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14 - 触れられない

 結局のところ、覚悟が足りていないのはルーダだけだったのかもしれない。

 ホバーで砂漠を行く間中、ルーダはずっとそう感じていた。


 酒場から監獄へと連行される前と同じように振る舞っているエリスだが、精神的にはまだまだ立ち直れてはいないはずだ。いくらトレジャーハンターだとしても、帝国の軍人から受けた拷問の記憶はエリスの心に深く傷を付けている。

 それなのにルーダたちに心配をかけまいと気丈に振る舞っているエリスはとても強い人だと思った。

 もっとも、落ち込んだ様子を見せずに済んでいるのはシックのおかげでもある。軽口を叩いて笑わせて、また軽口を叩いて怒らせて、さらに軽口を叩いて拗ねさせて、落ち込む以外の表情をエリスから引き出している。


 シックはすごい人だ。

 どんな状況に直面しても慌てず騒がず冷静に対処する。


 それに比べてルーダはどうだろう。

 予想外の出来事に直面すれば思考を停止させて対応に遅れ、救出したエリスをまるで腫れ物でも扱うかのように気を使いすぎていつも通りに接することもできない。それどころか、答えの出ない疑問ばかりが頭の中で渦を巻いて2人の会話に参加することもできないでいた。


 どんな事態に陥ったとしても、黄昏を手に入れるためならば耐えられると思っていた。

 今はただこの場から逃れたい気持ちで息が詰まるほどだ。

 覚悟が足りていなかった。そういうことなのだろう。


「――そろそろ着くわ」

 ネガティブ思考真っ最中のルーダの耳にエリスの声が届く。


 肌を叩いていた風の強さが優しくなってきたのに気付いてから暫くして、ホバーが緩やかにその動きを止めた。

 身を乗り出すルーダの目に、一軒家程度の大きさの小屋が飛び込んでくる。木造の小屋ではあったが、見た限りでは造りはしっかりしており、また新築ではないことを感じさせる年季を感じさせた。


 ホバーから降りたエリスが小屋を前にして2人を振り返る。

「隠者の隠れ家にようこそ。歓迎するわ」

 両手を広げて堂々宣言するエリス。


 しかし、ルーダの頭に浮かんだのは疑問符だけだった。それはシックも同じだったのだろう。唸るようにしてシックが疑問を口にした。

「隠者とは誰だ?」

 ストレートな問いにキョトンとエリスが瞬いた。


「誰って…………あ、そっか。言ってなかったか。隠者は私やラドにとってトレジャーハンターの師匠で、冒険家にとって尊崇の対象なの」

「へぇ。その師匠の隠れ家がここってことか?」

「ん~……立ち位置としては冒険家のために用意された宿泊施設かしら。ここだけじゃなくて他のところにもあるから」

 ホバーを降りるシックに続いてホバーを降りる。小屋のドアを開けるエリスが手招きするのに誘導されて小屋へと近づいていく。


 パチン、とエリスが指を鳴らした。

 疑問に思う暇もなく、背後で爆発音が轟く。慌てて振り返れば、先ほどまで乗っていたホバーが轟々と音を立てて炎上していた。

 エリスの魔導によるものだと悟ったときには既にエリス――とシック――は小屋に入った後だった。いきなりの行動に戸惑うルーダだけが取り残されたような心地で、仕方なくルーダも2人を追って小屋の中へと入る。パタンとドアを閉めれば炎上しているホバーも見えなくなった――外では変わらず炎上しているだろうが、燃やした本人がノーリアクションなのだからルーダひとりが騒いでも意味があるとは思えない。


 小屋の中はシンプルな造りになっていた。

 右奥にキッチン付きカウンターバー、左奥にシングルベッドがふたつ、その手前にはソファーとガラス製のテーブルが供えられたリビング、玄関脇には雑記帳が置かれたボード、中央奥にはドアが見えるのでもしかしたらまだ奥に部屋があるのかもしれない。


「あ、あいつ2週間前にここ来てるじゃない」

 玄関脇の雑記帳に何かを書き込んでいたエリスが小さくつぶやく声が聞こえてくる。隠者の隠れ家と呼ばれるほどなのだから、利用する際には何か必要な手続きでもあるのかもしれない。

 想像よりも小洒落た内装に気後れするルーダをよそに、シックはカウンターバーの中に入っていろいろと物色していた。胆の据わり方が根本的にルーダと違いすぎる。

 雑記帳に何かを記入し終えたエリスもシックの様子を見て呆れたように肩をすくめていた。


「あんたも遠慮なくくつろいで」

 促すようにエリスが言う。

 曖昧にうなずいて中に入っていくが、気後れが薄くなることはなかった。


「シック~」


 ぎょっと目を剥く。

 それは確かにエリスの声だった。ついぞ聞いたことのない、語尾にハートマークが突きそうな甘さを伴った。

 カウンターバーの中を漁っていたシックがひょこりと顔を覗かせる。上機嫌なエリスの声に応えるように、そのルックスを裏切らない甘い微笑を浮かべた。


「どうしたんだい? 寂しいならいつでも可愛がってあげるよ、ベッドの中で」

 いつも通りの軽口を叩きながら、カウンターバーの中を漁った結果見つけたと思われる酒瓶をカウンターテーブルの上に置くシック。そういうことを言うとまたエリスから冷めきった視線を向けられるとわかっているくせに、本当に懲りない人だ、シックという人物は。

 が、そんなルーダの予想を裏切ったのはエリス自身だった。


 ふっふっふ、と妖しい笑い声をもらしながらシックと入れ替わるようにしてカウンターバーの中へと入っていく。

 グラスを2つ用意しているシックも興味深そうにエリスの行動を見守っていたが、ほどなくしてエリスが一本の酒瓶を手にカウンターバーから顔を覗かせた。


「ジャーン! 口当たりの良さで卒倒者を多数だし、一時期発売中止にまで追い込まれた幻の銘酒『閻魔殺し』」


 発掘した拾得物を自慢するようにドン、とカウンターの上に置き、エリス。ニコニコと笑ってシックに顔を近づけた。

「隠者秘蔵の一品。朝まで付き合ってくれれば飲ませてあげるわよ」

 顔は笑っていても、シックを見据えるエリスの目は挑戦的な色を宿していた。

 未成年のルーダには酒の銘柄などわかりようもないが、シックの顔にはありありと驚愕の表情が浮かんでいた。エリスが卒倒した酒場や監獄でもそんな表情を見せなかったのに。


「……本物か?」

「隠者自身が自慢してたもの。本物よ」


 疑うようなシックの眼差しが笑みに変わった。

 用意していたグラスの内ひとつをエリスに差しだし、先ほどと同じく甘い微笑を浮かべる。

「では朝まで付き合わせてもらうよ。元よりイイ女の酌を断る機能は俺に搭載されていない」

 得意の軽口も今回ばかりはエリスも受け流さなかった。


 そういえば、と思い出す。

 国境の村でも飲み比べをしようとしていたほどなのだ。酒が好きなのかもしれない。しかも一人酒ではなく、複数人で飲むのがだ。


 シックが差し出すグラスの中に透明の液体が注がれる。透明度の高い液体だった。途端に鼻を突くのはアルコールのにおい。

 グラスに注がれた液体を照明の光にかざすシックの目は、どこかうっとりしているようにも見えた。

 シックがそうしている間にカウンターから出てきたエリスが椅子に座る。グラスの中身を存分に観察したシックもカウンターを回ってエリスの横に座った。

 お返しをするように今度はシックの手からエリスのグラスに酒が注がれる。


「ひと時の休息に、乾杯」

「乾杯」

 チン、と音を立ててグラスが合わさる。

 グラスを口に運ぶ2人の姿は、うまく表現できないがとても大人に見えた。


「…――さすが幻の銘酒と言われるほどだ」

 感嘆の息を吐くと共にシックが感想を述べる。

 が、何かに気づいたようにエリスに顔を向けると、酒瓶にいちべつを向けて眉根を寄せた。


「こんな貴重なものを勝手に飲んで良かったのか?」

「いいのいいの。黄昏ゲットの前祝いと思って」

「それはまた随分と早い前祝いだと思うが……まぁいいか」

 再度グラスを光にかざすシックの横顔は柔らかく綻んでいた。それだけその酒を飲めたことが嬉しかったということだろうか。


 くぅ、と腹が鳴いた。2人が飲んでいる姿を見て体が空腹を思い出したらしい。ルーダは呆然と立ったままだった体をカウンターバー内のキッチンへと運んだ。


「ねぇ、ルーダ」

 保冷庫の中身を確認しているルーダに声がかかる。

 腐っていない肉の塊を手に顔を上げると、頬杖を突いているエリスと目が合った。大人だなと思った直後ともあって、妙な色気を感じてドキリとした。


「男装似合うと思う?」

「はぁ?」

 つい素っ頓狂な声を上げてしまった。が、エリスの発言に合点がいくのも早かった。

 国境の村の酒場でも確かにそんな話をしていたはずだ。会話の途中でラドが乱入してきて直後に帝国に連行されたから途切れてしまっていたが、今後も帝国内で活動するなら変装は必須だと言える。


「そうだなぁ~……」

「いや、ここは逆に実家で過ごす服装にしたらどうだ?」

 横から提案をするシックに2人の視線が集まる。とりわけ、エリスの表情には驚きが含まれていた。

「なんで?」

「バードランド家の一人娘なんだろ? 普段着もドレスなんじゃないのか?」

「まぁそうだけど」

 戸惑っているのが伝わってくる。


「それにルーダが見たことあるのに俺が見ていないのはずるい」

「は?」

 ついでのように付け足されたシックの言い分に、一気にエリスの顔に胡乱な表情が浮かんだ。


「パーティー衣装と普段着は違うと思うけど」

「なんであんたが私のパーティー衣装なんて見たことあるのよ」

「え、あ、だって、屋敷に勤めてるときに給仕の仕事してたから。そのときに見た」

 くるりと丸まるエリスの目。だけどそれは次第に戸惑うように宙を彷徨うようになる。

 首を傾げるルーダとは逆に、楽しそうにシックが喉の奥でクックッと笑った。


「恥ずかしがる君もカワイイな」

 飛んだ裏拳をシックは難なく受け止めた。

 そんな2人に放置された心地を味わいつつ、ルーダはますます首を傾げるのみだった。腑に落ちない。


「あんなに綺麗だったのになんで恥ずかしがるの?」

 じろりとルーダを見るエリスの目は睨んでいるようでありながら、なぜかあまり迫力はなかった。シックの言葉を借りるならば、恥ずかしがっているから、なのだろうか。

 戸惑うルーダを見て、何かを観念したようにかくんとエリスの頭が垂れた。


「恥ずかしいに決まってるじゃないー。別に昔の私がイヤってわけじゃないのよ? 好きよ。昔も今も。私は私なわけだから。でも今の私と比べるとほら、なんかいろいろあれじゃない? あんたらの反応想像するだけでイヤなのよー」

 頭を抱えて言い訳を連ねるエリス。

 ニヤニヤしているシックがご満悦そうだったので、助け船を出そうとルーダはとっさに口を開いた。


「ドレスなんて用意できないんだし、やっぱりここは男装でいいんじゃないかな?」

 のそりとエリスが顔を上げる。顔は不満そうではあっても苦い表情はなかった。代わりにシックがつまらなそうに首を慣らしたが、こちらは無視することに決めている。


 ルーダが保冷庫から取り出した肉の塊――恐らく牛肉だと思うが確信は持てない――を包丁で適度な大きさに切り分ける間、また益体も付かないような雑談をするエリスとシック。それを横目に眺めながら、そしてセクハラ紛いのちょっかいをかけるシックをいなすエリスに同情しながら、ルーダは当たり前のように玄関ドアを開けて小屋に入ってきた人物と目を合わせた。


「やっほー」

 脈略のない登場の仕方をした人物が片手を上げて間の抜けた挨拶をする。

 肩に手を回そうとして手を叩き落とされていたシックが珍しく意表を突かれたように固まり、お酒のお代りを手酌でグラスに注ぐエリスは呆れたように肩をすくませ、包丁を持ったまま口を半開きにしたルーダはその人物の名前を呼んだ。


「ラド?」

 小屋に入ってきたのはラドだった。誰もホバーから運び出さなかったラドだった。皆が存在を忘れていたラドだった。

 なぜかパンパンに膨れ上がった旅行かばんを持っている。どこにそんなものを隠し持っていたのだろう。


「危うく燃え尽きるところだったよー」

 曇りなき笑顔を浮かべたまま入ってきたラド。誰からも忘れさられ、あまつさえホバー共々燃やされかけたというのに文句のひとつも言わずに。

「じゃあエリスさん、いったん帰るね」

「ええ、また何かあったら呼び出すわ」

「はーい」


「待て」


 一連のラドとエリスのやり取りを静観していたシックが声を上げる。

「何よ」

「まさか今から来た道を戻るつもりか?」

 言ってシックが窓の外へと目をやる。射し込んでくるのは橙色に染まる西日。時刻は既に黄昏時を迎えていた。


 エリスとラドが目を合わせる。

「最初に説明してなかったかしら。ラドは任意の空間と空間を繋げる力を持ってるの」

「簡単に言えば空間渡航だね。これもさっき国境の村に戻って持ってきたんだよ」

 手にしていた旅行かばんを床に置いて、ラド。

 なんでもない風に説明する2人に、納得したのはシック、驚いたのはルーダだった。


 空間に作用する魔導というのは聞いたことがある。後天的に習得することは難しく――大抵の人は先天魔導しか磨かないからでもあるが――、世界でも空間に作用する魔導を扱える者はごくごく少数だという。その少数の中に人畜無害そのもののラドが含まれるなんて、という思いが強かった。ニコニコと人当たりよく笑う能天気そうなラドが特に自慢するでもなく言うものだから、余計に信じられなかった。

 同時に羨ましいとも思う。それは習得しようとしても習得できなかった魔導のひとつだ。

 ラドには失礼かもしれないが、どう見ても努力して魔導を習得しようというタイプではないので、恐らくは空間に作用する魔導は先天的に備わった才能なのだろう。努力せずに空間に作用する魔導を扱えるラドがとても羨ましかった。


「ならその力でさっさと目的地に行けばいいんじゃないのか?」

 エリスとラドが再び目を合わせる。

「ラドは一度行ったことのある場所か、私がいる場所にしか行けないの」

「君のいる場所?」

「エリスさんの魔力を追尾してるからわかるんだ。世界の裏側にいたとしてもエリスさんのとこにすぐに駆け付けられるよ」


 自慢するように胸を叩いてラドが言う。

 これも聞いたことがある。特定の人物の魔力を追尾する技術は魔導師でなくても、それなりに練習をすればあまり苦労することなく習得できる。ルーダ自身は試したことはないが、魔導の制御力を磨く初歩的な練習にもなるという話だ。熟達者ならば複数人の魔力を追尾しておくことができるとか。


「それを使えば監獄で暴れずともすぐに逃げられたんじゃないか?」

「あ」

 今さら気付きましたとばかりにラドの笑顔にひびが入った。

 油をさしていないブリキのように、ぎこちなく首を動かしたラドがエリスを見る。と思った瞬間、その場にがばっと跪いた。


「ごめんさいっ!!」


 見事なまでの土下座である。ここまで躊躇なく本気で土下座をできる人は初めて見た。

 エリスのほうは特になんの感慨も受けた様子もなくひらひらと手を振っただけだったが、すぐに立ち上がったラドも既にケロッとした顔をしていたので彼らの間では土下座は普通に行われる行事なのかもしれない。


「エリスさん、帰る前に裏寄ってもいい?」

「…………好きになさい。刺激すんじゃないわよ」

「うん!」

 パタパタと軽い足音を残してラドが奥へと駆けていく。カウンターバーの中から身を乗り出すと、小屋の入口から奥に見えていたドアがちょうど閉まるのが見えた。


「なんだ?」

「裏庭に行ったのよ。井戸の近くにル・サルカが棲み付いてるから」

「ル・サルカって?」

「下弦魔よ」

 驚いて振り返る。

 説明を求めるような視線をエリスに向けると、面倒くさそうにため息を吐かれた。


「魔とは言ってもおとなしいやつでね、近づいたりしない限りはあっちから襲ってくることはないのよ。だからラドが見に行ったとしても特に危険はないの」

「どうして魔なんて見に?」

「ル・サルカは実体を持たない特殊な魔なの。正確に魔なのかどうかはわからないらしいけど。女性の怨念が半実体化しただけじゃないかとも言われてる。ル・サルカは見た人が心に強く想う女性の姿を見せるから」


 どうしてかはわからないが、ドキッとした。

 自分でも動揺しているのがわかる。


「会いたいような会いたくないような魔だな。つまりそいつを見れば俺が誰に惚れているのかがわかると」

「親兄弟が見える場合もあるから一概に惚れてる相手とは言えないけど」

「ちなみに君は会ったのか?」

 回答を拒否するようにエリスが手を振る。

 またそれが自然な流れであるようにエリスとシックがじゃれ合うような会話を始めるのを聞きつつ、ルーダはラドが向かった小屋の奥――裏庭に通じるドアを見やった。


 心に強く想う女性の姿を見せる魔ル・サルカ。

 甘い誘惑だった。


 振り返ってエリスとシックを見る。お酒に関するうんちくを互いに披露しあっていた。

 今なら気付かれずにラドの後を追えるかもしれない。

 こくんと喉を鳴らす。

 意を決して、ルーダはカウンターバーから裏庭に繋がるドアへと向かった。

 ドアノブに手をかけ、振り返る。ラドが運んできた旅行かばんを漁り始めているエリスとシックはルーダの動きには気づいていないようだった。


(……もう一度、あなたに逢えるなら…―――)


 ドアノブを回す。

 ひやりとした夜の冷気が首元をかすめた。

 きゅっと唇を引き結んで外へと足を踏み出す。探すでもなく、ラドの姿はすぐに見つかった。

 後ろ手にドアを閉め、壁に沿ってドアから2,3歩離れる。

 ラドの後姿が邪魔をしてル・サルカとかいう魔の姿を確認することはできなかった。風に乗ってラドの声が聞こえてくるのみ。


「――――……エリシアナお嬢様、貴女の行動は間違いだらけですが、僕は最後まで貴女を止めることはしません。シンシアーナ様との約束ですから」


 軽いノリを一貫として通すラドの声とは思えないほど、その声には悔恨の念が濃く現れていた。深い哀しみに染まっている――ルーダがそう感じただけで本当は別の感情を伴って吐かれた言葉である可能性もあるが、ルーダにはそう聞こえた。

 エリシアナ、とはエリスのフルネームだ。お嬢様と呼んでいるので、本当にエリスの屋敷に仕えていた使用人なのだろう。


 突っ立っていただけだったラドがその場に跪く。

「シンシアーナ様、どうかこれからもお嬢様をお守りください」

 その言葉が言い終わらぬうちにラドの背後の空間がぐにゃりと歪んだ。目をみはるルーダをよそに、歪んだ空間に吸い込まれるようにしてラドの姿が消えていく。

 時間を置いてからそれがラドの魔導だったとわかった。


 静けさが耳に突く。

 かすかに震える指先を握り込み、ルーダは壁から離れた。

 ラドが対峙していた井戸へと歩み寄る。

 井戸の周りには誰の姿も見えなかった。人の姿はおろか、魔の姿すらない。

 足を止めて周囲を見渡す。

 知らず指先は胸元に向かう。服の下に隠したペンダントに指先が触れると、まるでそれから勇気がもらえるような気がした。


「――…………イレーヌ…」

 呼びかけの声は我ながら情けないと思えるほど震えていた。


 舌先で唇を湿らす。乾いた喉に唾を送り込む行為さえ意識的に行わなければできなかった。

 井戸の淵にポッと光がともる。あ、と声を漏らす間もなく、光はぐるぐると回りながら大きくなり、やがて一人の女性の姿を形作った。

 息を呑む。足がすくんだ。

 忘れようと考えることすらできなかったその人が――こげ茶の長い髪を中頃で結び、青いエプロンドレス姿のイレーヌが、あの頃と変わらぬ笑顔でルーダに笑いかけてくれている。

 変わらない。何も変わらない。あの頃と何も。

 食堂で忙しく働きまわっていたイレーヌその人が、そこにいる。

 あちら側の風景がかすかに透けて見える体だとしても、イレーヌであることに間違いはなかった。


「イレーヌ……―――」


 自然と手を伸ばしていた。

 微笑むイレーヌは伸ばしたルーダの手に応えることなく、ただ柔らかく微笑んでくるりと舞うように身を翻る。共に踊ることを誘うように微笑を向けて、エプロンドレスの端を風に踊らせる。

 脳内で彼女の笑い声が聞こえてくるようで、ルーダの目の端から涙がこぼれた。


「ごめん……ごめんなさい……」

 流れ落ちていく涙と同じく、ぽろぽろと剥がれ落ちていくように謝罪の言葉が口から溢れ出る。謝ることしかルーダには考えられなかった。

 イレーヌは微笑むだけ。情けなく泣くルーダを見ても、優しく微笑んで舞う。


 最後に聞いた彼女の言葉はなんだったろう。

 思いだそうとしても心がそれを拒絶する。


「あなたを見捨てて逃げたあの日から、……10年以上が過ぎた。あの時と変わらずにずっと逃げてばかりだけど…………」

 力のこもる拳が震えた。

 垂れる鼻水を勢いよくすすり顔を上げる。


「必ず黄昏を手に入れるから」


 ただ微笑み舞っていたイレーヌがその動きを止めた。緩く首を傾げるように頭を傾ける。とぼけているような愛嬌のあるその仕草に、ルーダの顔もくしゃりと歪んだ。

 笑顔と呼ぶにはあまりにも情けない顔だったろうが、それでもイレーヌはそんなルーダを見て安心したように微笑んだ。

 風に乗って飛ぶようにイレーヌの体がくるりと回る。

 井戸の淵をなぞるように移動したイレーヌの姿はそのまま風に溶けるようにして消えていった。


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