20 - 枷は外された
悲鳴。
それは一度だけ空気を震わせ、そして静寂を呼び込んだ。
誰もが階上を振り返った。
「エリー? …………じいちゃん?」
幼いティッケの声でシックは我に返った。
詰めていた息を吐き出すとともに足は動き始める。今しがた降りてきたばかりの階段を駆け上がる。
悲鳴に個性などというものがあるとは思えないが、聞こえてきたそれはシックが聞き間違えるはずもなくエリスのものだった。シックが知っている限りでは、屋敷内にあれだけの声量の悲鳴をあげられる人物など他にいない。
腰に吊った剣帯から剣を引き抜き、体当たりをするようにしてエリスが眠っていた部屋のドアを開ける。
「……――っ!!」
異様な光景が広がっていた。
床、壁、そして天井を染める大量の朱。その血だまりの中に転がる塊。車椅子に座す首を失った体。その前で心を放して血まみれで座り込んでいるエリス。
そして、大剣を携えた魔。
シックは駆け出し、魔からエリスを守るように立ちはだかった。
「――君がこれを……?」
聞くまでもないことだ。
靴底から伝わる生温かい粘り気のある感触。鼻をつく血臭。肌寒さすら感じた。
「ギギ……惑わしの伝承者、排除完了」
魔が――人語を解したところを見るに月種――無感情に言葉を発する。
大剣が払われると、飛び散った血糊が新たに壁を汚した。
「惑わしの伝承者? それはロウアーニのことか? 彼をなぜ殺した?」
自分でも無様なくらいにうろたえているのがわかる。
敵にこんな質問をしたところでどうなる。今はそれよりもすべきことがあるはずだ。
頭ではわかっているはずなのに、ままならない。
「すべては……――の総意。邪魔な存在……消す……覚醒を望む、人でも、魔でも……あらず……」
果たしてそれはシックの問いに答えたものだったのか。
重ねて問いを発する前に慌ただしく足音が近づいてくるのが聞こえた。
「じいちゃん! エリー!」
声が部屋に飛び込んでくる。
「見ちゃダメだ!」
遅れてついてきていたルーダがティッケの目を覆い隠す。それは恐らく間に合っていなかっただろう。そもそもこれだけの血のにおいを隠すことはできまい。
「ぁ……あぁ……」
背後からエリスの声が聞こえてくる。
魔から意識を逸らさず目を向けると、座り込んでいたエリスが頭を抱えているのが見えた。
「うわぁあああーーーー!!!! じいちゃんっ! じいちゃんっっ!!」
「ダメだティッケ! 落ち着いて!」
半狂乱に叫び暴れるティッケ。それを押さえつけるルーダ。
あちらはルーダに任せるしかない。一にも先にエリスをこの場から遠ざけることが先決と判断を下すと、隙を見せることになると理解しながらも本能的にシックはエリスの傍にしゃがみ込んでいた。
が――
ゴボリ、血だまりから気泡が生まれ破裂する。
違和感に手を止めたシックの目の前で、じゅっと血だまりが沸騰し蒸発した――エリスの足元からにじみ出すように溢れた黒く紅い魔力によって。
「なん……だ……――?」
状況が飲み込めずにかすれた声がシックの声帯を震わせる。
魔導に関して疎いシックでも、エリスからにじみ出るその魔力が禍々しいと感じられた。
脳裏に蘇る言葉がある。
『暗く澱んだ怨念にも似た陰鬱な影だ』
街中で出会ったヤマトの女アザトの言葉。それはまさに、その魔力を言い表すに相応しいと思えた。
「地獄……を……」
生気の失われたぼんやりとした声が耳に届く。
ハッと息をのんでエリスの顔に視線を向けると、顔を上げたエリスの血走った目と出会った。
「私と同じ地獄を味わえばいい!」
衝撃を受けて尻もちを突く。突き飛ばされたのだと一瞬遅れて気がついた。
堤防が決壊するように禍々しい魔力がエリスから溢れ、魔力が触れた床が腐食するように崩れ始める。
「殺してやる。あいつもリドルもパパもみんな! 地獄に叩き落としてやる!!」
どす黒い憎悪だ。
それは怨念にも似ている。
窓から差し込んでいた陽光が遮断されたような、言い知れない漠然とした感情がシックの胸を支配した。
「エリス!」
名を呼んでもエリスの意識を引くことはできなかった。
血走った目を魔に向けたエリスの手が、後ろ腰に差した小太刀を引き抜かんと動く。半ば反射的にシックはそのエリスの手をつかんでいた。
じゅっと手の平が焼けただれる激痛が走る。
シックは奥歯を噛んだ。
「離しなさい! ――っ離せ!!」
つかんでいるシックの手を振り払おうとエリスが手を振る。離すつもりはなかったのに、痛みから緩んだ手はあっさりとエリスの手から振り払われた。
しかしその程度で引き下がるシックではない。
「君にその感情は似合わない」
微笑を向けてエリスの頬に手を添える。焼けるような痛みで表情が歪まないように、それだけに神経を使った。
エリスの目に動揺が走る。
「じいちゃんっ!! じいちゃーーん!!!」
泣き叫ぶティッケの声にもエリスは動揺の気配を見せた。
泳ぐ目が、シックの背後の魔を捉える。
「あいつがっ――!」
言葉は最後まで形にならず、かくんと力を失ったようにエリスがその場に膝を突いた。溢れていた禍々しい魔力もエリスの勢いに倣うようにしてそのなりを潜めた。
そっとエリスの頭を撫でて振り返る。
経過を見守ってでもいたのか、魔は先ほどと変わらぬ態度でそこにいた。
「…………君たちの王は何を目的としている? この子を傷つけることは本意ではないはずだろう?」
「ギギ…………王は形のみ……魔の意思を決定するは――」
そこまでを口上に乗せた魔の姿がすぅっと透けて消えた。
一瞬のことで何が起きたのかすぐには理解できなかった。
(引いた?)
にわかには信じがたいが、そうとしか思えなかった。
意味深な言葉だけを無責任に放ってあっさりと。
「どういう意味だ? 魔の大将は、バーリハーじゃ……ない……――?」
血の気が引いていくのが自分でもわかった。
魔の王バーリハーと契約を交わしているエリス。たとえ襲われたとしてもエリス自身を心身ともに傷つけるような真似はしないだろう、とどこかで安心していた。
それが、今放たれた魔の言葉で瓦解した。
拳を握りしめる。皮膚の剥がれた手の平が鋭い痛みを訴えてきた。
思い出したように振り返る。
床に手を突いてうなだれているエリスの姿がとても頼りなく見えた。
「エリ――」
「どうしてじいちゃんがこんな――! なんでじいちゃんだけが――!」
呼びかけの声はティッケの声にかき消された。
ルーダの腕を振り切ったティッケが涙でぬれた目をエリスに向けて口を開く。
不意に言葉を思い出した。ヤマトの女の、あの言葉。
『絶望がある』
その言葉は凶器だ。
「エリーもここにいたんだろ! どうしてじいちゃんを護ってくれなかったんだよ!! なんでエリーだけ生き残ったんだよ!!」
ざあっと音が聞こえてくるほどはっきりと、エリスの顔色が青くなるのをシックは見た。
「ティッケ!!」
思わず声を荒げる。
びくりとティッケの体が震えた。
わかっている。ぶつけどころのない怒りの矛先を、まだ年端もいかぬ子供が処理できる道理はない。
「ぁ……――わた、し……」
耳に届くエリスの声は震えていた。か細く。
小さく震えるエリスの肩に手を置こうとしたその刹那、エリスが勢いよく立ち上がった。その勢いを失わぬままエリスが部屋から飛び出していく。
「エリス! 待て!」
慌ててシックも駆け出す。
部屋を出る前にルーダにティッケの傍にいるよう言い置き、頭から浴びたロウアーニの血を拭いもせずに家を飛び出したエリスの後ろ姿を追いかけた。
しばらく駆けてから違和感に気付く。
取り乱しているとは言え相手は女。すぐに追いつけるものと思っていたシックはしかし、どれだけ駆けてもエリスには追いつけず、エリスの背中はどんどんと遠ざかっていった。足にそれほど自信があるわけではないシックではあっても、女の足に追いつけないのはあり得ないことだ。
(どういうことだ?)
冷静であろうとするシックを嘲笑うように疑問は膨らんだ。
チリーン――……
大気を裂いて音が耳朶を叩いたのはそのときだ。
足を止めたシックは、行く手を阻むように立つ女を見つけた。街の入口で出会ったヤマトの女アザトだ。
「君は……」
「枷は外された。災いは暴走を始める」
脳裏に蘇る先ほどのエリスの異様な状態。
皮膚のただれた左手がうずく。
「君は何を知ってる? あれは……あの子に何が起きた? ロウアーニの死が関連しているのか?」
重ねる問いにアザトがゆるゆると首を振る。
遠ざかっていくエリスを気にしながらも、シックはその場から動けないでいた。
「おんしが知る必要はない。災いは我らヤマトが取り除く」
「――っ! ……ふざけるな」
一瞬のうちに沸点を超えた感情に流されまいと、奥歯を噛みしめながら声を絞り出す。彼女に対して怒りをぶつけたところで意味はない。冷静であることは騎士として重要なスキルだった。
「用件がないのならどいてくれ。傷心中の女性は口説き落とす絶好のチャンスなんでね」
平常心を保つために軽口を叩く。
アザトが特に何を言い返してくることはなかったが、手の中の鈴を鳴らして横に半歩ずれてくれた。
「おんしが侍っておる不吉の名はなんという」
「…………君が知る必要はない」
仕返しのつもりでアザトに放たれた言葉そのままを返す。
「……さらなる最悪が起きるぞや。賢者の死は序の口に過ぎぬ」
怯んだのか――だとしたら少しくらいはかわいげがあるようだ――わずかな沈黙を挟んでからアザトが告げてくる。
シックは軽く肩をすくめて鼻で笑った。
「最悪を防ぐために俺がいる」
しかとアザトの――笠に隠された――目を見て告げる。
これだけははっきりと告げなければ――いや、告げたいと思った。
「あの子を護ると約束した。君があの子に危害を加えると言うなら全力で対抗させてもらうよ」
甲高く鈴が鳴る。
それがこれ以上の会話の拒絶を意味しているのかはわからなかったが、シックにとってもそれはちょうどいいきっかけだった。
既に姿の見えなくなったエリスを追って駆けだす。
行く先には荘厳にそびえるホロワ山脈が見えた。




