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22 - 憎しみは甘い毒

 天を舐めた炎は爆発的に燃え上がっただけで終わった。立ち昇りと同じく急速に勢いを失った炎柱はもはや視界のどこにもない。

 急速に膨れ上がり、そして急速に萎れる――これは知識が薄いシックでも知っている顕著な魔導の特質だ。

 口の中に苦い感情が広がっていくのがわかる。


 ――枷は外された。災いは暴走を始める。


 不吉を囁くアザトの言葉がリフレインする。

 手の平に食い込む刃の鋭さだけが、熱せられた大気に浮かされた頭から思考力を奪わないでいてくれた。

 腕を伝う血が肘から落ちる。

「……――君は何をしようとしているんだ?」

 無造作につかんだ刃を引き寄せる。血で滑る刃側から相手の武器を奪うことは難しいと思ったが、意外なほどあっさりと刃を引き抜くことができた。

 虚空を彷徨っていた視線がシックの顔に向けられる。

 問いかけに意味はなかったのかもしれない。


「エリス」

 呼びかけには反応してくれた。目玉がぶれる程度のほんのわずかな反応だったとしても、それでも反応してくれたことに変わりはない。

「―――どいて」

 どこか虚ろな声音にため息を吐く。

 別れている間にエリスに何があったのかは知らないが、ずいぶんと愛想の悪い変化がエリスに訪れたものだ。再会を喜んで抱きついてキスぐらいするほどの変化ならばシックとしても喜ばしい限りだったというのに。


 シックの背後からは呻き声が聞こえてくる。

 にわかには信じがたいことだ。虫も殺さない――己の手を汚さないという意味で――ような性格のエリスがここまでのことをするとは。

 それも相手が相手だ。

「君はこの豚と同じ下衆になり下がる気か?」

「……なり下がる……? 違う。終焉を、求める……から…………」

 かざしたエリスの手の平に火球が生み出される。奪われた小太刀の代わりのつもりだろうか。さすがに能力で発生させられたものを素手で取り除くことはシックにもできない。術者自身をどうにかすれば別だが、エリスを傷つけてまで庇うほど価値ある存在ではない、背後にいる男は。

 それでも――


 熱さを無視してエリスの手首をつかむ。

「終焉を求めているのは誰だ?」

 火球が勢いを増す。手首をつかむシックの手を燃やしつくさん勢いで。

 正面から捉えたエリスの表情に感情の色は見られなかった。仮にこれがエリスの復讐心から来る行動なのだとしたら、感情なくそこに立っていられるはずがない。再びエリスから感じ始めたあの禍々しい魔力に、シックは確信を持っていた。

 エリスの手首をつかむ右手から肉の焦げるにおいが漂ってくる。先ほど小太刀の刃をつかんだ左手と言い、両手共にしばらくは使い物にならなくなる覚悟は決めておかなければならない。


「……黄昏が……」

「黄昏の意思が君を動かしているんだな」

 炎の熱で勝手に手から力が抜けないよう、意識的に右手に力を込める。もしかしたらエリスの手首に痕が残るかもしれないが、手を離してしまうよりは良いはずだ。

「エリス、君は誰かに命令されて生きるような女か? 俺の知っているエリスという女は自分の思いに素直に従う自由な女だ」


 確かにシックは見た。音にこそ出さなかったが、エリスの口が“自由”の単語をなぞるのを。

 エリスはエリスだ。

 安心した。やはりそこだけは変わらない。

 微笑みかけてエリスの手を引き寄せる。勢いを失わない炎のことはこの際無視することにした。


 チリーン――……


 耳朶に甲高い鈴の音が届く。警鐘を鳴らすように、何度も。

 思わず顔を上げる。

「呼びかけに意味はない。回りだした歯車は止まることを知らぬ」

 姿は見えない。だけどその鈴の音だけで姿を確認しなくても誰なのかはわかる。アザトだ。

「眠れ。おんしの居場所はまだ完成しておらぬ」

 ひときわ高く鈴が鳴る。


「た……て……」

 かすれて漏れたエリスの声が何を言おうとしていたのか聞き取れなかった。


 ポッと弾けるように火球が消える。

 虚ろに彷徨っていたエリスの碧眼がまぶたの裏に隠れた。くたっと倒れ込んできたエリスの体を抱きとめる。血の流れる左手は使えないので――エリスの体を血で汚したくなかった――焼けただれた右手だけで支えるのはなかなか重労働だった。


「…………護るさ。俺たちが……俺が君を護る」


 意識を失ったエリスの顔を見るのはこれで何度目になるか。数えるのも億劫なほどに、護衛という立場にありながら守りきれていない証拠だ。

 アザトに告げた己への誓いが滑稽と思われても仕方がない。

 右手だけで支えていたエリスの体を地面の上に横たえる。汚れるかもしれないがそこは我慢してもらおう。生粋のお嬢様ではあってもトレジャーハンターなのだからこの程度でうるさく言ったりはしないだろう。

 息をついたところで両手から同時に痛みを訴えられた。

 顔をしかめて両手を見下ろす。左手はロウアーニ邸で負った火傷に加えて刃傷、右手は今すぐ治療しなければまずいほどの火傷。この一日でずいぶんと手に負担をかけたものだ。

 試しに右手を握ってみる。かなり痛い。

 応急処置でもしたいところだったが、今はそれよりも優先すべきことがあった。


 立ち上がって、振り返る。

 男がうずくまっている。全身に火傷を負い、右腕から血を流し、さらに左足――どうやら金属製の義足らしい――が破壊されたリドルが。頼りない呼吸だが辛うじてまだ息はある。シックを見上げてくる眼光にはまだ生きる意思がうかがえた。

 腐っても帝国の大佐を任せられているリドルがここまでの手傷を負っている、そしてそれをしたのがエリスだというその事実。国境の村では抵抗することすらできなかったあのエリスが、である。

 事態はシックが思っている以上に深刻だ。

 黄昏とは――トワイライト・ストーンとは一体なんだというのか。

 浮かぶ疑問を振り払うようにしてシックはかぶりを振った。


 痛む右手を叱咤して剣の柄に手をかける。

 リドルは許しがたい男だ。生かしておけばまたろくでもないことをエリスに仕掛けてくるだろう。エリスに殺させることだけはさせられないが、シックの手で命を奪うことにはいささかの抵抗もない。

 ジスターデ国の末端騎士が帝国の大佐を殺めたとなれば国際問題になりかねないが知ったことか。今優先させなければならないことは何よりもエリスの安全だ。そのためならば手を使い物にならない状態にすることも、その手を血で汚すことも少しも惜しいとは思わなかった。


「リドル大佐、悪いがここで引導を渡させてもらうよ」

 動けないでいるリドルに宣言する。卑劣と罵られたとしても構わなかった。

 睨むリドルに笑みを返して剣の柄を握る。


「待てっ!」

 制止の声はリドル本人の口から発せられたものではなかった。

 思わずぎょっと目を剥いて振り返る。


「手傷を負った者を手にかけようとするとは見下げた下衆め! そこになおれ。その性根、叩き直してくれる!!」

 変な人がいた。

 いや、一概に変と表現するには失礼だったかもしれないが、シックには変としか表現する方法が思いつかなかった。

「…………君は?」

「む? 不躾に名を尋ねるとは礼儀を知らぬ者め! 拙者、名はシュキハと申す」

「そこまで言って名乗るのか」

 思わず素でツッコミを入れてしまってから、相手のペースに飲み込まれていたことに気付いた。思わずこめかみに指を当てる。ひどく痛み始めたような気がした。


 そこにいたのは女だった。それも、ヤマトの女だ。

 高い位置でくくった黒のポニーテール、やや吊りがちな切れ長の黒眼――例外もいるが黒髪黒眼はヤマト人の主たる特徴だ。何より決定的な証拠になったのはその妙な訛りのある独特な口調だった。

 アザトとはまた違ったタイプだが間違いはない――こと女性に関してシックが間違うはずがないという自負もある――はずだ。

 背中に交差させて槍を2本背負っているので、それがはったりでなければ戦闘に関しては積極的に参加するほうなのではないだろうか。いきなり喧嘩を売ってきたことだし。


「これは君の誤解だ。あの男はこの子を誘拐拉致監禁暴行した極悪人だ」

「む?」

 話が通じるかわからないが一応真実を告げて反応をうかがう。

 示されたエリスを見下ろすシュキハとかいう女は言動こそあれだが、その立ち居振る舞いには簡単に見てとれるような隙はなかった。さすがいきなり人に喧嘩を吹っかけてくるだけはある。

 できれば適当なことを吹き込んでさっさと追い返してしまいたい。


「―――――――エリーーーー!!!」


 どう丸めこもうかと思案しているときに、遠くから幼い子供の声が聞こえてきた。見れば、ロウアーニ邸に置いてきたルーダとティッケが揃って駆けてきている。

「シック、エリスは?」

「この通り。暴走しかけていたところをヤマトの人間が何かをしてこうなった」

「暴走って……あ、さっきの炎?」

「ああ」

「怪我は?」

「この子はどこも。俺はこんな感じに手がやばい」

 手短に状況をルーダに説明している間、ティッケは泣きそうな顔でエリスの寝顔を見下ろしていた。時間を置いて少しは落ち着いたのか、ロウアーニ邸で取り乱した様子は見られなかった。

 示した両手を見たルーダがあからさまに気持ち悪そうに後退る。気持ちはわからなくもないのでシックは苦笑を送っておいた。


「……あ。……ヤマトの人ってあの人?」

 黙って突っ立っているシュキハを見つけたらしい。尋ねられて肩をすくめる。彼女についてなんと説明したらいいのかわからなかった。


 突然やってきたルーダに注目されたことに気付いたのか、少し離れた位置からエリスを眺めていたシュキハの鋭利な眼差しが再び戻ってくる。

「仲間か?」

「ああ」

「ヤマトの人間がどうとか言っていたな?」

「ああ。君が来る前にこの子に何かをしていってね」

「何かとは?」

「……幻術か何かにかけられてる、と思う」

 答えたのはティッケだった。

 全員の――リドルは除く――視線が幼いティッケに注がれる。エリスを心配しているだけだと思っていたティッケが、胸に耳を当てていた体を起こすと納得したようにうなずくのが見えた。


「兄ちゃんたち、ちょっと離れてて。たぶんこの方法でエリーを元に戻せる」

「……わかった」


 子供らしからぬ態度に呆気に取られていたシックだったが、不意にかけられた声に遅れて反応を返してその場から2,3歩離れた。

 何をするつもりなのか聞きたかったがその前にティッケは何かをぶつぶつと唱え出してしまった。賢者の血筋に連なるティッケがエリスに何か悪さをするとは思わないのでとりあえずは任せるしかなさそうだ。


「あ、そうだ。これ使ってみる?」

 思い出したように声を上げたルーダを見る。その手にはトランプほどの大きさの真っ白なカードが握られていた。

 発言の意図を図りかねて眉根を寄せる。慌てたようにルーダが口を開いた。

「これはマナチップとかいうカードで治癒の力が込められてるんだ。街で会ったナルっていう魔導師にもらったんだけど――」

「君は俺で得体のしれないものの実験でもするつもりか?」

「えぇ!? そ、そんなつもりは……」

 少しからかうつもりで言ってみただけだったが、ぞんがい衝撃を受けたような反応を示すルーダに笑みを向ける。誰からもらった代物なのかはわからないものを自分の身で試そうという気にはなれないのも本音だった。


 驚くほどになんの絵柄もないただひたすら白いだけのカードから目を離して背後を振り返る。

「あれで試してみるか」

「え? わ!」

 もしかして今まで気付いていなかったのか、うずくまるリドルを見てルーダが声を上げた。

「な、なんでこんな……?」


 その疑問に答える口はつぐんだままにしておいた。

 これはエリスの仕業ではない。エリスを媒介にした黄昏の仕業だ――そう思いたかった。


 ルーダの手の中からカードを奪い取ってリドルの元へ近づく。警戒からかシックを睨むリドルの眼差しに険が増した。

「本当かうそかはわからないが、これには治癒の効果があるらしい。成功確率は五分五分といったところだ。成功したとしてもどんな副作用が働くかも不明だ。使ってみる気はあるか?」

 驚きの白さを誇るカードを掲げ問いかける。不必要な脅し文句を付加したのは単にシックの底意地が悪いだけだ。

 浅い呼吸を繰り返すリドルの目が白いカードを捉える。

「……頼む」

 かすれたリドルの声に不思議と同情心は湧いてこない。底から溢れ出てくるのは冷めた気持ちだけだった。

 それでも一度やると決めたことだ。


「ルーダ、これはどう使うんだ?」

「え? あ、え、えっと……し、知らない」

 まさかの回答に思わず振り返る。気まずそうにルーダが目線を彷徨わせた。

 そうだな、ルーダはそういう男だ――忘れかけていた事実にシックは生温い視線を送ることで心に刻んだ。少しだけルーダが傷ついたように見えるが恐らく気のせいだ。きっと気のせいだ。


 気を取り直すつもりで咳払いをする。

 使い方がわからなければ思いつく限りの方法を試すだけだ。

 とりあえずカードをリドルに向けて掲げる。

 札の類とは違うので患部に塗布するなどという使い方ではないだろう。持っていても効果を発するわけではないので何か発動の合図になるようなものが必要なのだろう。仮にも治癒という効力を有しているらしいのでカードで殴打するとかそういった方法でもないだろう。

 カードを眺めながらひとつひとつありえない可能性をつぶしていく。こうしていけばいずれ正解にたどり着けるはずだ。


「…………効果発動」

 試しに適当なことを言ってみる。


 カードは無反応。が、リドルのほうには変化が起きていた。

 粉砕された金属製の義足はそのままだったが、全身に負った火傷と右腕の傷が逆戻しのようにみるみる再生していく。いきなり正解を引き当てたらしい。

 その効能に目をみはるシックは、だからこそ見逃した。リドルの口元が妖しく歪むのを。


「シック!」


 突如として立ち上がり振り回されたリドルの拳がシックの右肩を殴打する。とっさのことで避けることもできなかった。

「ふん、偽善にまみれたクソ下民どもが。俺を生かしたことを後悔するがいい!」

 片足だけで崖へと向かったリドルが勝ち誇った声で言ってくる。負け犬の遠吠えにも聞こえたが、嘲りを含んだリドルの声には余裕の色もうかがえた。

 駆け寄ってきたルーダを手で制する。殴打された肩は両手に比べればたいした痛みでもなかった。


「詰めが甘いな、俺も。君に情けなどかけなければよかった」

 心底腐り果てた男だ。失念していたわけではないのだが油断はした。

「それで? その状態からどうするつもりだ? 戦うにも逃げるにも君の不利は変わらない。今度は俺も情けはかけない」

 触れた剣の柄を確かめ一気に引き抜く。手にしていたカードは適当に捨てた。

 宣言通り、今度は容赦するつもりはない。国同士の問題も関係ない知ったことか。


 圧倒的に不利なはずのリドルが不敵に笑む。余裕などないはずなのに余裕な態度で笑む。

 もし人を不快にさせる王選手権などという頭のイカレタ競技が存在したら、上位に食い込むことは間違いない。その不快さだけで天下は取れる。


「愚図どもが」

 唾棄するようにリドルがそう口にした。

 瞬間、シックは地を蹴っていた。

 一息に駆け、歪んだ表情を見せるその顔を胴から切り離すべく剣を振るう。思い通りの軌道を描いた剣は寸分違うことなくそのそっ首を叩き落とした。手応えもなく。

 本能的に横へ跳ぶ。

 何かが――靄のような黒い何かがシックの立っていた場所を穿った。


「シック! 大佐の能力はたぶん闇だ!」

 今さら遅い情報をくれるルーダ。


 粉砕された左足以外五体無事な状態をさらすリドルが馬鹿にするように笑った。

 舌打ちしそうになるのを堪える。

 つまらなそうに鼻を鳴らしたリドルはシックに対して追撃をかけるでもなく、そのまま体の向きを変えて――崖から飛び降りた。

 息をのんで駆け寄るよりも先。

 大気を震わせたのは耳をつんざくほどの怪音だった。

 思わず反射的に耳を両手で覆う。

 重量のある何かが風を叩く音と共に、リドルが飛び降りた崖下から黒いシルエットが現れた。巨大な鳥だ。


 ゼロウィング――常は小さなカプセルに封印され持ち運びがされる具象物体である巨大な幻影怪鳥。もっぱら軍事利用されることの多い高速移動が可能な空を駆ける怪鳥。シックの兄が所属していた飛翔騎士団もこのゼロウィングを用いた特殊部隊だ。

 崖下から現れたそれにはリドルが乗っていた。


「受け取れ!」

 呆気に取られるシックを嘲笑うかのようにリドルが半ばから折れ飛んでいる軍刀を投げ放つ。眠るエリスに向かって。


「――っエリス!」


 ここからでは間に合わない。ルーダの位置からでも間に合わない。呪文詠唱を続けるティッケはそもそも気付いていない。

 直線軌道を描く軍刀は吸い込まれるようにしてエリスへと向かう。

 腕を伸ばしても届かない。

 誰かが――恐らくルーダだろう――叫んだ。


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