31_2 - そして静寂
「糸、みたいな。これって魔力で作られた思念の糸だよね?」
「拙者も詳しくは知らぬが、それが彼女を蝕んでいるものの正体だ」
血の気が引いていく音をルーダは確かに聞いた。
思念の糸とは読んで字の如く、思念を魔力で糸状に形成したものだ。日常で知覚することはできないが、魔力を視ようと集中すれば視認もできる。ただし、隠ぺい処理が施されていないことが条件となる。
かの有名な三魔人と呼ばれた魔導師だけからなる3人組の隠ぺい技術がその最たるものだ。三魔人リーダーの虚像のジーモが考案したその隠ぺい技術は、現在に至るまで同じチームの2人しかマスターできていない高難易スキルのひとつだ。もっとも、当時の賢者をもってしても末恐ろしいと言わしめた光のオルフェや、世界三大悲運の魔導師としても知られる異界のニッチの才能が半端なかっただけなのかもしれないけれど。考案者である虚像のジーモよりも完璧に使いこなしたという逸話まであるくらいだ。
閑話休題。
その思念の糸がエリスを苛んでいるという事実にルーダはただ困惑した。
思念の糸は少し練習すれば誰にでも扱うことのできる代物だ。つながっている人の居場所を把握することが主な効果、というかそれくらいしか効果がない。虚像のジーモがいろいろと研究したようだが、結局途中で匙を投げたという話だ。
虚像のジーモの挫折を受けて、思念の糸では他人に干渉できない、と定義付けられた。物好きな研究者がおつまみ程度につまむ嗜好品という位置付けになったのだ。
その思念の糸を用いてエリスを死の淵に追いやっている。いくらヤマトがあらゆるものを独自進化させることに長けている人種でも信じられない思いだった。
場所を把握することくらいにしか役に立たない思念の糸のもう一つの特性。これがルーダを絶望に追いやった。
術者と対象者以外にその思念の糸に干渉することはできない。どれだけの魔力を持っていても、どれだけの魔導戦術を駆使しても。
つまり、エリスが目覚めない限り思念の糸を外すことはできないのだ。
(どうすれば……)
焦りだけが降り積もる。なんとかしなければと思うほどに気ばかり急いて思考はぐるぐると回った。
ただ汗を拭いてあげることしかできない自分に、ルーダは失望した。
強くなれたと。
少しだけでも強くなれたと思っていた。
ほんの少しだけでも役に立てるようになれたと思っていた。
放てる魔導の威力が上がったって、エリスの苦しみを和らげることができないのならばなんの意味もない。
ルーダは泣きそうになりながら、苦しそうに呻くエリスの汗を拭った。キレイに整った顔を歪めるエリスを見ているのはただただつらかった。苦しかった。悔しかった。
唇を噛んで涙が溢れそうになるのを堪える。エリスが苦しんでいるのに、何もできない自分が泣いちゃいけない。
それでも溢れるものを押し留める術をルーダは知らなかった。それもまた悔しい。
ぱたり、と水滴がエリスの頬に落ちた。
泣いたところでどうにもならないのに、一度溢れたら止まらなかった。
ぱたぱたと。ぱたぱたと。
なにもできない自分が情けなくて。なにもできない自分が悔しくて。
声を上げて泣き出しそうになるのを我慢することしかルーダにはできなかった。
無力感に苛まれるルーダの耳がその音を聞き取れたのは偶然に過ぎなかったかもしれないけれど。
聴覚が捉えたドアが開く音に、弾かれたようにルーダは振り返っていた。
「シック!」
ドアを開けた体勢のまま、突然の切迫した呼びかけに固まるシック。その目がルーダを越してベッドへと向けられる。瞬間、その顔がざっと音を立てて青ざめた。
形相を変えて駆け寄ってきたシックに押しのけられて尻餅をつく。
「エリス! エリス!」
かつてないほどに余裕のない声だった。
「待ってくれ。まだ、まだ一度も君を護れていない」
いつだって軽薄な態度を崩さなかった男の、それは初めて見る取り乱した姿。
「こんなところで行かないでくれ。頼む。待ってくれ」
かつてないほどに取り乱していた。
苦悶に呻くエリスの肩をつかんで揺する、などという暴挙に至るほどではなくても。
軽薄な笑みに彩られることが多い顔が悲愴に歪み、挑発的な色気を宿す双眸は縋るように揺れる。
魔の王と初めて相対したときも、帝国の牢獄に閉ざされたときも、賢者の死をきっかけにエリスが暴走したときも、どんなときでも決して見せることのなかった弱さが。辺り憚ることなく露呈されていた。
初めて見た。等身大のシックを。
勘違いしていた。シックは強い人間だと。
思い知った。自分がどれだけシックに頼り切っていたか。
「――に……さ、ま……――」
喘ぐエリスの震える唇が紡ぐ。それは実に残酷な死刑宣告に思えた。
まるで雷にでも打たれたみたいに。あるいはひび割れたように。シックの表情が凍りついた。エリスの名を呼んでいた口が、唇が、震えて噛み締められるのを、近場にいたからこそ見てしまった。
半ば反射的に目を逸らす。
知らず右手を強く握りこんでいた。
違う。
頼るべき相手が違う。
どれだけシックが優秀な騎士だろうと、どれだけシックが軟派な男だろうと、今のエリスの苦しみを和らげることもましてや救うこともできやしない。名を呼ぶことしかできない。無力なのだ。
だけど。
(魔導にできないことはない)
ナルが言っていたことだ。
強く握りこんでいた右手をさらに握りこむ。手のひらに爪が食い込んでもさらに強く。
今この場に魔導師はルーダひとりしかいない。できないことがない魔導を扱えるのはルーダしかいない。
頼るべきはシックではない。ルーダ自身の魔導だ。
いつもなら尻込みしそうなそれに、しかしルーダは怖じなかった。後押ししたのは感情だ。
勢いよく顔を上げる――弾かれたように飛び出した影が視界の端に映った。
出鼻をくじかれたような心地でルーダはその影を目で追った。
「……シュキハ? どこに――」
動いた影は放たれた魔導弾のようにまっすぐに小屋の出口へと向かっていた。
否、床に散らばる物騒な刃物群のうちのひとつを拾い上げると、跳弾のごとき勢いで駆け戻ってくる。追い詰められた手負いの獣のような形相にルーダの体がびくりと固まった。反対にシックは手元に剣があれば間違いなく抜いていただろうと思える反応速度でもって立ち上がる。それでもシュキハの早さのほうが早かった。
抜き放たれた刃が宙を滑る。着地点に待ち構えるようにシュキハが左手を突き出していた。
「シュキハ!?」
手を伸ばしたとてもはや遅い。手首から零れ落ちた血液がシーツの上にぽたぽたと落ちた。
「なにを……――?」
動揺するルーダの気持ちを代弁するように、呆然とした声音でシックが尋ねる。
シュキハはこちらにいちべつも向けなかった。
「拙者の血は特殊だ。ルーダ、その糸になら干渉できる。拙者の血が乾ききる前に焼き切れ」
「え、あ、い、う」
言われたことがわからずにしどろもどろになる。泳いだ目は滴り落ちるシュキハの血を捉えた。
――滴る? どこから?
露に濡れる蜘蛛の巣のように、思念の糸に絡まる朱があった。
目を瞠る。ありえない光景だった。
「わ、わかった」
だけど、これは証明だ。術者と対象者以外には触れることもできない思念の糸が外から干渉されたという。
原理はわからない。わからなくていい。
ルーダはシックの体を押しのけ思念の糸へと手を伸ばした。
酸化し始めた血は黒ずみ魔力で作られた思念の糸を赤黒く染める。
触れようと指を伸ばしても指はすり抜けるが、魔力で指をコーティングすれば触れることもできた。これにはルーダも驚いた。思念の糸の概念をぶち壊す現象だ。
かぶりを振る。
驚くべき現象でも、驚くのは後回しでいい。
変色した思念の糸を魔力でコーティングした親指と人差し指で摘まむ。感触はないに等しいが、確かに触れているという感覚はあった。
指先に魔力を集中させる。十分に練られた魔力に雷の属性を乗せれば、バチバチと激しくスパークした。
張から緩へ。
ピンと張りつめていた思念の糸が支えをなくしてくたりと垂れた。エリスの首に巻きついていた思念の糸が徐々に薄くなり、やがて消える。それに合わせて苦悶に歪んでいたエリスの表情が和らいだ。珠のように浮かんだ汗を拭うと、それ以上汗が噴き出てくることもなかった。
膝から力が抜ける。安堵が脳内を染めた。
「成功したのか?」
頭上から、声。
顔も上げずにうなずきを返す。深い安堵の息を吐く音が聞こえた。
一区切り。
ストックが切れてもた。
続きはちと時間開けるかねぇ。




