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閑話2

 泣き出した空から降りだした雨は地面を濡らし、舗装された道を傘もなしに駆ける者の足を確実に緩める。

 何度も何度も転びかけては、そのうちの何度かを実際に転びながら、それでも足を止めることのないラドにとっては忌々しい雨であることは間違いなかった。普段から悪態をつく習慣があったら、ラドはもう数えきれないほどに悪態をついていたはずだ。

 もっとも、そんな暇があればの話だ。


「もういいかーい?」


 足がもつれた。

 とっさに前に突き出した手ごと水たまりに突っ込む。受け身の取り方が悪かったのか、右のひじがひどく傷んだ。

 上がった息がこれ以上走りたくないという体からの抗議の声。だけど聞くわけにはいかない。

「あは、派手にこけちゃってお・ま・ぬ・け・さん」

 ハートが乱舞しそうな甘ったるい声が、辛うじて保っていたラドの冷静さを崩壊させた。

 街中であることも忘れて絶叫する。疲れ切った肺にさらに負荷をかける行為だとしても、そうしなければ精神的におかしくなりそうだった。

 だけど実際に出ていた声はそれほど大きくはなかった。当然と言えば当然かもしれない。

 つぶされたヒキガエルのように無様な鳴き声でしかなかっただろう。

「あれあれぇ~? 鬼ごっこはもう終わりぃ~?」

 堪えることをやめたら涙腺から次々と涙があふれ出した。

 立ち上がることも考えられずに濡れた地面を這って逃げる。濡れ鼠と化していた全身が、地面の汚れを吸収してみすぼらしさに拍車をかけた。


「おっにさんこちら♪ てっのなっるほうへ♪」

 手を鳴らす乾いた音が響く。きゃらきゃらと楽しそうに笑う声はただラドの中の恐怖心を煽るだけの役にしか立たなかった。

「やぁん、鬼はオルフェだったぁ。あは、オルフェ失敗」

 地面から引き離した体をようやく立ち上がらせる。

 後ろは振り向かなかった。

 降りしきる雨にけぶる街を駆ける。

 どこへ逃げたらいいのかもわからない終わりの見えない逃走劇、それを強制的に始められてからいったいどれだけの時間が経っただろう。体内時計はとうに機能することをやめ、雨を運ぶ黒雲は時を計る太陽を完全に覆い隠していた。

 泣いても叫んでも助けは来ない。駆けても駆けても出口には辿り着けない。

 ラドは無人の街を逃げ続けた。捕まったら終わりのデスゲームに放り込まれて。

「まだ動けるんだぁ。すごいすごぉい」

 鬼は可憐とも言える女性がひとり。舌足らずな甘い口調で男性を誘う小悪魔的な女性であるにも関わらず、一目見たときからラドには恐怖心しか浮かばなかった。

 本能が告げたのだ、この女性は危険な人物だと。往々にしてラドのそういった勘は驚くほどよく当たる。実際それは当たっていた。


 角を曲がる。この先は街の外につながっているはずだった。

「はい、おつかれさまぁ~」

 膝から崩れ落ちる。

 曲がった角の先には、先ほど派手に転倒した場所が待っていた。何度も何度も通ったそこにまた。

「オルフェの空間からは逃げられないって教えてあげたでしょ? ね?」

 地面に手をつき荒い呼吸を繰り返す。じわじわと這い上ってくる絶望感に体が震えた。

「だからぁ、そろそろ素直になって? 正直に話してくれたらすぐに帰してあげるから」

「ぃ…………ひっ、ぁ……――」

 うまく言葉が紡げない。引きつった単音だけが喉を震わせた。

「シアちゃんはどこにいるのぉ? 知らないってのはもうなしだよ? あなたからとぉってもシアちゃんの魔力を感じるの。知らないはずないんだから」

 肩を強く引かれてそのまま引きずり倒された。

 馬乗りになった女性がニコッと笑う。全身を濡らすはずの雨に一切濡らされないまま。

 本来ならば見惚れても良いはずのその笑顔に、ラドはがたがたと震えた。


「意地悪しないでシアちゃんの居場所を教えて? 知ってるでしょう? シンシアーナ・ノエキスト」

 根の合わない歯を噛み締めて頭を振る。

 親愛なるシンシアーナ様のことを、たとえ既に亡くなっているのだとしても、こんな得体のしれない輩に話すわけにはいかなかった。亡くなっているという事実すらも固く口を閉ざして教える気はない。巡り巡ってその情報からお嬢様が危険な目に遭わないとも限らないのだから。

 女性が小首を傾げる。

 願わくはこのまま諦めて解放してくれれば――争い事を厭う性格ゆえか、ラドの胸中にそんな無謀とも言える願望が浮かんだ。

 胸に手を乗せた女性がラドの顔を覗き込んでくる。悪意も邪悪さもない顔で女性は笑った。

「ひっ!」

 意図せずして喉の奥から悲鳴が漏れた。

 それを形容するのは難しい。

「今オルフェが何を触ってるかわかる?」

 無邪気に尋ねてくる女性に応える余裕などあるはずもなかった。

 堪らない不快感と圧迫感、冷たさ。それらが融合した感覚だった。

「あんまり震えないで? オルフェうっかりあなたの心臓握りつぶしちゃうかもしれないから」

 ね、と可愛らしく小首を傾げながら言われても、体の震えを抑えることなどもはや不可能だった。まだ発狂していないことのほうがよっぽど不思議だった。


 女性の手が伸びてきて頬を撫でる。歯の根も合わずにカタカタと鳴るのを楽しんでいるかのようでもあった。

 慈しむように何度も何度も優しく頬を撫でられる。同時に握られている(らしい)心臓に対する圧迫が強くなっているように感じた。

「あなたが喜んでいろいろしゃべってくれるようになるまで、オルフェが遊んであ・げ・る」

 頬を撫でていた手が目元に移動した。

 雨と涙が混じった目元を親指でなぞられる。

「今日という日は始まったばっかだもんね。たぁっぷり遊ぼう? ……ね?」

 囁き声はラドに絶望の時間の始まりを告げた。


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