6 - 其れは英雄の言葉か否か
ジスターデという国がなぜ世界で一番平和な国と呼ばれているのか。諸説あるが、最も有力な説が英雄アスフィートの活躍のおかげと言われている。
今から1000年ほど昔、暗黒時代と呼ばれる時代。領域を巡って人と魔が苛烈な争いを続けていた時代に、ジスターデ国の騎士団団長を務めていたアスフィートは当時最強と謳われていた絶魔ルインを打ち倒した。
「結局相討ちになったみたいだけど、ヤマトの英雄と並び称されるほどにすごい人だったって話よ」
「その人のおかげでジスターデ国内の魔の領域に凶悪な魔がいないってこと?」
「そう。なんだったかしら……なんかすごい槍ですごいことしたみたい」
ジスターデの騎士として知っていて当然の情報をかなりあいまいに伝えているエリスの言葉を聞きつつ、シックは樹林でもそうであったように油断なく周囲に意識を巡らせた。今度は正真正銘魔を警戒するためにだ。
普通に街道を行くような気楽さで行軍はしているが、ここは未だに魔の領域なのだ。たいした強さの魔がいないとわかっていても警戒を怠るわけにはいかなかった。
「そうそう、この湿地帯なのよ。英雄と魔が三日三晩の死闘を繰り広げた場所」
「でも魔の領域なんだよね」
「まぁ、そうね。実は私が最初にここに来たのもそれが理由。この湿地帯のどこかに英雄の墓があるの。この辺りだったと思うけど……」
思い出したようにまばらに屹立する木の他に何もない周囲をエリスが見渡す。つられたようにルーダも周囲を見渡した。
シックの記憶が確かならアスフィートの墓はもうすぐだ。騎士になったからには一度は参拝しておかなければ、というよくわからない理由で兄と共に英雄の墓を訪れたのはずいぶんと昔の話。
小さく嘆息して腰に吊った剣の柄に右手を添える。
ふっと漂い香ってきたような気配の変化にシックは足を止めた。
「わっ!」
遅れてシックと同じものに気づいたルーダが短い悲鳴を上げた。
裏に回れば隠れられるほどの大きさの墓碑――ジスターデ国の英雄アスフィートの墓だ。記憶の中にある墓と寸分変わらない。その墓に巻きついているツタのような植物を除けば、だが。
きつく巻きついた植物は、彼らの接近に気付いたようにうねうねと蠢いた。
「シシダか?」
「あら、よくわかったわね」
威嚇するように鋸歯の葉を広げ、不気味にうねる植物から視線を外してエリスが意外そうな顔をする。魔のことを知っているのはトレジャーハンターだけだと勘違いでもしているのか、それともシックが騎士であることを忘れているのか。
どの道シックはおどけるように軽く肩をすくめただけだった。
柄に添えていた手を離す。それを見てエリスも顔をしかめた。
「しまった。シシダって確か幾ら地上に出てるの斬っても無駄だったんだ」
「炎系の魔導で焼き払うのが手っ取り早かったはずだが、それは君にはできないのか? 炎の使い手だと言っていただろ?」
腕を組んで考え込んでいたエリスがちらりと視線を寄こす。
「無理よ」
「なぜ? 試す前から無理だと決めつけるのは早計だと思うが」
「前に一度試してダメだったのよ。だからあんたらを雇ったの。私じゃどうにもできないからどうにかしてもらおうと思ってさ」
「なるほど」
これには素直に納得した。
しかし、と思いながら口元を妖しく緩める。
「ルーダ」
「え、な、なに?」
「あの魔の相手は任せた」
「え? ……えぇ!?」
予想はしていたが、前振りもなくいきなりルーダに振ったら悲鳴に近い声を上げられた。その声に反応したようにシシダのうねうねが乱れたので、もしかしたらルーダの声に驚いたのかもしれない。
特に口を挟むでもなく2人の話し合いが終わるのを見守っているエリスにいちべつを向け、シックはルーダの肩に腕を回した。
「聞いた通り、あの魔は地上に出ている部分を幾ら斬っても意味がない。根を絶たなければ再生を続ける」
「う、うん」
「俺の剣だけでどうにかできないことはわかるな? エリスの魔導は役に立たない。となれば残るのは君の魔導だけだ」
「でででも!」
顔面から血の気を失わせて訴えてくるルーダの口元に人差し指を近づける。うっと呻くように口上を止めたルーダに顔を近づけ、諭すようにシックは続けた。
「ルーダ。今後もこの旅に同行したいのなら、シシダ程度で尻ごみをするな。この旅には昨日会った月種が立ちふさがっているんだ」
そこで黙り込むということはルーダ本人もその事実を理解していたのだろう。それでも性格からなのか、逡巡するようにうつむいてしまった。
ルーダの肩に回していた腕を離す。スッとルーダが顔を上げた。
「やってみる」
握り込んだ拳は震えていたが、眼差しはまっすぐだった。
「シシダにはあまり近づきすぎるな。胞子をまいてきたら大きく離れるんだ」
「墓を壊さないようにね」
2人からのアドバイス――エリスのは注意か――を受けてこくりと大きくうなずく。ぎこちなくではあるが2人の前へと出たルーダが、気持ちを落ち着かせるように何度か深呼吸した。
歳もそれほど離れていないだろうに、シックは思った。
子供を見守る親というのはこんな気持ちなのだろう。
いつでも助けに入れるように剣帯の位置を直す。ふと横からの視線を感じてそちらに顔を向けると、ジッとシックを見つめるエリスの視線とぶつかった。
「どうした? ようやく俺に気が向いてきたか?」
「全然」
あいさつのように軽口を叩く。全力で朗らかな笑みを浮かべて即答された。
眉を下げて肩をすくめる。
「優しいとこもあるのねって思っただけ」
前方から聞こえてきたバチッと雷が弾ける音で聞き取りにくかったが、それは紛れもなくシックを褒める内容のものだった。思わず頬が緩む。
「俺の優しさをもっと知りたければたっぷりと教えるが? 女性を喜ばせるのは得意なんだ。特にベッドの上では」
満面だった笑みが一気に温度0になるのをシックは見た。
普段付き合っているような女性たちならば、なんやかんや言いつつも喜ぶというのに。恥ずかしがらないところを見ると経験がないわけではないのだろうが、その手のネタはあまり好きではないのだろうと推測できる。
「君を喜ばせるには何をしたらいい? 君は何が欲しい?」
「はぁ? 何よいきなり」
「いいからいいから。欲しいものを思い浮かべてみて」
「――私が、欲しいのは……」
世間話のような軽さで尋ねた問いに、エリスの目が泳いだ。あからさまに見る動揺の姿だった。
「あんたには絶対手に入れられないものよ」
顔を逸らして言うエリスの顔を覗き込む。
驚いたように身を引くエリスを逃がすまいと右手首をつかむと、一瞬怯えにも似た表情をのぞかせた。
「絶対はないと言っただろ?」
女の力では振りほどけないことを悟ったのか、つかまれていない左手が胸の上に移動する。それは本能的な防衛反応だ。
「……無理よ。黄昏に辿りついても――」
「無理だと決めつけている間はいつまで経っても無理だ。トレジャーハンターなら挑戦するべきじゃないのか?」
右手に力がこもったのが筋肉の収縮からわかった。
勢いよく腕を振られてつかんだ手を振り払われる。
「じゃああんたに手に入れられる? …………私の心臓」
胸に添えた左手がギュッと握り込まれる。何をつかもうとしているのかはシックにわからない。
「俺に君を殺せるかどうかを聞いているのか?」
まじめに受け取らずに笑って受け流す。ふふっとエリスも笑った。
「そういう意味じゃないわよ。でも――」
つかまれていた右手をぷらぷらと揺らしていたエリスが一歩近づいてくる。その顔にもう笑みはなかった。
一発ぐらい殴られるかと覚悟して身構える。パーで頬を張り飛ばされるか、グーで殴り飛ばされるか、エリスはどちらのタイプだろうなどとのん気に考えるほどシックは冷静だった。
「今度勝手に触れたら許さない」
低い声でそれだけ告げてエリスはすぐに離れて行った。
身構えていただけに、かえって忠告だけに済まされて拍子抜けした。
――いや、本当に腹を立てたときはああして表面的には冷静を保ったまま怒気をぶつけるのかもしれない。
「お疲れルーダ。よくがんばったわね」
シックから離れたエリスが、いつの間にか戦闘を終えていたルーダの労をねぎらう。意識が完全にエリスに向いていたので見ていなかったが、どうやら無事にシシダの駆除に成功したらしい。
どんな戦闘を行ったのかはわからないが、膝に手を置いてぐったりとしているルーダにシックも近づいていった。
「ご苦労さま。おかげでゆっくりとできたよ」
「見てなかったよね? エリスの機嫌また悪くなってたよ」
シシダのいなくなったアスフィートの墓を調べ始めたエリスを差して、ルーダの眉が困ったようにハの字を描く。一応エリスに聞こえないように小声にしてくれる配慮はあるが、声音にはたっぷりと非難の色が表れていた。
空とぼけるようにポンポンとルーダの頭を叩く。じと目で見上げてくるルーダの視線は当然ながら無視した。
舐めまわすように念入りに墓碑を調べるエリスの姿を見ていると、本当にトレジャーハンターなのだという実感が湧いてくる。同時に未だに半信半疑だった自分に少し驚いた。
墓の裏手に回ったエリスが汚れるのも厭わず腹這いになっている様を横目に、シックも英雄アスフィートが眠っている墓へと近づいていく。
かつて兄と共に訪れた英雄の墓は、あの頃と変わらずそこにあった。
戦争で亡くなった兄は合同慰霊碑の中に他の戦死者と共に埋められるのだろうか。たくさんの戦死者の中のひとりとして。
「―――…あった」
墓の裏からエリスの声が聞こえてくる。
危うく思考の中に沈みそうになっていた意識を引き上げて、シックは墓の裏へと回った。
ポーチから取り出したと思われる手帳に、見つけたなにかを書き込んでいるエリスの手元を覗き込む。
悪く言えば子どもの落書き、良く言えば幾何学模様。理解はできなかった。
書き込まれている元へと視線を転じる。地面すれすれの位置の墓石に刻みこまれている紋様は、エリスが真剣に書き込んでいる内容と酷似していた。エリスの絵心がなかったわけではないらしい。
ルーダも興味を持ったのか、近くに来てしゃがみこむ。ひとり興味を持てなかったシックは一歩下がって結果が出るのを待った。
「なんて書いてあるのかわかるの?」
好奇心に勝てずに尋ねるルーダにエリスが軽く小首を傾げるだけで応える。目は墓に刻まれた紋様と手帳を交互に行き来しているので、恐らくは半分以上聞いていないのだろうことは明らかだった。質問したくせにルーダも返答は期待していなかったのか、特に気にした様子は見せなかった。
「よし、完璧」
何度か交互に見比べて間違いがないことを確認したエリスが満足そうに声を上げる。手帳をポーチにしまいながら立ち上がると、汚れた服を軽く払うだけで済ました。トレジャーハンターなのだからあまりそういったことには意識を配らないのかもしれない。
「それは黄昏に関連するものなのか?」
話しかけても良いだろうタイミングを見計らって問いを乗せる。
顔を上げたエリスには既に先ほどまでの怒りの様子は見えなかった。女性にありがちないつまでも感情を引きずるタイプではないらしい。ある意味でかわいげはないが、共にいて気疲れしない相手でもある。
「黄昏の記述の続きよ。残念ながら解読はできないけど」
「解読できないものを調べる必要あるの?」
しゃがみこんだままルーダが不思議そうにエリスを見上げる。そのルーダを見下ろして、なんでもないとばかりにエリスはひょいと肩をすくめてみせた。
「それは大丈夫。解読できる知り合いいるから。内容は教えてあげないけど」
エリスの説明に納得したように生返事を送るルーダとは違い、シックはそこで引き下がることはしなかった。
「情報のひとり占めか? 君ひとりではどうにもできない魔を始末したのは俺たちだ。世の中ギブアンドテイクであるべきだろ」
「たちじゃなくておれね。おれひとりでやったから」
話の腰を折るようなルーダの訂正はシックもエリスも無視した。
「別にあんたらが知る必要ないの。私が……黄昏に関するアイテムの所持者がそれを知ればいい。それにね、黄昏の記述は全文を知ると本当に不幸になるわよ?」
「根拠のない脅しには耳を貸さない主義でね。それに不幸になるかどうかは俺の勝手だ」
またやってるよ、と声が聞こえてきそうなルーダの視線を感じながらエリスに微笑みかける。
「それとも自分だけが不幸を背負い込めばいいとでも考えているのか?」
「あら、私がそんなできた人間に見える? 私はただ案内人としての役目を果たしてるだけ」
「不幸になるとわかっている案内人をなぜ引き受けた? 代わりなんて幾らでもいただろ」
視界の端で注目されていないことをいいことに大口を開けてあくびをしているルーダのせいでいまいち緊張感はなかったが、エリスとの間にはピリピリとした緊迫感があった。問いを投げられるたびにエリスの機嫌が悪くなっていることは誰の目から見ても明らかだった。
何を言われたとしても軽口を返す自信はある。エリスがシックの予想の遥か上を行く発言をしない限りは。
ふいっとエリスの視線が外れた。
睨み合いはもっと長く続くものだとばかり思っていたので、意表を突かれたようにシックは目を瞬かせた。
やけに呆気ない。今までの態度からすると不自然なほどだ。
「…………代われないの」
それはもしかしたら風の通り過ぎた音と聞き間違えたのかもしれない。
何も宣言せずにエリスがアスフィートの墓から遠ざかる方向に歩きだす。軽い掛け声とともに立ち上がったルーダがエリスを追いかけて行く。
なぜかすぐに追いかける気にはなれなかった。
アスフィートの墓を振り返る。
物言わぬ石碑の根元辺り、ひと目に触れるのを避けるように刻まれた紋様――黄昏の記述。
正直どうでもいいと思っていたその記述がやけに気になった。
「先行くよー?」
先を進んでいたルーダの呼び声でやっと足が動き始めてくれた。
ついてこないシックを律儀に待っているルーダとエリスを追いかける。
「次はどこに行くんだ?」
シックが追い付いたことを確認するなり歩きだしたエリスに問いかける。
いつの間にかシックがエリスと並んで歩き、ルーダがその2人の後ろを歩くのが3人の基本体勢になりつつあった。近づくなと言う割にエリスはそのあたりが無頓着だ。
「気は乗らないけど帝国との国境。そこで準備を整えてからホロ――…ホロワ山脈を越える」
説明の途中でエリスの言葉が震えた。単に地名をど忘れしていたのをごまかすため、というようなニュアンスではない。
横顔を見ると、その顔が心持ち青褪めているように見えた。
早足になったエリスに置いていかれまいと――元々エリスの歩幅に合わせて歩いていたので苦にはならなかったが――シックも足を早める。
「どうした? そのホロワ山脈になにか嫌な思い出でも?」
「は? なんで?」
返すエリスの口調に不審な点はなかった。表情は完全に取り繕われていなかったが。
伸ばしかけた手を引いてエリスの前に回り込む。触れるなと言われたことを守っているわけではないが、今は直接触れるよりもこうして無理やりにでも目を合わせたほうが効果的なような気がした。
進行先を塞がれてエリスが足を止める。
「何か恐れるものでもあるのか?」
エリスの目が泳ぐ。ここまで狼狽を露わにする姿を見るのは初めてだった。
「君はひとりじゃない。俺たちがいる。……俺たちが君を守ることができる」
できるだけ優しく聞こえるように話しかける。
今さらながら当たり前のことに気が付いた。
シックが兄のことでいろいろ複雑な感情を抱えているように、エリスもシックには知りえないなにかを抱えているのだ。そしてそれは、シックが想像するものよりもずっと深く大きい。
ルーダに目配せすると、心得ていると返すように無言でうなずかれた。
「――――……魔は私を傷つけないけど人は私を傷つける」
消え入りそうな声だった。
反射的に本能に従いそうになったシックを遮るようにエリスが顔を上げる。
「なんて、私の演技うまかった?」
そこに浮かんでいたのはにっこりとした満面の笑顔だった。
エリスの体を抱きしめようとしていた腕が宙をかく。華麗に避けられたエリスの後ろにいたルーダを勢いで抱きしめそうになったが、それだけは意地で制した。男と抱き合うなど冗談ではない。
「ただの冗談よ、真に受けないで」
冷めた声音のエリスが背後で再び歩き出したのを気配で悟る。
ポン、とルーダが肩を叩いた。
適量な長さってどんなもんやろか