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56 - 君に贈る

 顔が見たかった。

 声が聴きたかった。

 肌に触れたかった。

 逢いたかった。ただただ逢いたかった。

 焦げて、焦がれて。

 喉が擦り切れるほどに叫んで、歯が砕けるほどに食いしばって、焼け落ちるほどに想いを募らせて。


 手を伸ばせば届く距離に彼女はいる。

 揺るぎを持たない碧の双眸、流れるように紡がれた金糸の髪、薄く紅の引かれた瑞々しい唇。

 着飾っていても、着飾っていなくても、決して変わることのない彼女という女。

 まっすぐに射抜く視線に縫い止められて自由に息をすることもできない。

 確信。

 自分の彼女への想いは、決して作り物ではない。

 欲しい。彼女が欲しい。どんな手を使っても彼女が欲しい。

 手枷足枷目を隠し、鍵のついた檻の中へ閉じ込めて、誰の目にも触れない場所にしまい込んでしまいたい。

 ――嗚呼、駄目だ。

 冷静な心が言う。

 彼女は鳥だ。どこまでも抜けるような青い空をその翼を広げて飛ぶ鳥だ。籠の鳥にはならない。してはいけない。

 翼をもがれた瞬間に、きっと彼女は自らその命を絶つだろう。

 気高き鳥だから。いくら手を伸ばしても届かない自由を謳う鳥だから。

 そんな彼女に自分は惹かれたのだから。


 跪く。

 胸に手を当て、静かに息を吸う。

「一度は君のことを諦めた」

 震えるかと思った声は、不思議と震えることなく紡ぐことができた。

「受け入れることをためらっていた君への想いを捨て、すべてを投げ出して逃げようとした。兄が戦場で命を散らしたと聞かされたときと同じく。自分が無力であることを認めるのが怖かった」

 エリスは黙って聞いていた。

 そうだろう。彼女はそういう女だ。

「腑抜けた俺に、君の従者は優しくしてくれた。まるで責めるように。君の兄はもっと直接的だった。今まで体験したどんなしごきよりも効いた」

 己の弱さをさらけ出すことへの恐怖を、言葉にして絞り出す。

 体が震えていないか、それだけが不安だった。

「初めて正面から自分と向き合った。ごまかしも虚言も、一切取り除いて。俺は俺と、シック・トライガルトという男と向かい合った」

 顔を上げる。

 先ほどは見下ろせる位置にあったエリスの顔は、今は見上げる高さにある。

 息を吐く。吸う。

「エリス……エリシアナ・バードランド、君に聞いてほしい。俺の、ジスターデ国疾風騎士団所属の騎士の、君に雇われた傭兵の、君を護ると誓った男の、決意を」

 目は逸らさない。正面から受け止めてくれるエリスも逸らさない。


 促すようにエリスが首肯した。

 唾を嚥下する。指先がピリピリと痺れた。

「君の傍から決して離れない」

 瞬きもせずに言い切る。

 それはとても自分勝手で、自己満足な、誓いにもならない宣言。

「太陽が昇り沈みまた昇っても、魂が爆ぜ飛んだとしても、決して君を諦めない」

 護るとか護らないとか、そういった次元を超えて。

 それはただの決意。文字通り、ただの決意。

「太陽が燃え尽き君を焦がそうとするのならば、太陽を斬り捨てる。月が落ちて君を押しつぶそうとするのならば、月を斬り捨てる。風が荒れて君を引き裂こうとするのならば、風を斬り捨てる」

 指の痺れは消えていた。

 自分勝手で自己満足なただの決意を口にしているだけ。緊張する必要などなく、不安に思うこともない。

「騎士として、傭兵として、男として――エリス、君の傍にいることを、許してほしい」

 射抜く。

 目で、言葉で、想いで。

 エリスは逃げない。逸らさない。

 シックとは違う。彼女は強い。


 口が開く。

 ただ、一言。

「許す」

 差し出されたのは左手。

 息を吸って、吐いて。シックは恭しくその手を取り、甲に唇を落とした。


 ――もう耐えられない。


 シックは立ち上がり様に手を引きエリスの体を腕の中にかき抱いた。どこにも逃がさないように。

 柔らかくて、優しいにおいがした。

「ちょ、ちょっと。そこまで許してないってば。ちょ、ばっ、も……もう」

 腕の中で暴れようとしたエリスだったが、途中で仕方なさそうに力を抜いた。

 背中に回った手がシックの背中を優しく叩く。

 ここにいる。エリスがここにいる。偽物じゃないエリスがここにいる。

 二度と諦めるものか。

 二度と離すものか。

 二度と、二度と。





 どれだけの時間をそうして過ごしたのかはわからない。

 腕の中でエリスが身じろいだのを契機に、ようやくシックはエリスを抱く腕から力を抜いた。離さなかったが。

「あーあ、もう。ほら、あんたがいきなり変なことするから服に紅付いちゃったわよ」

 言われて見下ろす。確かに胸元にエリスの唇に薄く引かれていた紅が付着していた。

「……事後みたいだな」

 殴られた。

 加減していない胸板への一発は、それでもエリスの力程度では痛さすら感じなかった。

「っていうかもう離しなさい。いつまで私の許可なく触ってんのよ。セクハラで訴えるわよ」

「それはできないな」

「はぁ? なんで?」

「傍にいることを許してくれただろ?」

 にやにやしながら言ったら、また殴られた。

「はーなーしーなーさーいー」

「断る」

 当然のように言って再び引き寄せる。今度は本気で抵抗された。


「バーリハー!」

 魔の王に対してエリスが救援を要請した瞬間、鼻先を紅い刀身が掠めた。

「きゃっ!」

 遅れてエリスが短い悲鳴を上げる。

 確認するまでもなかったが、横を見れば抜刀したバーリハーがいた。

「バーリハー!」

 今度は怒声だった。雷が落ちる、とはまさしくこのことを言うのだろう。

 さっとバーリハーが納刀する。まるでごまかすような速さだった。

「危ないでしょうが!」

「エリシアナに当てるほど腕は悪くない」

「そういう問題じゃないでしょ! 心臓に悪いのよ!!」

「心臓は狙っていない」

「びっくりするって言ってんのよ! あんた後で正座だからね!」

 ふいっとバーリハーが顔をそむけた。割とわかりやすい反抗の態度だった。

 表情は変わらないのはあれかもしれない。長いことひとりでここにいたから。感情表現の方法を知らないのだろう。

「あんたも! いつまで腰に手を回してんの!」

 脛を蹴られた。


 仕方なく渋々手を離す。

 横から手が生えた。

「はいっ!」

 シュキハの手だった。

「拙者も武士の誓いやりたい!」

 蹴っておいた。

 反撃を喰らったのでさらにやり返す。

 乱闘につながった。






 全員が落ち着いたのはそれから数分後。エリスの雷が落ちた。

 揃ってエリスの前に――なぜか何もしていないルーダも――正座させられる。腰に手を当て柳眉を吊り上げているエリスには不思議と迫力があった。

「はぁ~、もう頭痛いわ」

「添い寝しようか?」

「黙れ」

 軽口はいとも容易く一蹴された。

 鼻から息を吐き出してエリスが玉座に座る。焼け焦げているのにエリスが座るとなぜかみすぼらしく見えなかった。

「ルーダ、おいで」

「え?」

「あんた何もしてないからこっち来なさい」

「え、う、あ、でも」

「おいで」

 小首を傾げて甘えるようにエリスが言う。脊椎反射でルーダを睨んだのはシックだけではなかった。

 跳ねるようにルーダが体を震わせる。泣きそうな顔でぶんぶんと首を横に振った。

 ピクリとエリスの眉が不快気に跳ね上がる。エリスがシックらを睨む頃には全員ルーダから視線を外していた。


 深くエリスが息を吐き出す。

「シック」

「なんだ?」

「私がいなかった間の話をして」

「正座を崩してもいいか?」

「ダメ」

 にべもなく要求は却下される。思った以上にお冠らしい。

 仕方なく正座のまま、シックは彼女がバーリハーに連れ去られた後の話をかいつまんで話した。もちろん自分が不甲斐なかったところは脚色して。たまに横から物言いが出たが――主に空気なところとか――すべて無視した。

 概ね冷静に聞いていたエリスだったが、帝都崩壊のくだりのところで顔色を変えた。

「ヨーヒ兄様は? 無事?」

 内心ムッとした。

 彼女の中ではまだ彼の比重が大きいのだと思うと、嫉妬心が湧く。積み重ねた年数が違うとは言え、面白くないのは確かだった。

 同時に思う。カッコ悪いと。

 こっそりと嘆息して、湧いた感情を吐き捨てる。

「問題ない。傷が治ると同時に戻っていったよ。今頃は帝国領内のどこかでいろんなことへの対処をしているだろう」

 上がっていた肩が下がり、ホッとしたようにエリスが深く玉座に座り直した。

 文字通り、胸を撫で下ろしている状態だ。

「良かった」

 小さく笑みをこぼすエリスの様子に、ちりりとまた胸の奥が疼く。

 ああ、自分は随分と小さな男になったものだ。

 自嘲的に嘆く。それもこれもすべてエリスのせいだ。

 そう思ったら妙に頭が冴えた。


「エリス」

「なに?」

 許可は得ていないが勝手に立ち上がる。幸いにして足は痺れていなかった。

 正座を勝手に解いたことを咎めるでもなくきょとんとするエリスに近づいていく。見上げてくるエリスの顔を無言で見下ろすと、不思議そうに首を傾げられた。

 にやりと口角を上げる。後ろで不穏な気配を察した誰かが立ち上がったような気がしたが無視だ。

「俺は君が好きだ」

 椅子の背に手を突いて不意打ちに唇を奪う。

「ひとりの男として」

 触れるだけの短い口付け。

 互いの吐息を唇で感じられる距離で囁けば、突然のことに固まっていたエリスの頬にカッと熱が昇った。まるで初心な生娘のような反応に笑みがこぼれる。

 淡く色づく頬に手を伸ばし、背後から側頭部を蹴られて吹き飛ばされた。

「エリシアナ!」

 主犯の声が聞こえてくる。ひどく余裕のない声だった。


 手加減のなかった一撃に飛びかけた意識をなんとか繋ぎ止めて、蹴られた側頭部を擦りながら体を起こす。エリスに駆け寄っていたバーリハーにべっと舌を出し、顔を両手で覆っているエリスを見て満足げに笑う。

 これで少しくらいはシックのことを意識するようになるだろう。ざまあみろだ。

「悪趣味」

 頭を後ろに倒せばルーダがいた。なんとも言えない微妙な顔をして。顔が赤いのは彼がまだ子どもだからだろう。

「抑えきれなくなったんだ」

「また嫌われるよ?」

「少しも意識していない男に対してああいう反応はしないよ、女は」

 ルーダの目は半眼になっていた。

 肩をすくめる。

 経験のない生娘には刺激が強すぎたのか、シュキハは白目を剥いていた。

 立ち上がってエリスに再度近づく。バーリハーに思いっきり睨まれた。

「エリス」

 立ち塞がるバーリハー越しに話しかける。両手で隠されたエリスの顔は見えないが、耳はもう赤くなっていなかった。

 パッとエリスが立ち上がる。外された両手の下、赤みが消えていたことは少し残念だったが仕方がない。シックほどの経験は重ねていないだろうが、それなりに恋の駆け引きを楽しんできた女であることは疑いようもなかった。


 口を開こうとしたシックをエリスが手で制する。

「個人的な話は後にして」

「後回しにしたらはぐらかすだろう? 君は」

「シック」

 息を吐く。

 彼女は逃げない。真剣に取り合ってもくれる。だけど。

 確信がある。

 彼女は受け入れない。

「バーリハー、あんたは今すぐ他の魔を止めてきなさい」

「無理だ。我の命令よりも黄昏の命令に従う。魔はそのようにできている」

「あんたは逆らえたじゃない。あんたにできることが他の子にはできないはずがないでしょ」

 あくまで冷静に紡がれるエリスの声を聴きながら空を見上げる。

 決して沈むことのない満ちた月が、冴え冴えとした光を注いでいた。

「バーリハー、あんたは私のために王であることを捨てようとしたわよね? でもね、あんたの同胞たちにとってはあんたは一生王なの。だってあんたは彼らのためにずっと、気が遠くなるほど長い時間を玉座に縛られてきたんでしょ?」

 優しい顔をしてエリスがバーリハーの頭を撫でる。

「止めてきなさい。あんたの大切な同胞を、黄昏の戯れで散らさせてはダメ」

 本当に彼女は卑怯な女だと思う。つくづく、思う。

 ようやくうなずいたバーリハーにエリスが顔を綻ばせる。どこからともなく現れたいつか見た雑魚魔キューブも軽く撫でて、

「バーリハーのことお願いね」

「クルルルル……王、守る……」

 拙い言葉で言うキューブと共に、バーリハーは笑顔のエリスに見送られて裂けた空間に吸い込まれていった。


 静けさが場の支配権を握る。

 誰かが、恐らくはエリスが大きく息を吐き出したのが聞こえた。

「シック」

 返事はしない。

「シック」

 少しだけ語気を強めてエリスが再度呼んでくる。

「……全部が、……全部にちゃんと決着がついたら、そのときに答えを出させて」

 顔を上げると真剣なエリスの眼差しとぶつかった。

 軽く目を瞠る。

「本気、なんでしょ?」

「冗談だと思われていたとしたらショックで寝込むね」

「すぐそういうこと言うんだから」

 顔をしかめて、エリス。

 自然にシックの顔にも笑みが戻っていた。

「今の状態では決めたくないの。理由は……言わなくてもあんたならわかるわよね?」

「それでも口にしてほしいと思う俺はわがままか?」

「バカ」

 じわじわと込み上げる感情に堪えきれなくなって喉の奥で笑い声がつぶれた。


「だから嫌いなのよあんたは」

「嬉しいくせに」

「殴るわよ?」

「気が済むまで」

 ため息を吐かれた。

 一歩、エリスが近づいてくる。意外な行動だった。

 にこりとエリスが笑う。

「勝手にキスしてくれたお礼」

 飛んできた平手が乾いた音を空間に広げた。


ある意味で一番成長したのはシック。

今まで適当に付き合ってきた男が、初めて抱く執着と嫉妬心。

はてさて果たしてそれはかっこ悪いものか否か。

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