30 - 仙女
水を沸騰させた鍋からマグカップへとお湯を注ぐ。先にマグカップの底で待ち構えていた粉末がお湯と混じって透明の液体をダークブラウンに変えた。漂いのぼる香りが鼻孔をくすぐる。インスタントのコーヒーだが、香りは悪くなかった。
スプーンで中身をかき混ぜながら顔を上げる。
最初に目についたのはルーダの後ろ姿だった。同じフロアにあるダブルベッドに寝かせたエリスの手足を、ホットタオルで甲斐甲斐しく拭いている。その姿が妙に似合って見えた。
視線を移動させる。
床に大量の武器――剣やら弓やら棍棒やら――を散乱させているシュキハが見えた。この小屋の床下に眠っていた代物だ。ひびが入っているかもしれない危険のあるシックの代わりになる武器を選定してもらっているはずだが、武器を一本一本吟味しているシュキハの目は楽しそうだった。
マグカップを口元に運ぶ。香りと同じく、悪くない味だ。
バーリハーに教えてもらった小屋は、あの洞窟を抜けてすぐに発見することができた。捨てられた猟師小屋か何かを想像していたシックの予想を裏切り、小屋は快適な居住空間を訪れたシックらに与えてくれた。かつてエリスの案内で訪れた小屋と同じく。
何か証拠があるわけではないが、恐らくあの小屋と同じく冒険者たちのために用意されたという小屋のひとつなのだろうとシックは予想した。床下に大量の武具が眠っていたり、質の良い保存食が用意されたりしている猟師小屋など普通は存在しない。
当面、衣食住に対する心配がなくなったことをとりあえず喜ぶことにした。そちら方面に悩まなくても良いのはシックにとって都合が良かった。
この先どうすべきか――考えなければならないことはたくさんある。
第一に優先すべきはエリスだ。今は薬の影響とかで眠っているが、目が覚めればまたツライ目に遭わせるだけになるかもしれない。護ると言いながら、実際のところまったく護れていないのと同じなのだ。
自信がないわけではない。決してない。
(絶魔ルインのルナティックソウル、か。そんなものどう手に入れろって言うんだ)
バーリハーの言ったことが偽りでなければ、それがエリスを救える唯一なのだ。
せっかく手に入れた具体的にエリスを救う方法なのに、肝心のそれを手に入れる手段がなかった。
焦りばかりが募る。苛立ちを抑えるためのコーヒーだったのに、治まりそうになかった。
窓から外を見る。先ほど通ってきた滝が遠くに見えた。
時刻は既に日暮れ前。間もなく外は茜色に染まるだろう。小屋以外に人の手の入っていない外は自然のままに美しい風景を惜しげもなくさらしている。茜色に染まったそれもきっと美しいことだろう。苦労せずにここまでたどり着くことができるのならば、女性を口説き落とす場所としてこれほど都合の良い場所はない。
また視線を室内へと戻す。
ベッドの上で眠るエリスの顔は穏やかだ。
良家の子女、に見えないのはシックが出会って共に時間を過ごしてきたのが、エリシアナ・バードランドという女性ではなくエリスというトレジャーハンターだったからか。
(そういえば……)
口元に運ぼうとしていたマグカップをシンクの上に置く。
窓の外を見れば、徐々に西の空が色を変え始めていた。
「シュキハ、少し出てくる。ここは任せた」
「む?」
振り返ってきたシュキハの顔には怪訝な表情しか浮かんでいなかった。理由も告げていないのだから当然の反応だ。
通り過ぎざまに、床に散乱していた武器のうち比較的今まで愛用していた片手剣と似ているものを拾い上げる。
「拙者に任せてもいいのか?」
小屋のドアに手をかけるシックの背中にシュキハの声が届く。数時間前まで疑われていた相手から急にそんな頼まれごとをされれば戸惑いもするだろう。
肩越しに振り返り、微笑する。
それだけでシックは無言のまま小屋を出た。
パタン、と背後でドアが閉まる音を聞く。
シュキハのことを完全に信用したかどうか、問われれば迷わず答えるだろう――まさか、と。
事情はどうあれ彼女は知っていた。ヤマトの連中がエリスを狙っていることを。仲違いか何かは知らないが今はこちら側についていても、またどこで心変わりしてエリスに刃を向けるかわからない人物であることに変わりはない。
それでも――
(ここで手をかけることに意味がない。やるならさっきの連中の邪魔なんてしていない)
それは半ば願望に近かった。
気付いて、ふっと鼻で笑う。らしくなかった。
小屋から離れて歩き出す。懐を探ると、すぐに指先が固いものにぶつかった。それをつかんで取り出す。いつかティッケから預かっていたエリスの手帳だった。
待っていても何も教えてくれないエリスとの交換条件にと思っていたが、あの時の判断はどうやら吉と出たらしい。
一度小屋を振り返る。
「中を見させてもらうよ」
聞こえないとわかっていてもエリスに断りを入れておく。それだけで多少の後ろめたさは薄らいだ。
枝にとまるつがいの鳥のイラストが描かれた表紙をめくる。
最初の数ページは今回の件とは関係のない事柄で埋められていた。要点をまとめるが苦手なのか、お世辞にも見やすいとは言えない。これで字が汚かったから相当読みにくいものになっていただろう。育ちの良さがうかがえるやけにきれいな筆跡が余計にちぐはぐ感を出しているのは否めないが。
ページをめくる。
見たことのある紋様が描かれていた。
少し形は違うが、見たことがある。それは英雄の墓に彫られていた紋様と似ていた。確かエリスは黄昏の記述と言っていた。
紋様の下にシックでも読める字で一文添えられている。
地名だ。恐らくはそこでこの紋様を書き写したということだろう。
見開きページの右ページに視線を滑らせる。それまでのきれいすぎる筆跡とは違う筆跡で数行書かれていた。
「鍵はやがて夢喰い人となる。夢喰い人は我を覚醒させられる唯一の存在。役目を終えた夢喰い人は我が都へと導かれる。我が都は永遠なる楽園、幸福の約束された地」
口に出して朗読してから理解した。これは解読文だ。
冒頭は一度エリスから聞いた黄昏の記述と寸分違わなかった。
ページをめくる。
「我が足跡をすべて訪れ鍵は輝きを取り戻す。空は閉ざされ我に至る扉は開かれる」
ページをめくる手がそこで止まった。
最初に読んだものと同様、これも夢喰い人に関する内容だ。
我が足跡、というのは恐らく黄昏の記述のことを指す。そうでなければエリスも自分では解読できない黄昏の記述をわざわざ調べるルートを辿って旅をしないはずだ。
(黄昏の記述のすべてを訪れなければ鍵は真の力を発揮しない、ということか?)
頭をかく。結局はどうしたところで憶測の域を越えなかった。
諦めてまたページをまくる。
「暁の民が歌い狂う。太陽は彼らのために与えられた」
ページをめくる。
「宵の民が舞い踊る。月は彼らのために与えられた」
ページをめくる。
「宵と暁が喰い合いし世界に湧いた白夜の民。宵の民はこれを打ち滅ぼし、暁の民はその存在を否定する」
手が止まる。
これまた理解に苦しむ内容だった。
それまでエリスに聞いたりしていた黄昏の記述とは方向性が違う。ヒントもない状態ではどうとでも解釈できそうだった。
ページの終わりにまで到達する。
最後のページには写真が挟まれていた。3人組の写真――エリスとラドと知らない女が仲良く写り込んでいる。
「昔の写真か?」
楽しそうに笑っているエリス。このころはまだ髪が長かったのか、両サイドで2つに縛られている。
写真の表面を撫でる。
きっと、このころの彼女は予想もしていなかっただろう。自分がまさか命を狙われるようになるなど。惚れた男に裏切られ殺されてしまうことになるなど。
軽く嘆息して手帳をたたむ。
「ヒントなし、か。せめて手がかりのひとつでもあって欲しかったな」
落胆は自分で思っていた以上に声に滲んでいた。
手帳を懐にしまい込む。
顔を上げると、白い瀑布が目に入った。茜色に染まる大地と同じく橙色に輝く滝は、シックの抱える問題など意に介した様子もなくただ上から下へと水を運んでいた。
不意に思い出す。
(……絶魔ルインの墓)
洞窟内にひっそりと建つ慰霊碑。エドゥと名が彫られた魔の墓。
バーリハーは言った。エリスを救う手段があるとすれば、それは絶魔ルインの生命の輝きルナティックソウルだけだと。
せわしなく心臓が早鐘を打った。
一度小屋を振り返り、そして断ち切るようにして滝へと目を向ける。
時刻は黄昏時。
わずかに発光する洞窟内の壁だけで辿り着けるかはわからないが、何もやらないよりはマシだ。可能性がある以上は無視できなかった。
※ ※ ※ ※ ※
どういった原理で発光しているかわからない壁に囲まれ、絶魔ルインの月種エドゥの墓は物言わず佇んでいた。
光源がわずかに発光する壁だけというのは心もとないが、境遇に文句ばかり言っていても何も始まらない。邪魔が入ったせいで満足に調べることのできなかったそれを調べるのは今をおいて他になかった。
死者を辱めるようで気を進まないものの、最終的には墓を暴くことも視野に入れる必要がある。なりふり構っていられなかった。
「君に恨みはないが、悪いね」
言い訳のように告げる、物言わぬ慰霊碑に。
『――そこにエドゥの生命の輝きはない』
振り向きざまに腰に吊った剣を引き抜く。息をのむよりも先にその行動に移ることができた。皮肉としか思えないが、これまでの経験によるものだ。
『此処はエドゥの眠る地。その安寧を崩すならばそなたを排除せねばならぬ』
人の姿はどこにもなかった。
ただ声だけが聞こえてくる。女性の、ヤマト訛りのある声が。
「……誰だ?」
姿の見えぬ何者かに誰何を返す。
ヤマトの連中に襲われたこの場所で、ヤマト訛りのある声で警告を発せられる――これはいわばチャンスだった。
「墓を荒らすつもりはない。ただ生命の輝きとやらの情報が欲しいだけだ。もし知っているのならば教えて欲しい」
聞こえてきたのは返事ではなくジジという何かが焼き焦げるような小さな音だった。
目を凝らすシックの視線の先、虚空にぽつんと浮かび上がった光が洞窟内を支配する闇を広げる。それは見ている先で人の姿を形作った。
『わらわは墓守』
浮かび上がった人――恐らく映像だろう――が言う。
民族的な儀礼服をまとった女性だった。豊かな黒髪を足元まで伸ばし、両の目を閉ざしたその女性は、シックの推測が間違っていなければヤマト人だろう。
厳かな雰囲気を放つ女性の雰囲気に圧されていることに気が付き、とっさにシックは手にした剣を地面に突き刺した。
息を吐く。気持ちを整えるにはそれが一番シンプルで効率的だ。
「おかしなことを言う。エドゥはヤマトの英雄スオウが打ち滅ぼした魔だ。その魔の墓をなぜヤマトの民が守る?」
『それは答えられぬ。今は機にあらず』
ゆるりと首を振って、女性。知らずシックは歯ぎしりしていた。
――またそれか。
目の前に答え、ないし答えに繋がるヒントがぶら下がっているのに、それを手に入れられないもどかしさ。
女性の言葉は続いた。
『じゃが、いずれ知る。そなたらは世界に秘匿されたすべてを知ることになとなろう』
「いずれじゃ困る。俺は今知りたいんだ」
女性は首を振る。横へと。
「なら答えられる範囲でいい。世界に秘匿された秘密とはなんだ? それがあの子を救う役に立つのか?」
『世界の定義を覆す。それは忌まわしき記憶』
眉根を寄せる。
あいまいで、抽象的で、意味がわからない。これまで得てきたものと同様に。
苛立ちが舌打ちとなって外に出た。
『エドゥの生命の輝きなればいずれそなたらに渡す。わらわが所持しているゆえ』
「――……それは、本当か?」
予想していなかった言葉に生まれたのは喜びではなく疑い。
女性が首肯する――その映像が揺れた。ノイズが入ったように。
『何やってんだババァ』
声は女性のものではなかった。
聞き覚えのある声だ。男の。
『戻って早々騒がしい奴じゃの』
女性の声は呆れたような響きを持っていながら、どこか喜ぶようなニュアンスも含んでいた。
その言葉が合図になったかのようにふっと女性の映像が消える。闇を圧していたその映像が消えれば、洞窟内は再び仄かな壁の光に照らされるだけの暗闇に閉ざされた。
『そなたがそこまであのオナゴを助けようとするはなぜじゃ?』
その問いが最後。女性の声は完全に途絶えた。




