ。わっはっは!」
バンは大きく口を開けて笑った。相当酔っているようだ。
「だから急いでたんだ。旅の話を聞きたかったから」
「そうか。お前は小さい頃からラウルが好きだったもんな」
そう言うと、バンは大きく溜息を吐く
「そうか…、あいつが帰って来たのか」
バンはソロの急いでいた理由を聞いて安心したのか、仕事で汚れた前掛けを外し、店にある木箱に腰を下ろた。そして一気に木のジョッキに注がれた葡萄酒を食らった。祭りの気にも当てられたのか、午後の分の羊乳もほぼ完売らしく、自分の財布も緩んでしまっているのだろう。
酒を最後の一滴まで飲み終わったら、ジョッキを握りながら話を続ける。
「今はお祭り騒ぎだが、ここ最近は物騒だからな」
急に粛然と言うと、バンは親指で露店の後ろにある掲示板をさした。そこに貼り出されているそれはもちろん知っている。この街で住んでいて知らない訳がない。その掲示板があったからバンはソロが猛スピードで走っていたから、何事かと心配したのだろう。
「ソロ、館長の葬式に行ったか」
「うん。もちろん」
「そうだよな。この街ではお前が一番あの図書館に通っていたもんな。ほんと、ひどい話だ」
この坂を上がって、いりくんだ路地に入り、ずっと真っ直ぐ行ったところにひっそり図書館が構えてある。日当りも存在自体もも陰のような図書館だが、蔵書な数は多く、このリドでは雄一貸し出しが可能な図書館で利用する住民も多い。何せ館長の温厚な性格はみんなから慕わられ、町議会でのご意見番や、子供達のよき相談相手にもなっていたくらいだ。ソロもそんな館長を慕い、足繁く通い本が好きになった。
その館長が殺されたのだ。首を切断されて。
その立派な図書館がそのような日陰にあるのは、様々な神や密教に関する本も蔵書されているので、教会がそこに追いやったのだ。このことから館長を殺したのは教会だと唱える住民もいるが、犯人は明らかになっていない。
「ラウルに会えたらこの話をしといてくれ。あいつなら何でも知っているし、賢いからな」
「うん、わかった」
ラウルおじさんでも、この奇怪な事件を解決できるのだろうか。解決は無理でも何かいい話を聞けるかもしれない。バンに頼まれなくても聞きたかったことだ。大好きな館長が殺されたのだ。首を切断するという残酷なやり方で。
「本当に許せねえよ」
バンはジョッキを強く握って、押さえきれない感情を吐き出した。
「おっちゃん。チーズ三個ちょうだいよ。親父から頼まれたんだ」
「そうか、もう夜だから生では食べるなよ」
本当はそんなお使いは頼まれてはいなかったが、早くおじさんと館長の件を含めて話したかったことと、今まで見なかったバンの悲嘆な顔を見るのが居た堪れなくなったので、帰る口実を作ったのだ。バンは店に残っていたチーズ全部を、獣の皮でできた巾着袋に押し込み手渡すと、店締を始めたので、帰ることにした。
「店締め終わったら、すぐ行くからな」
「差し入れはこのチーズってことにしとくから、手ぶらで来てよ」
「あいよ」
ソロはバンの露店をあとにし、大通りを下って行った。
日は沈み、もう周りはすっかり暗くなっているので、酒場や家のあちこちで獣脂のランプを灯している。あちこちの開いた窓や扉からは酒を飲んで騒ぎだす男の声や、祭りのときに使う木管楽器の音が聞こえてくる。
広場ではもうすでに祭りの前夜祭が始まり、昼のときより街が騒がしくなる。もう通りには全く人はいなかったが、こんな夜に走って帰るのも無粋だと思い、ソロは仕方なく歩いて帰ることにした。