35_2 - 世界の雲上から
「どこへ向かってるんだ?」
「凌雲山。ハスノミヤ様の御所だ」
返事を期待していない問いには、意外なことに返事があった。だからと言ってそれが嬉しいわけではなかったが。
隣に目を向ける。ピンと背筋を伸ばして行儀よく座っている姿は、なるほど良家の子女なのだと感心する。行動の自由を奪われている状況に甘んじながらも無様は晒さない。翼をもがれない限り――いや、翼をもがれてもこの美しい鳥は籠の中で大人しくはしないのだろうと思えた。
気高いこの鳥の隣に立つに相応しい言動の選択をしなければ、容赦なくこの鳥はシックを置いて飛んでいくのではないか。そんな不安も感じた。
息を吐いて両の手に力を込めてみる。左右の親指を拘束する細い糸はその程度で千切れるほど脆くはなかった。後ろ手に縛られているのでどんな縛られ方をしているのか確認することはできないが、簡単に解けるような甘い縛りをされていると期待しないほうがいいだろう。
もっとも、その拘束をうまいこと外すことができたとしてもどうすることもできないことはわかっていた。
目玉だけを動かして視線を移動させる。エリスがいるのとは逆のほうに。
雲が見えた。見下ろせる雲が。
「暴れてくれるでないぞ。落ちればわしらに拾い上げる手段はない」
振り向きもせずに前方に座すアザトが言ってくる。その後頭部を――笠に隠されているが――睨むような目でいちべつして、聞こえるようにわざとらしくため息を吐く。
「逃げ場のない場所で暴れるほど浅慮だと思われていたとは心外だな」
「ならばその殺気を抑えよ」
「敵の前で気を抜くほど間抜けでもない」
ちらりとアザトが振り向いてくる。相変わらず口元しか見ることはできないが。
意識は逸らさずに視線だけ逸らす。見下ろす雲の切れ目から遠くに大地が見えた。人の姿はおろか、集落の姿すら小さすぎてよくわからない。それだけ今いる場所が高高度と言うことなのだろう。
足元を見る。見えたのは鱗だった。
「ヤマトは古代守護竜をこうも惜しげもなく使えるの?」
それまで口を閉ざしていたエリスが不意に口を開く。顔を向けるも、エリスの顔は正面しか向いていなかった。
「トウナなれば容易く操れる。この雲竜もわしではなくトウナが操っておる」
言いながらアザトが足元の鱗に触れる。
皆が腰を下ろしている場所は大地でもなければ建物の中でも乗り物の上でもなく、蛇のように長い胴体にワニのような顔を持つ巨大な生き物の背だった。以前洞窟でけしかけられた竜と同じ系統の生き物なのだろう。アザトが言うには雲竜らしい。硬い鱗と雲が頭の中でいまいちイコールで繋がらなかったが、伝説の竜という生き物にシックの常識が通じるとは思えない。
リドルとの決着後、いとも簡単に拘束された後にこの雲竜とやらに無理やり乗せられ今に至っている。心躍らない旅だ。
「そのトウナはどこに? 俺以外の男の姿はないが」
「おんしらへの襲撃に失敗した後、兄者と共にヤマトへ帰還しておる」
「遠隔から操っているのか?」
「トウナなればこそ可能だ」
思わず漏れそうになった舌打ちはギリギリのところで耐えることに成功した。
隣のエリスが漏らしたので意味はなかったのかもしれないが。
「あんたたちヤマトはどうして私を狙うの?」
「おんしが災いの元凶であるからだ」
「災い?」
不機嫌さを隠しもせずに問いを重ねるエリス。そんなエリスをアザトは振り返りもしないまま片手を上げることで制止した。
「おんしらの疑問にはハスノミヤ様が答えてくだされる。ヤマトへ着くまでに疑問をまとめておくといい」
面倒くさくなったのか、と思わず疑った。
その視線に気付いたのか、どこか心外そうにアザトが振り向いてきた。目は見えないながらも口元だけでもその感情は伝わってくる。初めて見るかもしれない人間らしい動きだった。
「……そのハスノミヤって誰?」
「ハスノミヤ様はヤマトの至宝。古の知識と先見の目を持つ仙女様だ」
「仙女、ね」
脳裏に思い浮かんだのはあの洞窟で現れた幻影だった。
アザトと同じ黒髪に民族的な装束――絶魔ルインの墓守などとうそぶいていたが、纏う空気は仙女と呼ぶにふさわしい厳かを備えていた。幻影なのでそう見せていた可能性は無きにしも非ず。彼女がハスノミヤだと決まったわけではないが、彼女がアザトらヤマトの親玉なのだとしたらやりにくそうではある。
「そんな人が私になんの用なのよ」
「知らぬ」
「しら――って、はあ!?」
「ハスノミヤ様の御心をわしが知るはずもない」
呆気に取られたようにエリスがそこで押し黙った。己の生死が絡んだ重大な部分の答えがそれだ、ムリもない。
「もしエリスに手を上げるようなら勝ち目があろうがなかろうが首だけになっても暴れるぞ?」
「それはない。ハスノミヤ殿に限って――」
「黙れ。君と口をきくつもりはない」
我ながら底冷えするほど冷たい声だった。それでもまだ我慢したほうだ。本当ならば今すぐその喉元を食いちぎりたい衝動を抱えているのだから。
背後から聞こえてきた声はそれだけで黙らせることができた。身じろいだ気配が伝わってくる。
横目でエリスを見る。少し前ならば冷たくするシックを諌める言葉なり、言われた相手を慰める言葉なりを口にしていたエリスも、今回ばかりは我関せずとばかりに身動きひとつしなかった。
「冷めた態度を取るものよな」
肩越しに振り向いてきたアザトがため息交じりに言ってくる。
「裏切り者に友好的な態度を取れるほど俺はできた人間じゃない」
あくまで冷たく告げるシックに、呆れたようにアザトが肩をすくめた。
そう、許せるはずがない。
何度も警告は入れた。執拗に。何度も何度も。
信用してもいいかと思いかけてきたときにこの仕打ちだ。エリスがリドルという障害を乗り越えようと前に踏み出したときにこの仕打ちだ。
どうしたら許せる。どうやって許す。
「それより、ヤマトまでどれくらいかかるんだ?」
沸き立ちそうな感情を宥めつつ、後ろにいる人物の話題からいち早く脱するべく話題を変える。アザトの口元に僅かに憐憫の情が見えたような気がしたが、前方に向き直ったせいでそれを確認することはできなかった。
「夜明け過ぎ頃には着く」
「半日か。結構かかるんだな」
「トウナがこの場で操っておれば1時間後には着いたのだがな」
「へぇ」
遠隔操作はできても、距離が開けばその精度は下がるらしい。とは言え、操作の精度が下がっても人の力で竜を凌駕することはできないのは試すまでもない。むしろ戦うとなれば人の意思が介入するより、竜の闘争本能のみで行われたほうが勝ち目は低くなるのではないだろうか。
なんにしろ今は気にするべきはそんなことではない。
「エリス、休みたくなったら遠慮なく休め。俺の肩だろうと膝だろうといつでも貸す」
後ろ手に縛られているシックと違い、隣で姿勢正しく座っているエリスにはなんの拘束もされていない。広い竜の背から転げ落ちることは――竜が突然乱暴な飛び方をしない限りは――ないが、エリスの今の心境的にはただ横になるよりも人肌を感じながらのほうが落ち着くだろう。下心含む。
竜の背に乗せられてからずっと前だけを向いていたエリスと、ようやく目が合った。
碧の双眸。出会ったころと変わらない、強い意志を宿している。
「……あんたはどこまで私と行くの?」
「世界の果てまで」
答えに迷いはない。
探るように細められていた目を見開いて――それからエリスは仕方がなさそうに苦笑した。




