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32 - 残された逃げ道

「却下」


 その単語は元より張りつめていた空気をさらに悪化させる可燃材として実に優秀な働きを見せた。許されるならば全力で逃げ出したいほど最悪な空気は、吸い込むだけで肺が得体の知れない病原体に感染しそうだった。


 ガラス製のテーブルの上に広げられた地図に目線を落とす。

 帝国領内を示した地図には地形のみならず、細かく地域名も記載されていて非常に見やすい。というか軍事拠点まで明瞭に記載されているのはなぜだろう。一般に出回っている正規の地図でないことはルーダでもわかる。

 入手経路はともかくとして、軍事拠点まで明瞭に記載されているおかげで進路は選びやすかった。

 地図の上には物が2つ置いてある。現在地を示す鳥の置物と、目的地を示す橙色の石。

 鳥を模した駒はホロワ山脈の西側に、微妙な橙色をした平たい石は地図の端に。地図の端は帝国領の外、大陸の中央部に位置していた。

 大陸の中央部には広大な森が広がっている。原初の森とも呼ばれるそのシェイフ大森林は、強欲な帝国ですら手を出さない未開発地区だ。生息する魔が強大なことに加え、古くから棲みついている少数民族との条約とかなんとかで手を出せないらしい。


「現状を理解して言っているのか?」

 半ば以上現実逃避気味に思考していた意識が、その硬質な声によって引き戻せられる。自分に向かって言われたわけでもないのに、常にない硬さを持つ声に自然と鼓動が早まった。

 地図から顔を上げないまま目だけを動かす。

「理解した上で言ってるわ。当然でしょ」

 テーブルを挟んで睨み合う男と女。いや、睨んでいるのは女のほうだけか。

「帝国のみならずヤマトにまで狙われている病み上がりの君を、シェイフ大森林に住むルムヌ族の集落まで護衛しろと?」

「ええ」

「わざわざ軍事施設である封鎖地区を通って?」

「そこが一番の近道だもの」

「正気か?」

「ええ」

 頑として引かない姿勢を見せるエリスを前に、呆れたようにシックがかぶりを振りながら嘆息してみせる。それを妥協の合図と見たのか、睨んでいたエリスのまとう空気から少しだけ棘が消えた。

 逡巡しているのか、シックが目頭を押さえる。シックはその姿勢のまま言葉を続けた。

「俺たちは君の護衛だ。ルーダはともかくとして俺もシュキハもプロだ、必要と迫られれば我が身を惜しまず君を護る覚悟がある」

 身じろいだのはなぜかシュキハだった。気にはなったものの、シックの口はそこで止まらなかったのでそちらに集中することにした。


「護衛対象の無謀をいさめるのも俺たち護衛の仕事だ」

「そんなこと言ったらいつまで経っても目的地に着けないじゃない」

「目的地へ行かないとは言っていない。帝国領から向かうルートではなく、魔導国から向かうルートに変更すべきだと進言している」

「却下」

「反対するのなら納得できるだけの理由を言ってくれ。それでは俺たちも納得できない」

「ルムヌ族の集落の場所が帝国領からのルートじゃないとわからないのよ。それに魔導国ルートだとリブエンド荒野を突っ切らなきゃいけないじゃない。そっちのほうが危険でしょ? あそこ魔との戦争の激戦地じゃない」

「激戦地まで近づかなければ済む話だ。その少数民族の集落の場所も、帝国領からのルートから算出すればいい」

「それじゃあ時間がかかるじゃない。私は急いでるの。一刻も早く――」

「君は!」


 シックを除く全員がびくりと跳ねた。

 いつもにやにやと軽薄に笑っていたシックが、語気を荒げてテーブルを叩く姿は鬼気迫るものがある。

「ルーダとシュキハがいなければ君は死んでいた。帝国に次いでヤマトにも殺されるところだった。それを本当に理解しているのか?」

 声のトーンは戻っているものの、投げる言葉には多分に棘が含まれていた。

 それに対してムッとなるエリスではあるが、シックの言うことはもっともだ。憮然と黙り込むエリスにまた嘆息を漏らし、最後のごり押しのごとくシックは言葉を締めた。

「俺に君を護らせてくれ。二度と君に死の影を踏ませたりしないと誓う」

 まっすぐにエリスの目を見て告げられる真摯な言葉。

 軽薄でもない、甘くでもない、ただただまっすぐに。


「却下」


 一言の下に切り捨てる。

 そう繰り返すエリスの声にも譲れない芯があるように聞こえた。ただそれは一歩下がって客観視しているルーダだからこそ通じたもので、面と向かい合っているシックには怒りの引き金に手をかける役にしか立たなかったようだった。

「もういい」

 シックが立ち上がる。

 あ、と声を出すエリスにいちべつもくれないままシックは無言で小屋を出て行ってしまった。

 残されたのは重苦しい沈黙。言うまでもなく、居心地は悪い。

 エリスの顔を盗み見ると、ひどく複雑そうな顔をしていた。自分の言動を反省しているのか、シックの硬質な態度にショックでも受けているのか。その辺りは直接本人に尋ねなければわからないので想像の域を出ない。

 とは言え、ルーダが気にしたのはエリスのほうではなくシックのほうだった。


 目配せだけでシュキハにエリスのことを頼むと、シックが出て行った小屋の外へと足を運ぶ。

 シックの姿は滝の近くで見つけることができた。

「追いかけられるなら女のほうが良かったな」

 今日初めて聞くかもしれない軽口に、自然とルーダは苦笑していた。

「さっきのでたださえ低い好感度がさらに下がったよ?」

「それは由々しき事態だ」

 言葉とは裏腹に、たいして気にしている様子は見えなかった。

 らしいと言えばらしい反応ではある。


 背後から近づいていき、その隣に座りこむ。シックは立っていたけれど。

「エリスに惚れた?」

「直球だな」

「そうじゃなきゃはぐらかすでしょ」

 肩をすくめることで答えとされた。

 瀑布から散る飛沫を浴びながらシックの言葉を待つ。


 両手では足りないほどの時間をつぶしてから、ようやくシックは口を開いた。

「正直に言えばわからない」

「わからない?」

「ああ。めまぐるしい状況変化について行けない感情がそれと勘違いさせているのかもしれないし、少なからず同情もある。最初に宣言したことに対する意地もあるだろう」

 口がへの字に歪む。

 経験が豊富だとこんな風に難しく考えるものなのか。感情のままに走れないのは不憫だと思ってしまうのは、ルーダに経験が少ないからだろうか。

「それに俺は……――いや、これはただの逃げ口上だな」

「ん?」

 見上げる。苦笑気味に首を横に振られた。

 言いかけてやめた続きはどうやら口にしてくれないらしい。ニュアンス的に弱気発言だと思ったので聞いてみたかったのに。


「ルーダ、君は黄昏に何を願うつもりだ?」

「うぇ?」

 いきなりの話題変更に変な声が出た。

 見上げてもニヤニヤと笑っていないのでからかう意図で投げられた問いではないのだろうけれど、なんというかとても答えにくいものだ。

「俺は力が欲しかった。大切な人たちを守れるだけの力が」

 戸惑っている間にシックは話を続けた。

「もっとも、俺は当初疑っていたけどな、エリスの話を」

「え、そうなの?」

「普通は信じないさ。あんな胡散臭い話。君は信じたのか?」

「うっ……」

 言葉に詰まるルーダを見てシックが小さく笑った。


 やっぱり違う。いつもと違う。

 これまでならこれ幸いと、とことんまで弄ってきただろうにそれがない。滝つぼを見据える姿は、どこか憂いを帯びていた。無駄に着色されたいつもの色気もない。こんなに不躾に見上げ続けているのに、それに対する反応もない。

 重症だ。ルーダでもわかるくらいに。


「おれは人をひとり生き返らせるつもりだった」

「ほう? それは女か?」

 そういうところだけはシックはシックだった。

 苦笑が漏れる。

「幼馴染の女の人。ま、まぁ幼馴染って言ってもおれより10歳も上だったけど」

「それは単に近所のお姉さんだな」

「うぐっ……そう、とも言う、かなぁ」

 容赦なく断言されて肩を落とす。優しく肩を叩かれると余計に落ち込んでしまう。


「まぁでも、エリスを犠牲にしてまでそれを望む気はないよ」

「それは残念。望むと言ったら崖から突き落とすつもりだったのに」

「冗談に聞こえないんだけど」

 半眼で見上げてもシックは笑うだけだった。

 よいしょ、と掛け声とともに立ち上がる。まだ少しいつもの調子とは違うけれど、ルーダができることはもう何もなさそうだった。シックのことだ、今日一日時間があればいろいろと自分の感情と折り合いが付けられるだろう。

 余計なおせっかいだったかもしれないけれど。


「ルーダ」

 踵を返しかけたルーダに声がかかる。中途半端な体勢のままシックを見れば、視線は未だに滝つぼに向けられたままだった。

「明朝出立する。今日はよく眠っておけ」

「……分かった」

 エリスの主張、シックの主張、どちらに従っての出発になるのかは聞かない。それを決めるのはルーダではなかった。そして、シックでもない。


 深いため息をその場に置き去りに、ルーダは小屋への帰途を辿った。


連続更新は無理なのじゃ。

これからはまちまちと気の向くままに更新していくぞや。

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