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0 - 死から始まる

プロローグのみ主人公以外の視点となります。

(助けてっ!)


 声にならない悲鳴が脳内で弾けた。

 誰に対して助けを求めたのかはわからない。脳裏に浮かんだ人物を特定するだけの冷静さは既に彼女の中で失われていた。

 走る。

 逃げる。

 恐怖心にかられた心のままに彼女はただ駆けた。

 下手な呼吸。乱れた足音。

 通り過ぎていく音の後を追いかけてくる音。近づいてくる。追いつかれる。


(いやっ! 誰か助けて!!)

 悲鳴はやはり声帯を震わすことなく脳内で弾ける。

 夢中で駆けた先に光が見えた。通路を支配する薄暗い闇を圧す太陽の光。

 彼女は最後の力を振り絞るつもりで地面を強く蹴った。


 ※ ※ ※ ※ ※


 膨れ上がった炎はひとりの男を抱き込んで急速に勢いを増した。悲鳴を上げるヒマすらなかったのだろう、男の断末魔は聞こえてこなかった。

 舞う火の粉が触れるだけで皮膚がただれるのではないか。

 そんなありもしない妄想に体は震えた。


「もういいかーい?」


 炎の中で化け物が笑う。嗤う。嘲笑う。

 熱に浮かされた脳みそが沸騰するほどの激情に襲われた。それはもはや狂気と言ってもいい。


「おのれ化け物!」

 別の男が飛び出す。抜き身の剣が惨状の中で滑稽に躍った。


 燃える。燃え上がる。

 もはや麻痺した嗅覚は、それでも生きたまま焼かれる生き物の最期のにおいを嗅ぎ取っていた。実に愉しそうに笑う化け物が目の前にいる状況では、それを不快だと思う余裕すらない。


「化け物ぉ? ……あは、オルフェ化け物なんだ?」


 後退る。

 喜悦に歪んだ化け物の表情は形容しがたい醜悪さをさらしていた。愛嬌のある女性の顔だからこそ、無邪気な邪悪さに彩られた微笑が余計に醜悪に際立った。


 周囲を炎に囲まれたそこから、いや、目の前の化け物から逃げ出す道を探す。視界から化け物の姿が消えようとも、逃げ道を探すことのほうが重要だった。


「かくれんぼの次はおにごっこ? やぁん、オルフェからは逃げられないって知ってるくせにぃ。ねぇ、シアちゃん?」

「黙れ化け物!」

 剣を突きつけ怒鳴る男もまた、瞬く間に炎に包まれてただ焼ける肉塊へと変貌した。化け物はその男に一瞥すらも向けない。


 ――知っている。ああ、知っているとも。


 沸き起こる激情は激しさを増しているようですらあった。

 その激情が、音を得て形になった言葉として声帯を震わせる。


「太陽は燃えているか?」


 ※ ※ ※ ※ ※


「なん、で――」


 かすれた嘆きが彼女の口から零れ落ちる。

 嘲笑は満足そうに鳴り響いた。

「縄梯子は不注意で切り落としてしまった。実に不運だったな」

 愉悦に歪んだ男の声が鼓膜を犯す。


 崖の中腹で口を広げた洞窟の入り口――彼女は絶望的な感情に心を喰われた。崖上から垂れる縄梯子がなければ、この場から逃れる道はどこにもない。

 がくがくと足が震えた。

 振り返るのが怖い。だけど、振り返らないのも怖い。


「さぁ、遊びの時間は終わりだ」

 せり上がってくる恐怖心を悲鳴として開放したいのに、それもできない。のどの筋肉が満足に動いてくれる気配がなかった。

 振り返る視線の先に男の姿。鍛え上げられたその巨躯に、ほんの少し前までは安心感まで覚えていたというのに、今は恐怖の対象でしかない。


「ゃ……や、め――……」

 震える唇からか細く声が漏れる。

 男は満足そうに微笑んだ。慈悲など微塵も感じさせない歪んだ微笑。

 つ、と目の端から涙が流れた。


「【それ】を渡してもらおうか。素直に差し出せば悪いようにはしない」

 優しい声で男は言う。

 今ならわかる。それが偽りの優しさであることが。


 震えるようにして彼女は首を横に振った。

 男の顔に浮かんでいた微笑が消える。すくんだ足で、それでも逃げるように彼女は後退した。

 怖い。

 過呼吸気味に呼吸をしなければ酸欠で倒れてしまいそうだった。


「実に残念だ。お前はなかなか利用価値のある女だったのに」

 言われた言葉の意味。男が軍刀を引き抜いた後に、理解した。


 殺される――違和感もなく、一寸先の未来を予見した。


 背後は切り立った崖、左右は壁、前方は軍刀を携えた男。

 逃げ場がどこにもない。男に対抗できるだけの力も彼女にはない。誰にも知らせずに来たこの場所に、助けが来るはずもない。


 男が一歩近づく。

 震えるだけで何もできない彼女の右肩に、男の左手が置かれた。

「死ね」

 痛い、とかではない。それはただの衝撃だった。


 ※ ※ ※ ※ ※


 化け物が目を細める。形は笑み、本質は真逆。

 肌が粟立った。

 まだ生き残っている男たちの息を呑む音すら聞き取れる。


 神に愛されすぎたその化け物は笑った。嗤った。嘲笑った。ただただ狂ったように。


「いずれ燃やし尽くす。太陽神様がそれを――」

 化け物の口上は最後まで聞かなかった。

 新たに2人。男たちが飛び出したのに合わせて踵を返す。


「ここは我々が!」

 男たちの無謀な声を背中に炎に包まれた廊下を駆け抜けた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 腹部を異物が通り過ぎていく感触。圧迫されたような違和感だけがただあった。

 じわじわと体外に排出されていく液体が服を赤黒く染める。お気に入りだったのに、なんて場違いに考える自分がいた。

 腹部から軍刀が引き抜かれる。それに引きずられるようにして彼女は前方に体を投げ出した。握りこんでいた右手から【それ】が転がり落ちる音が耳に届く。

 むき出しの地面にしたたかに顔面をぶつけたのに、痛みは感じなかった。


「ふん、余計な手間をかけさせおって。初めから素直に【それ】を渡しておけば可愛がってやったというのに」

 鼻先に男の靴が見える。急速に近づいてきたと思ったら、顔面に衝撃が走った。

 蹴られたのだと遅れて気が付いた。

 ひどい男だ。この場所にたどり着くまでは優しく体を気遣ってくれていたのに。女性の顔面に蹴りを加えられるような非道な人種だったなんて、疑いもしなかったのに。


 男の足音が遠ざかっていく。

 悔しくて堪らなかった。


 彼女は死ぬ。

 25年という長くもない人生に終止符を打つ。

 それはもちろん彼女が望んだことではなかった。仕組まれたことと言われれば確かにそれは仕組まれたことだったのかもしれない。

 浅い呼吸を繰り返す彼女の口から声が漏れる。

 形にはならなかった。


 ※ ※ ※ ※ ※


 もはや逃げ場はない。

 化け物に引きずり倒された状態で、それでも逃げることを考えた。逃げ場がここになくても、逃げ切ることが最重要課題なのだから。


「ざぁんねんでしたぁ。シアちゃんの命はここでおっしまーい」

 嬉々とした声で化け物が笑ったとしても何も感じることはなかった。どんな侮蔑の言葉を投げられたとしても痛くも痒くもない。逃げ切れたのならばそれがすなわち勝利なのだから。


「華は咲かない。太陽は昇らない」


 不吉を囁く化け物を睨みすえる。化け物の手が腹に触れた。

「やっ――!」

 のどの奥から初めて悲鳴がもれた。

 膨らんだ腹、そこには別の命が宿っている。愛されるために生まれてくるはずの命が。


 叫んだ。息の続く限り叫んだ。

 化け物は笑った。嗤った。嘲笑った。


 ※ ※ ※ ※ ※


 目の端から涙があふれ出す。

 ――ああ、死ぬのだ。

 その事実を受け止めてしまったことに彼女は落胆を覚えた。

 諦めたくないのに、諦めざるを得ない状況に立たされてしまった。浅はかな行動による罰がこれなのだとしたら、あまりにもひどすぎる。鼓動を止めなくてはならないような決断をしてしまったのか、今の彼女には判断がつけられなかった。


 右手に力を込める。感覚はほとんどなかったが、爪の間にざりざりと砂が入り込んでくるのだけはわかった。

 ――無駄な抵抗だ。何をしたとしても結果は変わらない。

 頭ではわかっていても抗うことをやめることはできなかった。


 まだ死にたくない。

 死にたくない。


 視界が白くかすむのは涙のせいなのだと信じたかった。

 地面に横たわる彼女の目に映ったのは、月に覆われていく太陽。


 死にたくない。


 それだけを呪詛のように繰り返して。

 心臓の止まる音を、彼女は最後に聞いた。



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