後日談2 - 泥沼
とあるヤマトの女と兄妹の話。
真っ赤に色付いた庭の木を、見るともなしに見ているときにそれらは来た。
来客の予定はなかったはずだが、彼ら――というか彼だが――は事前通告という面倒な手順は踏まない。いつだって突然やってきて突然帰っていく。
世間一般では傍迷惑でしかないことだが、彼女にとってはそうでもなかった。
開け放していた窓をそのままに、白湯の用意をする。煎茶を彼は好まないからだ。
乱暴に玄関のガラス戸が開かれる音が届く。
バタバタと廊下を一直線に駆けぬけてきた彼は、閉じた襖の向こうから声をかけることなく一息に襖を開け放った。
「匿ってくれ!!」
開口一番彼は叫ぶ。
「恥を知れ! 嫁入り前の女子の部屋に無断で入る不届き者めが!」
彼の背後から伸びた腕が彼を引きずり倒す。襖を開けた姿勢で固まっていた彼は、ぐぇと短く呻いて潰れた。
「おめぇふざけんな! ンな細けぇことを気にしてる場合か!」
「場合ではないが鬱憤のはけ口が欲しかった」
「歯ぁ食いしばれ!」
じゃれる――と言ったら彼らは怒るだろうが――2人を見やりながら小首を傾げる。
家人を無視した彼らのやり取りを微笑ましく見守っていてあげるべきか。喧嘩の仲裁をして訪問の理由を尋ねるべきか。
彼女が選んだのは前者だった。
黄昏の戦争と呼ばれる大戦が終わりヤマトに戻ってきた2人は、いろいろ多忙すぎてのん気に喧嘩をしている暇もなかったに違いない。あれからまだ2年半ほどしか経っていないが、ようやく落ち着いたのだろう。
平和だからこそできることがある。
小さな子ども同士が戯れるようなヌルい喧嘩を繰り広げる2人を微笑ましく見守る。
折れたのは彼が最初だった。
「止めろよ!」
折れたと言うかキレた言うか。
文句を言ってくる彼に、きょとんとした視線を返す。彼は居心地が悪そうにすぐに視線を逸らした。
そういう人である。
「突然の訪問申し訳ない」
彼に代わって謝罪の言葉を口にしたのは彼の妹だった。
女性ながらによく鍛えられたしなやかな筋肉と、失われた片腕が嫌でも目立つ。
「ンなことより大変だ!」
「あの人にまた悪さしやったん?」
彼が言葉を詰まらせた。図星だったらしい。
懲りない人だ。毎回思うのだが、敵わないとわかっていながらなぜ彼は定期的に何かしらしでかすのだろうか。
騒ぎながら彼がやってきて、そしてただで済んだことは一度もない。
「オロとアザトの兄妹仲を修復しようと企んだがあっさりばれてしまってな」
「そらやぶ蛇やんな」
「拙者もそう思う」
あの人の兄弟仲、そして兄妹仲は壊滅的だ。親子仲すら壊滅的なのに、今さら他人が手を出してどうにかできる関係ではないと思う。
彼女は立場上、あの人の家族と関わることが多いはずなのだが、あの人が裏から手を回して極力彼女が彼らと関わらなくても良いようにしてくれていた。
それが彼女のためなどではないのも知っている。他人から些細な変化すら与えられたくないのだ。
「で、でもだな! 兄妹仲が悪いのは良くないことだろ?!」
慌てて言い募る彼だが、彼女が思ったのはひとつだ。
ついと彼の妹に視線を向ける。それだけで彼女の言いたいことがわかったのだろう。彼の口元が引きつった。
「オレ様はいいんだよ!」
無茶苦茶である。
それでもかつてよりは彼とその妹の仲が良好になったのは彼女にもわかった。喧嘩をしつつも一緒にいるのだから。
――だからだろうか。
自分たちがこうして歩み寄れたのだから彼らも、と。そう的外れな勘違いをしてしまったのだろう。
あの人の家族間に生じている溝は、彼と彼の妹の間に生じた溝とは種類も深さも暗さも違う。その溝は覗き込んだら這い上がれない奈落によく似ている。だからこそあの人もそこには触れないし、他人に触れさせようとしないのだろう。
長い付き合いだというのに、彼はそのあたりの微妙な事情を理解していないのだろうか。
いや、と思う。
恐らく知らせていないのだ、あの人が。必要以上に知らせないようにして関わらせないようにしているのだ。
「あの人はそれを望んでへんから」
「だからオレが橋渡しをしてやろうとだな」
それでどうにかなるようならとっくの昔にどうにかなっている。
やはり彼は理解していない。理解させてもらっていない。
親切の押し売り、と言おうとしてやめた。そう彼に言ったところで無駄だ。複雑さがわかっていないのだから。
わからせてあげるのも優しさかもしれない。
それでも彼の思いも彼女には理解できた。
「アザト様と仲良うなるんも今んまんまじゃ苦労しやんな」
結局のところ彼にとってはそれが一番の問題なのだと思う。
本人は隠しているつもりなのだろうが、アザトも含めて彼の気持ちは割と周りに知れ渡っている。隣でうなずいている彼の妹にまで知られているのだから、彼に関わりのある人々の中で知らない人などいないだろう。
「は、な、ば、ちゃ、あ、あ」
意味をなさない単語を、金魚のように口をパクパクさせて発する彼に生温かい視線を向ける。挙動不審になるところは初々しくてかわいらしい。
が、彼もいい年齢だ。妖精になる前にさっさと所帯を持ったほうがいい。
とはいえ自分が積極的に関わるつもりはない。あの人がそれを望んでいないのだから。
「いつまでもそうやってまごまごしているからアザトから逆告白されるんだぞ。男なら誠意を見せろトウナ」
「おまっ! ゆ、言うなバカ!」
「三十路前の男が初心な反応をするな気持ち悪い!」
容赦ない妹の反撃に彼の顔が真っ赤に染まる。首まで紅潮させて、頭から煙を出しそうな勢いだ。
「おめぇだって経験ねぇくせに偉そうに言うんじゃねぇ!」
「け――!? き、貴様! 破廉恥な!」
「うっせバーカバーカ!」
取っ組み合いの喧嘩が始まった。
一周回って普通に仲の良い2人の喧嘩を微笑ましく眺めながら、ふと思い立って腰を上げる。
開け放たれたままの襖を丁寧に閉め、そのまま玄関へと向かう。一応こちらは閉められていた。それくらいの分別はあったらしい。
苦笑がにじみそうになるのを我慢して引き戸を開ける。
「ついさっき来やったん」
無言で玄関から入ってきた男に状況を説明する。返事はなかったが、これはいつものことだ。
足音立てずに廊下を迷いなく進んでいく男の背中を見送り、にわかに浮かんだ苦笑を拭って引き戸を閉める。
奥から悲鳴が聞こえてきた。
「修羅場やんな」
誰にともなくつぶやく。
拭った苦笑がまた浮かんだ。
賑やかなのは良いことだ。常のこの場所は自分ひとりしか音を立てる者がいない閑散とした場所だからこそ、彼がもたらす騒ぎは嫌いではなかった。あの人と同じく、変に引っ掻き回されない限りは歓迎すべき喧噪だった。
「おめぇも強情過ぎんだよ! 素直になりゃいいだろうが!」
「貴様には関係ない」
「あんだよこっちには!」
部屋に戻れば予想通りの修羅場が展開されていた。互いに物騒なものを出していないだけマシだと思うべきだろうか。
部屋の隅に避難している彼の妹は、彼を助けるつもりがないらしい。用意したまま出せずにいた白湯を無言で飲み干していた。2人分。彼の分まで。
「おめぇ女好きなんだからあいつにも優しくしてやれよ!」
「女に優しくした覚えはない」
「最低じゃねぇか!」
「今さらか?」
彼が地団駄を踏む。
男はつまらなそうに目を細めた。
「おめぇだって所帯持つんだろ! そいつと! そいつの家族と気まずかったらヤだろうが!」
指を突きつけられてきょとんとする。
自分と男が所帯を持つ――それはひどく荒唐無稽な言葉のように思えた。
男にちらと視線を向ける。怜悧に整えられた横顔が彼女に向くことはない。これまでもそうだったように、きっとこれからも。
そう思うと――
「ふふ」
笑いがもれた。
ぎょっとしたように彼が目を見開く。彼女の反応は意外だったのだろう。彼女自身も意外に思ったのだから。
「トウナ様」
「お、おう?」
男に発言の許可をもらっていないが、口は勝手に開いた。
「冥府に落ちろ」
その一言を伝えるためだけに。
後悔はない。
「おい!」
たとえ男に引きずり倒され押さえつけられたとしても。
彼の制止の声に聞く耳も持たず、男は容赦なく彼女の体を床に押し付ける。冷えた板張りの床が逆に心地よくさえあった。
男の主君とも言える相手に、こんなことを言ったのだ、当然と言える。正気の沙汰とは思えない自殺行為だ。
「やめろオロ!」
「落ち着け!」
彼とその妹が騒いでいる。男の力は緩まない。
「オロ!」
彼が男を羽交い締めにして彼女から引き離す。拘束される苦しさから解放されても、彼女は起き上がらなかった。
「大丈夫か?」
妹が起き上がらせてくれようと手を差し出す。彼女はそれをはねのけた。
彼に羽交い締められている男の眉が跳ねる。
くすりと彼女は笑った。
男が彼女に対して、そんな反応を今までしたことがあっただろうか。
体を起こし、姿勢を正す。
「トウナ様。これが貴方のなさろうとしていることです。深く事情を知らぬ者が引っ掻き回してはならないことがこの世には多うございます」
彼の顔がくしゃりと歪んだ。言われたことの意味を理解したのだろう。彼女の言葉遣いが大きく変わったこともまた、彼の理解力を向上させる一因になったに違いない。
泣きそうな顔で口を開きかけた彼を、彼女は片手で制した。
「熟慮することを学びなさりませ。貴方にはその義務があります」
「おめぇ、まさかそのために――」
微笑を返す。
三つ指突いて頭を垂れるのは彼にではなく、男。
「長い時を共に過ごして頂きありがとう存じます。これにて失礼致します」
「……許す」
「おい!」
許されたことに満足して微笑みを返す。彼の抗議の声は彼女も男も聞き流した。
再度深く頭を下げる。男の目が既に彼女を見ていないとわかっていながら。
立ち上がり踵を返す。
「おい! 止めなくていいのかよ!」
「貴様には関係ない」
「おめぇ!」
争う声を背中に聞きながら廊下を歩く。
彼には少々酷なことをしてしまった。それでも必要なことだった。だから彼女に後悔はない。
避けていること。彼が深く考えようとしていないこと――英雄スオウの直系の子孫であるという立場。ヤマトの指導者である武王に次ぐ権力。国の有事の際には前線に出て傭兵部隊を指揮しなければならない義務と責任。
それを彼にしっかりと認識させ自覚させるために、これは必要なことだった。
だからこそあそこで彼女は不敬を働いたし、あの人も容赦なく厳罰に処したのだ。すぐにでも命を奪わなかったのはあの人の温情だろう。
自室に入って襖を閉めれば、彼らが争う声は聞こえなくなった。
深く息を吐く。
(ここまで、やってきたんに)
やったことに後悔はない。だけどこれまでの時間を惜しいとは思う。
結局あの人は最後の最後まで彼女に手は出さなかった。女としての魅力が自分にはなかった、というわけではないだろうが多少は悔しい。
(弟様が来やる前に消えんとな)
このことを知ったらあの人の弟はそら見たことかとばかりにやってくるに違いない。鬼の首を取ったかのようにあの人を口汚く糾弾し、自己陶酔の中で彼女の手を取ろうとする。
同じ血を引いているとは思えないほど考えの浅い人だ。長年あの人と同じ時間を共有してきたため、どうも考え方が幼稚なあの人の弟が彼女は苦手だった。ややこしい事態に発展する前に逃げるが勝ちである。
開け放した窓から見える赤く色づいた庭。
鮮やかで、だけど少し、淋しい。
彼女は無言で窓を閉めた。
※ ※ ※ ※ ※
風呂敷に包んだ少ない手荷物を持って自室を見渡す。
物が少ない部屋は私物を撤去してもたいして変わりが見られない。持ち込んだ私物は少なく、ここに滞在している間に私物が増えることもなかった。だから風呂敷の中身はここへやってきたときとさして変わらない。
物悲しい。
浮かんできた感想に苦笑がにじむ。
初めから期待はしていなかった。だから落胆はない。
それでも物悲しさを感じてしまうのは――
嘆息を残して玄関へと向かう。
この廊下を、何回往復しただろうか。思い出せないほどの回数を往復した。あの人を迎える、ただそれだけのために。
ここを往復することも、もうない。
今度からは、次にあの人に割り当てられる女の人が往復することになるだろう。
きっとあの人は変わらない。彼女に向けた態度と何も変わらずに、次の人にも接するに違いない。
心配事があるとすれば彼のことだ。あの人と喧嘩別れなどしていなければいいのだが、あの人はああだから難しいかもしれない。
積極的に誤解を解こうとしないところはあの人の悪い癖だ。泥を被り慣れているせいでもあるだろう。
(器用なくせに、必要最小限しかせん人。傍若無人に振る舞ってるようで、進んで貧乏くじ引くんが好きな人)
履く機会があまりなかった下駄に足を通す。ここへ来てから何度外に出ただろうか。残念ながら覚えていない。
軽く引っ掛けるようにして肩にかけた羽織りの位置を確かめ、玄関の引き戸を開ける。
カラカラと軽い音を立てて、引き戸は当然ながら抵抗することなく開いた。
秋の色が深まる外の空気が鼻腔をくすぐる。そっと潜めるように吐息すると、秋に誘われるようにして胸の内にわだかまっていた哀愁が濃さを増した。
(往生際が悪い)
自己叱咤して外へと体を運ぶ。
敷居を跨いだ瞬間、彼女はここでの役目を失った。
「……最低やんな」
ポロリと口からこぼれ出る。
「誰がだ?」
「――っ!?」
心臓が止まるかと思った。
慌てて振り返れば、玄関横の壁にもたれかかっている男の姿。いつも通りに機嫌の良くなさそうな表情を浮かべ、いつも通り怜悧な眼差しは秋風の冷たさに感化されたようにより鋭さを増していた。
ふるりと肩が震える。
(どないしやったん?)
出かかった疑問は声帯を震わせる前に飲み込んだ。
いつもならここまで家に近づく前に気付くのに、今回ばかりはまったく気付かなかった。
油断をしていた。
――いや。
違う。油断ではない。
いつも男の接近に気付けるのは、家に近づくにつれ男が気配を濃くしてくれるからだ。完全に気配を絶って近付く男に、護身程度の武しか身につけていない彼女が気付けるはずがない。
それに、彼女が出て行くまで、男がここに来ることはないという思い込みもあった。
彼女はもう、男にとって無価値な存在に成り下がったはずである。
――見送り? まさか。男はそんな無駄なことはしない。
動揺に騒ぐ心臓を宥め、彼女は小さく小首を傾げてみせた。
「誰も」
男の表情は変わらない。
変わらない、けど。
「失礼します」
頭を下げて踵を返す。
交わす言葉は初めからない。
「……――ヒヨ」
今度こそ心臓は確実に一回止まった。
「それは、卑怯やんな」
足が前に出せない。
縫い止められた。
たった一言で。
ただ名前を呼ばれただけで。
「現状に不満はないか?」
男はいつも通りそれを繰り返す。いつもと変わらないトーンで、いつもと変わらない態度で。
なんも、としか彼女が返さないのを知っていながら。
あると答えたらどうするのだろうか。その不満を男は取り除いてくれるのだろうか。既に無価値に成り下がった自分のために、男が何かをしてくれるだろうか。
(まさか)
浮かんだ。ありえない可能性。
――ずっと待っていた? 彼女が不満を言うのを。
そんなこと、あるはずがない。彼女の名前すら記憶しない男が。
(けど……)
呼んだではないか。今、こんな状況で。
どくん、どくん、と心臓が騒ぎだす。ありえない可能性を畏れて落ち着きがない。
喉の奥が渇いた。唾を送り込んでもうまく声帯を震わせられない。
「…………いっこ、だけ」
だからこれは自分が望んで口にした言葉ではない。渇いた舌が喉に張り付いて勝手に紡いだ戯言だ。
「言え」
「いやや」
「逆らうのか?」
唇を固く引き結ぶ。
誰が言うものか。誰が言ってやるものか。
くくっと喉の奥で笑う声が聞こえてきた。聞いたことのない、どこか楽しむような響きを伴った笑い声だった。
何を言われようとも、どんな態度を取られようとも、今までまったく感情を揺らさなかったのに、その笑い声はひどく癇に障った。
「無能の当主が貴様との関係解消を許さなかった」
当主――男のあの父親がそんなことを言うはずがない。あの家は既に男の掌中にある。
そんな嘘に彼女が騙されるはずがないとわかっているくせに、何が楽しいのか男は嗜虐的に笑った。
これが男の本当の性癖か。
くっと眉根を寄せて振り返る。壁に寄りかかっていた男が目を細めた。
「……どうしやったん? 旦那様がこんな――っ!」
言葉は最後まで発することができず、腕を取られて壁に押し付けられた。
背中に痛みが広がる。堪らず彼女は咳き込んだ。
基本的に温室育ちの彼女にはいささか衝撃が強すぎる。護身用に習得した武術のなんと無力なことか。
「旦那さ――」
「やっと仮面が剥がれてきたな」
訳がわからない。
困惑を視線に乗せる彼女を冷たく見下ろし、男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「貴様に譲歩してやるのに飽きた。それだけだ」
彼女を壁に押さえ付けていた手が離れる。
強く握られていた両の二の腕がじんじんと痛んだ。
「じょう、ほ……?」
困惑する彼女に、男がそれ以上の言葉をかけることはなかった。
取り落とされた風呂敷を男が拾い上げる。埃を払わずに、男はそれを玄関の中へと放り捨てた。
人の荷物を乱暴に扱うな、と文句が言えたら良かったのだが、彼女の立場上そんな文句が言えるはずもない。言ったところで男にはなんの意味もない。
「檻へ戻れ」
突き放すように男は言う。
檻、とはこの家のことを指しているのだろう。彼女はこの家を一度も檻だと思ったことはないが、男から見ればこの家は檻なのかもしれない。
拒絶は許されない。
それははっきりと命令だった。
(……命令?)
はたと気付く。
そう、これは命令だ。とっさに逆らったが、先ほども命令された。
今まで一度だって男から何かを強要されたことはなかったのに。今ごろになって初めて命令された。
――それが譲歩だったのか?
確かに彼女は男に命令されたら、立場上逆らうことは許されない。寝ろと言われたら寝るし、死ねと言われたら死ぬ。
だからこそ男は今まで命令をしてこなかった。ただ不満はないのかを尋ねるだけで。
義務だった。それは男が自らに課した義務だった。
それを彼女は理解していたし、だからこそ不満を絶対に口にしなかった。
「ヒヨ」
二度目の呼びかけには心臓も驚かなかった。
顔を上げれば、家の中へと入っていく男の横顔がちらりと見えた。
なんて、なんて卑劣なのだろうか。
「……卑怯やんな」
こぼしたつぶやきは誰かの耳に届くことはない。
落ちた羽織を拾い上げ、彼女は――ヒヨはオロの待つ家へと帰った。
後日訪ねてきたトウナ、シュキハ、アザトの3人に揃って土下座され、慌てるよりも先に思わず笑ってしまったのはまた別の話である。
オロの好感度を上げようとしたけどまた玉砕した。
今後、無事に祝言を挙げるまでにオロの子を身籠ったとかいう女に突撃されたり、オロの弟に誘拐拉致監禁されたり、迂闊キングトウナの失言でまた修羅場ったり、シュキハに入り浸られたり、祝言を挙げてからもいろいろ苦労しそうですね。
なんとなく薄幸そうだもんね、この子。
次回の更新も特に理由がない限り来週のこれくらいの時間に。




