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31_1 - 毒蛇は肢体を晒す

 ぐつぐつと煮え立つ鍋の中身をかき回す。数種類の野菜と鶏肉の入れられた鍋の中の具材は、調理されたことを抗議するかのように沸騰する汁と共に鍋の中で踊った。

 腹が小さな音を立てる。とっさにエリスを献身的に介護するルーダへと顔を向けたが、彼はその音に気付かなかったようだった。

 無用な恥をかかなかったことに安堵の息を吐く。

 一人旅をしているときは周りなど気にせず腹の音を響かせていたものだが、やはり自分もまだまだ女であることを捨て去ってはいないようだ。それに安心しても良いものか微妙に迷うところではあるけれど。


 窓の外はすっかり闇に覆われていた。橙色に染められていた景色も今は黒く塗りつぶされて先も見通せない。

 シックはまだ戻ってきていなかった。どこまで行っているのかは知らないが、何かの気まぐれで引き返してきていたヤマトの連中とやらかしているなどという事態になっていないことを願うばかりだった。

 探しにはいかない。シックからここを、エリスを任されているのだから。


「シュキハ!」


 びくっと体を震わす。

 気負いすぎだ。呼びかけひとつで驚くなどそれこそ武士の名折れ。


 ルーダへと顔を向ける。シュキハの名を呼んだ張本人は、焦った顔でシュキハを手招きしていた。

 容体が急変したのか。

 予想しうる事態に血の気が引いていく思いを抱きながらも、シュキハは急いでルーダの元まで駆け寄った。


「どうした?」

「急に苦しみだしたんだ」

 先ほどまでは規則正しく胸を上下させていたエリス。今は体をくの字に曲げてその顔に珠のような汗を浮かべている。喰いしばった歯の間から漏れ出た呻き声だけで彼女が如何に苦しんでいるのかがわかる。


 調べずとも確信する。オロの薬、いや、毒だ。

 オロとは特段親しい仲だったわけではない。むしろトウナと仲が良かったため敬遠していた相手でもある。オロが扱う毒も数えるくらいにしか知らない。だが。

(これは――)

 予想はしていた。これを使うだろうということは。

 シュキハが知っている毒の中で、最悪の毒。オロが独自に開発したオロにしか使えないオリジナルの毒。確実に標的の息の根を止めたいときによく用いられる毒。


 裏を返せば、その毒を用いてでも殺さなければならない相手だと。ヤマトはそう判断したということ。

(ただの非力な娘ではないか)

 もがき苦しむことしかできない女ひとりを、なぜそこまで必死になって消そうとする。

 あえぐように息を吐いて、シュキハはかぶりを振った。


「ルーダ、首のあたりに何か見えるか?」

「首?」

 水にぬらしたタオルでエリスの汗を拭っていたルーダが訝しげに顔を上げる。見下ろし、無言で首肯する。ルーダの目に理解の色が宿ることはなかったが、それでもシュキハの言っていることに理解を示そうという努力は見られた。

 エリスの汗を拭う手を止め、彼女の首元に視線を落とす。


 彼女はいったいなんなのだろう。


 シュキハは知りようもないが、図らずともそれはシックが抱き続けている疑問と同じだった。もしかしたらルーダとも。

 誰もが疑問に思う。なぜ思わずにいれる。


「あ、これって――」

 思考に沈みそうになった意識はルーダのつぶやきによって浮上した。

「視えたか?」

「糸、みたいな。これって魔力で作られた思念の糸だよね?」

「拙者も詳しくは知らぬが、それが彼女を蝕んでいるものの正体だ」

 その説明だけでルーダは事態の深刻さを理解したらしい。表情を強張らせて黙り込んでしまった。

 ある程度魔力の強い者にしか視ることのできない糸は、術者とその対象者にしか外すことはできない。どれだけ莫大の魔力の持ち主だろうと、対象者でもなければ糸に干渉することはできないのだ。繋がった糸からは絶えずオロの魔力に乗せた毒が送り込まれ続ける。それがオロの放った"毒"だ。


 きゅっと拳を握る。

 彼女はこのまま助からないかもしれない――助からないほうがいいのかもしれない。

 トウナというヤマト最強の男までわざわざ出張ってきて始末しようとしている。感情を優先してあの場では対立したが、冷静になって考えればこれは異常事態なのだ。オロも言っていたではないか、可能性ではない確信だと。それにそうだ、人の敵である魔の王が助けようとしていたではないか。ただの非力な娘であるはずがない。

 災厄そのもの、それがエリスの正体だ。


 体内を駆け巡る血液が温度を下げていく。

 ヤマト人としての、いや、白夜の民としての使命がある。世界に黄昏の刻を迎えさせてはいけない。そのためならば。


 エリスを見下ろす。

 適切な対処をしなければ明日の朝日を拝むことなく息絶えるだろう。思念の糸とやらで繋がっているオロならば絶命したかどうか離れた場所からも知ることができるはずだ。

 ルーダを見下ろす。

 少なからず事情を知ってしまった彼の口も封じなければならないだろう。良くて幽閉、手っ取り早いのはこの場で。幸いにしてこの場所は人がめったに訪れない山奥。魔の仕業に見せることも可能だ。


 握りしめていた手を開く。ゆっくり、ゆっくりと。

 大義名分は揃っている。揃ってしまっている。

 あえぐように息を吐き出す。息苦しさを感じてしまうのは、未だに決断しきれていないからだ。そう、未熟だからだ。


 武器の選定のために外していた己が得物へと視線を移す。

 感情のままにトウナに逆らい交えてしまった刃。今ならまだエリスの死を土産に参じれば彼は許してくれる――はずだ。きっと、恐らく。トウナの父の死を契機に切られてしまった縁も、もしかしたら結び直すことができるかもしれない。


 ドクン、ドクン、と鼓動の音が大きく聞こえてくる。

 やらなくては。ヤマトのために。世界のために。


「ル――」

「シック!」

 呼びかけようとした声はルーダの声にかき消された。

 ハッとして振り返る。小屋の入り口に、いつの間にか戻ってきていたシックが立っていた。この場を頼むと、そうシュキハに頼んでくれたシックが。

 焦り、悔い、目の前が白む。

 シックはそんなシュキハの様子には気付かなかったようだった。ただルーダの声に顔色を失い、慌ただしく駆け寄ってきてシュキハを押しのけたのみ。吐き気にも似た自己嫌悪に襲われて、シュキハはふらりと後退った。


「エリス! エリス!」

 呼びかけるシックの声にはいつもの飄々とした余裕は感じられなかった。本当に、本気で、エリスのことを守りたいと思っているのだ、彼は。

「待ってくれ。まだ、まだ一度も君を護れていない。こんなところで行かないでくれ。頼む。待ってくれ」

 悲痛な声だった。


 息を吐き出す。

 シュキハは駆けだした。床に散らばる古今東西の武器のもとへ。

 誰かの声が聞こえたような気がする。だけど無視する。そんなものに構っていられない。

 散乱する武器のうち、一番最初に目についた武器を手に取る。体に急制動をかけて踵を返し、すぐさまベッド脇へと駆け戻る。シュキハの行動に驚きつつも、鬼気迫る形相のシュキハを見てシックが立ち上がったが遅い。振り下ろした刃は的確に目標の肉を引き裂いた。

 ぶじゅりと肉が裂ける。傷つけられた血管から体内を循環する血液があふれ出した。


「シュキハ!?」


 この声はルーダか? 白くなった思考では判断が付けられない。

 あふれ出した血がエリスの体を赤く汚した。


「なにを……――?」

 呆然とした声が聞こえてくる。これも誰のものかはわからなかったが、恐らくシックのものだろうと思った。

「拙者の血は特殊だ」

 血が滴り落ちる。中空に浮かび上がった赤く染まった糸から。シュキハの腕から流れ落ちる血を受けて。

「ルーダ、その糸になら干渉できる。拙者の血が乾ききる前に焼き切れ」

「え、あ、い、う、わ、わかった」

 己が手首を傷つけた刃物を捨てる。傷口を押さえると、そこで初めて痛みを覚えた。


 膝から力が抜ける。脱力して座り込んだシュキハの顔に影がさした。

 顔を上げる。予想通り、シックだった。


「……手当をさせてくれ」

「なぜそちらが頼む。拙者が頼む立場だろう?」

「させてくれ」

 有無を言わさず腕を取られる。抵抗するヒマはなかった。

 タオルを押し付けられて顔をしかめる。手当をするのならもっと丁寧にやってもらいたいものだが、生憎そんなことを図々しくお願いできる立場ではない。自分は数分前まで今しがた助けようとしたエリスを見殺しにしようとしていたのだから。

 きゅっと口をつぐむ。無言で止血をするシックを盗み見、それからすぐにシュキハは息を吐いた。


「拙者が、エリス殿を手にかけると思ったか?」

「ああ」

 問いにすぐに答えが返ってくる。気持ちのいいくらい即答だった。

 そうだろうな、と思う。信頼を勝ち得るためのことを、シュキハは何もしていないのだから。

 否。

 実際、自分を信じようとしてくれていたシックをシュキハは裏切ろうとしていた。ヤマトを、トウナを言い訳にして。

 ――違う。

 かぶりを振る。


「そのつもりならお前がおらぬ間にしている。まして、あの場面でトウナに刃向かったりはせぬ」

 言いながら顔を上げてルーダを見る。シュキハの血に染め上げられた思念の糸に魔力で干渉しているのを確認してそっと息を吐いた。


 ――これでいい。

 ヤマトは歴史の暗躍者であるが、決して無法な殺し屋ではない。世間に公表してもその正当性が主張できる証拠もなしに、無抵抗な娘を殺めてはいけない。たとえそれが英雄スオウの血に連なる者であっても。

 だが、と思う。

 もしエリスが災厄そのものだと確信できるだけの証拠が揃ったのならば、そのときはこの手で。今度こそ、トウナの手を煩わせることなく。


「っ!」

 傷口を強く押さえつけられた痛みに、シュキハは声にならない声を上げた。

 慌ててシックへと視線を向ける。


 肌が粟立った。


 冷たい、昏い眼差し。

 シュキハを見据えるシックの双眸は底冷えするほどに冷え切っていた。数え切れないほどの戦場を傭兵として渡り歩いてきたシュキハが、恐怖を覚えるほどに。


 傷口を押さえるシックの力が強くなる。

「言ったはずだ」

 低い声音。

 なにを、とは問わなかった。口を開けばそれだけで彼の宣言を実行に移させるような気がしたから。


 シックが立ち上がる。そのままエリスの傍へと行ってしまった。結局止血をされただけで手当は何も施されていない。

 抱きこむようにしてシュキハは傷を負った腕を胸元に引き寄せた。



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