1 - 絶望を知るための邂逅
一人目の主人公
綺麗に整備された石畳の道をひとり歩く。
通り過ぎていく喧騒は、うるさすぎも静かすぎもしなかった。その程よい喧騒を耳にしていると、自分が抱えている問題などそれほど気にする必要もないのではないだろうかと錯覚してしまう。いくら現実から目を逸らしたとしても現実は現実としてそこにあることはわかっていたけれど。
一年を通して温暖な気候に恵まれたジスターデ国にも夏は訪れる。日に日に陽光の強さが増しているのを感じた。後いくつか日をまたげば本格的に暑くなってくるだろう。
もっとも、無事に時を重ねることができれば、の話だ。
ジスターデ国は――いや、ジスターデ国に限らず世界は現在存亡を賭けた戦争のただなかにあった。
人と人にあらざるものとの戦争。それは突然訪れた。
時は今から数えること半年前。皆既日食の瞬間を境にして突如として魔が人に対して牙をむいた。相容れぬ存在でありながら互いの領域を侵害しないという暗黙の了解のうちに表面的には平和な時を過ごしていたはずの世界は、今や人と魔が大地の覇権を奪い合う緊迫した状態にある。
世界で最も平和と言われるこのジスターデ国にも不安の色は濃く現れていた。
とは言っても、ルーダが抱えている問題はそこまで大規模なものではない。
「はぁ~……」
知らぬうちにため息が漏れる。重い足取りは意識しないままに止めてしまっていた。
ルーダは今日、勤め先から解雇を言い渡された。原因は100%ルーダにある。言い訳はすまい。
「でも旦那様もケチくさいよなぁ。たかがお皿一枚割っただけであんなに怒らなくてもいいのに」
とある富豪の使用人として2年勤めたルーダの失敗を主人は許してくれなかった。
皿――なんでも相当高価なものだったらしい。以前から絶対に触れるな近づくなと言われていた。それをすっかり忘れて軽く表面を拭こうとしたら、絵に描いたようにするっと手が滑ってしまったわけだ。
いわゆるお約束。
そもそもそれほど大事なものならば金庫にでもしまっておけばいいのに。
実際にそう主張したら荷物を放り捨てられた。
2年かけてやっとジスターデ国の首都生活にも慣れてきたというのに、しばらくは職探しをしながら生活をしなければならない。幸いにしてジスターデ国の首都には金持ちの屋敷が多い。探せば住み込みの仕事のひとつやふたつはあるだろう。
「その前に役所に書類提出かぁ……」
結局のところルーダの目下の悩み事はそれだった。
犯罪率も低く格差も小さいと言われるジスターデ国だが、唯一他国と比べて不便な点が手続きの面倒くささにある。具体的にどう面倒くさいのか説明しろと言われてもうまく説明できる自信はなかったが、とにかく面倒くさいのである。
またため息ひとつ。
憂鬱な気分を抱えたままルーダは再び歩き始めた。
「あ~ぁ、旦那様の家から記念になんかもらってくれば良かった」
一般的にそれは窃盗と言う。呟いてみたはいいが、さすがに犯罪者になる気はなかった。
とぼとぼと表現する以外に相応しい表現方法がないほどに肩を落として歩くルーダは、中央広場――中央議会の前にある広場だからそう呼ばれているが、実際は別に街の中心にあるわけではない――に差しかかったあたりで足を止めた。
時計台の下に佇む人影がある。
「あれ、あの人…――」
首都は中央議会がある街だから――なのかは本当のところは知らない――基本的に上流階級の層が多く住む。その街では珍しく、時計台の下にいる女性はいかにも冒険者然としたたたずまいをしていた。
ひときわ目立つ派手なバンダナの間から覗く髪は金色。手元に目線を落としているのでよく見えないが、瞳の色は碧だろうか。今でこそ珍しくはないが、一昔前までは金髪碧眼と言ったら貴族を示す特徴のひとつだ。派手なバンダナのせいでその特徴はうまくごまかされているようだが、そんな特徴を持った女性が冒険者然とした服装で佇んでいるのは奇異に映った。
他人を詮索するつもりはない――というかそんな余裕はない――のだが、富豪の使用人をやっていた職柄少しだけ気になった。
何かに気づいたように女性が顔を上げる。何も悪いことはしていないのに肩を震わせてルーダは固まった。
女性の口が開く。
反射的に耳を澄ましたルーダだったが、女性の声を聞くことはなかった。
「ぎゃふっ!」
体の上から間の抜けた悲鳴が聞こえてくる。背中に何かがぶつかった衝撃につんのめるようにして転倒したルーダの体の上から。
ずしりとした重みが、ルーダが起き上がるのを邪魔していた。
「なにしてんのよ、あんたは」
「いやぁ~、うっかりうっかり」
「あんたはうっかりしてない時なんてなんでしょ。早くどいてあげなさい」
「はーい」
頭上で何やら会話が繰り広げられた後に、背中の重みが遠ざかる。
突然の出来事に頭はついていかなかった。
それでもなんとか頭を働かせようとするルーダを遮るように、鼻先に何かが差し出される。ぎょっとしたように体を強張らせたルーダの頭上からまた声が降ってきた。
「ごめんなさい、大丈夫?」
柔らかくも芯の通った女性の声。
驚いて顔を上げた視線の先に、時計台の下にいたあの女性の顔があった。目を見開いているルーダを見て笑いかけてくる。
またしても予想外の事態に頭が思考を停止した。
「そんなことよりビッグニュースだよ、エリスさん」
視界の外から生えた誰かが女性に――エリスと言うのが名前だろうか――興奮した様子で話しかける。興味を持ったように女性の目がその誰かに向くが、差し出されたままだった手が離れて行くことはなかった。
思考が回転する。
女性はルーダが起き上がるのを助けようとしてくれているのだ。
理解が追い付けば行動は早かった。
「あ、だ、だいろぶ」
うまくろれつが回らずに言うルーダが手を借りずに起き上がれば、小首を傾げるようにしてから女性が立ち上がった。
「それで? なにか愉快なことでもあったの?」
「うん! 初スカウト成功!」
女性と対峙して興奮気味に話している男性がうれしそうに顔をほころばせる。青と白を基調とした色合いで統一したその男性もまた、女性と同じく見るからに冒険者然とした服装をしていた。お世辞にもあまり似合っているとは思えなかったけれど。
また思考が回転して理解が追い付いてくる。
先ほど背後から激突してきた人物はその男性だったのだろう。
「あら、あんたちゃんと仕事覚えてたの」
「もっちろん! すごいんだよ。きっと黄昏への道中、エリスさんをしっかりと守ってくれるはずだから」
「え……?」
知らず声が漏れた。
顔を上げる。
盗み聞くつもりはなかった。ただ立ち去るタイミングを逸しただけ。
誰にともなく言い訳をしながら、聞こえてきた単語を胸中で反芻する。
ルーダがいつまでもそこにいるとは思っていないのか、それとも別段気にしていないだけなのか、会話をしている女性と男性がルーダを気にかけるそぶりはない。勢いよく立ち上がったルーダをいちべつする程度の関心度しか彼らには――男性のほうはそんな関心すらないようだが――なかった。
「で? そいつはどこにいるの?」
「街の入口のとこで待っててもらってる。なんか出発の前に準備もしたいって言ってたから。その間にエリスさんを呼びに来た」
「そう」
始終機嫌良さそうに話す男性と対照的に、受け答えする女性のほうは冷静だった。一見したらつまらなそうにも見えたが、よくよく観察していれば決して無関心というわけではないことがわかる。
「あの!」
立ち去る気配を見せる2人に――というよりも女性に――向かって声をかける。
ちらりといちべつをくれた女性が足を止める。鼻歌でも口ずさみそうなほどに上機嫌な様子の男性は立ち止まらなかったが、そちらのほうにルーダも興味はなかった。
女性の碧の双眸がルーダを見据える。
緊張していることを自覚しながらルーダはこくんと喉を鳴らした。
「なに?」
先制を取るように女性が問う。
「今、黄昏って言ってませんでした?」
慎重に舌の上で転がした問いを女性に投げる。
わずかにだが、女性の目が細められた――と思ったら徐々にその目が笑みを形作るように弧を描く。
「んー……言ったかもしれないわね。でももしかしたら言ってないかも」
どこか楽しむように曖昧に女性が言う。
「あんたはどっちがいい?」
人をからかうことに慣れている、とルーダは感じた。屋敷の使用人仲間の一人が似たような言い回しと笑い方をしていたので間違いない。
考えるように沈黙を挟む。
こういった手合いへの反応としてまずい選択をするわけにはいかなかった。
「そだ、私が認めたら教えてあげる」
ルーダの反応を待たずして、女性。
その手が不自然に動いたのをルーダは偶然目撃していた。
何かが来るのを見たわけではない。ただ動物的な本能がルーダの体を動かした。
のけぞるように体を逸らしたルーダの喉元を何かが通り過ぎる。何かが風を裂くような、そんな冷たさを感じた。
「わっ」
悲鳴になりきれない声は遅れて喉から出た。
数歩たたらを踏んで後方に下がる。
女性の右手には逆手に持った小刀があった。あまり想像したくないが、先ほど喉元を通り過ぎたのはあの小刀の切っ先だろう。
「はい、合格。おめでとう」
言って女性が笑う。
事態の理解が追い付かずにまたしても思考が停止した。
ジスターデ国内でも犯罪発生率が極めて低い首都でまさか刃物を向けられるなど。ばくばくとうるさいほどに心臓が早鐘を打った。
思い出したように顔面に汗が噴き出す。
馬鹿にするようでもなく、女性が楽しそうに笑った。
「ビックリした?」
「う、うん」
言いながら、女性は後ろ腰に差した鞘に小刀を納めた。
中央議会前の広場であることを思い出して周りを見るも、幸いなことにして今の一連の出来事を目撃した人はいなかった。騒いではいないが、小刀を振り回していたことが騎士にでも見咎められていたら厄介なことになっていただろう。
「私はね、これから黄昏を求めて旅に出るの。魔の領域を通りながらね」
「魔の……」
こともなげに女性が口にした内容を復唱する。言うほどそれが簡単ではないことをルーダは知っていた。
人との諍いを繰り広げる人とも動物とも異なる外見を持つ彼ら魔が、人里を避けるようにして住む地域は魔の領域と呼ばれている。その場所に人が足を踏み込めば、魔は容赦なくその牙を剥くだろう。人の領域を侵した魔を人が排除しようとするのと同じく。
「黄昏は戦争の原因になった代物よ。それを手に入れようってんだから危険は付き物。今のが避けられないようじゃついてきてもらっても意味がないから」
「…………単に黄昏って言ったかどうか聞いただけだったんだけど」
反論したルーダを見たまま女性の動きが止まった。
「エリスさ~ん?」
沈黙を破る呼び声に続いて、先に行っていたはずだった先ほどの男性がひょこりと視界に現れる。妙に気まずい空気に一切気づかずに乱入してきたその男性が今はとてもありがたく感じた。
ぱちりと女性が瞬く。
恐らくそれは根っからのネガティブ思考があってこそ察することのできた第六感――悪い予感に逆らわずに踵を返したルーダの襟首を女性がつかんだ。
「黄昏に興味あるのよね? なら私の旅に付き合わせてあげるわよ」
「いえ、お構いなく」
「さあ行くわよ」
「ぎゃぁーーーーーーー!!!!」
夏の訪れを待ち望むよく晴れた空の下、ルーダの悲鳴はこだまするように響き渡った。
それは、決して歴史に残ることのない旅の始まりを告げる邂逅。