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71 - 終わりの逃避行

 走る。走る。走る。とにかく走る。

 舗装されていないむき出しの土の上をひたすら走る。

 息はとうの昔に上がっていた。それでも走ることはやめない。

 逃げなくてはならない。

 脳裏に浮かぶ、助けを求めたら即座に応じてくれるであろう人物。

 駄目だ。それは駄目だ。

 冷静な部分が制止する。かぶりを振ってかき消して、再び走ることに専念した。


 だけど既に諦めていることもある。


 走る先にある茂みが揺れる。とっさに体に急制動をかけるも、慣性の法則はその程度の力で抗えるものではなかった。

 茂みから飛び出してきた人物の胸に飛び込む形で、地面をひたすら蹴りまくっていた足は止まった。

 乱れた呼吸が胸を上下させる。

「捕まえた」

 耳元で囁かれた低くかすれた声に、背筋がぞくぞくする。乱れている呼吸が止まる程度には動揺している自分がいた。

 しっかりと腰を抱く腕から熱が伝わってくる。走ったことによる動悸なのか、別の要因による動悸なのか、自分でもわからなくなってくる。動揺を悟られないように呼吸を整えることがせめてもの抵抗だった。

「君の行動パターンは大体把握できている。俺から逃げられると思わないほうがいい」

 わざとしているとしか思えない。耳に吹きかけられる息の生温かさに、思わず身をすくませる。腰を引き寄せられさらに密着度が増した。


 これはまずい。主導権を握られている。

 顔を上げて相手を睨みあげても、相手は余裕綽綽の顔でにやにやと笑うだけだった。

 本当に性格が悪い。

「……離して」

「断る」

 要求はあっさりと却下された。強く睨みつけても涼しい顔をされるだけ。身を捩ってもがっちり腰をつかまれていてびくともしない。

 主導権は完全にあちらに握られていた。

 逃げ道を探して視線を彷徨わせ、ふと相手が飛び出してきた茂みで視線が止まる。


 揺れていた。風で、ではない。明らかに人為的に。

 あ、という暇もない。


 茂みから飛び出してきた影が、自分を捕らえる相手に飛びかかった。綺麗なフォームの飛び蹴りだ。

 だが相手もまた油断はしていなかった。即座にこちらを手放すと、腕をクロスさせて蹴り足を受け止める。地面をつかんでいた足が数センチばかり滑った。

「エリス殿から離れろ! この破廉恥男め!」

「口よりも先に暴力に訴える君の傍よりは遥かに安全だと思うが?」

 振り下ろされたかかと落としを、男は後退して避ける。

「シックー、危ないよー」

「うん? ――ってうおっ!?」

 遠くから声が聞こえてきたと思ったら、男の立っていた場所に小さな雷が落ちた。地面を焼いてぷすぷすと黒煙が上がる。

 軽い足取りで後ろからやって来た少年が自分の隣で立ち止まった。

「おい、ルーダ。今の本気で当てる気じゃなかったか?」

「なに言ってるの、シック。当たり前じゃん」

 さらりと言い返されて、男は天を仰いだ。

 それをチャンスとばかりに女が回し蹴りを放つ。男は軽く身を仰け反らせることでそれをかわした。


 シック、シュキハにルーダ、皆自分が雇った傭兵である。

 仲良くじゃれ合っている3人を見渡して、エリスは逃亡を諦めてその場にしゃがみ込んだ。

 やはり徒歩で逃げ切るには限界がある。こんなことならば、ヨーヒ兄様から幻影怪鳥(ゼロウィング)を強奪しておくべきだった。復興でいろいろ大変そうだから遠慮したが、自分にはそもそも遠慮なんて相応しくない。


 深く吐息して空を仰ぎ見る。

 薄ぼんやりと白の化粧を施された蒼天に、赤々と燃えたぎる太陽が煌々と輝きを放っていた。

 黄昏の討伐に成功したのは今から1年ほど前になる。あれから世界情勢は目まぐるしく変化した。

 中でも最も世界の注目を集めたのが2点。

 英雄の誕生、そして――

「きゃっ!」

 思索はそこで中断される。

 誰かにひょいと軽く抱き上げられたからだ。


「貴様ぁ! エリス殿を離せこの破廉恥野郎!!」

「ああ、攻撃はやめたほうがいいぞ、シュキハ。うっかりエリスに当たったりしたらどうする」

「うぐぅ!」

 シックだった。

 決して小柄ではないと自分では思っているエリスの体を横抱きにして、勝ち誇ったようににやにやと笑っている。目の前ではシュキハが口惜しそうに地団駄を踏んでいた。剥き出しの地面が踏みつけられるたびに抉れていく。

 そこでようやく状況に気が付いた。

「ちょっと! 離しなさい!」

「おっと。暴れるな、危ないぞ」

 手足を動かしてもがいてみても、シックの拘束からは逃れられなかった。抱き上げるときにこうなることを想定していたに違いない。なんていやらしい性格だ。

 これが英雄のひとりだと世間が知ったらどう思うだろうか。

 人を食ったような笑みを浮かべるシックを睨み上げながらエリスは思う。


 黄昏の戦争と呼ばれるようになった先の大戦。それ終結させた英雄として、黄昏の三英雄の名が世間に広まった。

 疾風(はやて)の騎士シック・トライガルト。

 殲滅の魔導師ルーダ・フェリ。

 武姫(ぶき)シュキハ(事情により家名非公開)。

 正直ルーダだけは言い過ぎなのではないかと思わなくもない――本人も死ぬ気で嫌がっていた――のだが、通り名と共に彼らの名は広く知れ渡ってしまった。今やその名を知らぬ者はいないほどである。

 たった1年でだ。それだけ戦争の終結は人々にとって狂喜すべきことだった。

 街中に出ればルーダでさえキャーキャー騒がれる。女性に取り囲まれることに恐怖を覚えたルーダが引きこもって外に出たがらなくなるレベルで。

 彼らの名前はこれから先も歴史に残るだろう。本人の人となりに関係なく。


 一方、エリスの取り扱われ方は彼らとは180度異なった。

 トレジャーハントの仕事中に戦争に巻き込まれ死亡。それがエリスと、そしてラドの扱いだ。父親にもその通告が行ったのだとシックから聞いた。他の戦死者と共に合祀することを拒絶した父親が、エリスのためにエリスが好きだった庭園の一角に墓を建ててくれたのだとも。ラドの墓もエリスほどではないにしろ建ててくれたらしい。

 黄昏の存在を公にしても、エリスの存在は公にしない――パレニーたちの決定だ。異を唱える者は誰もいなかった。

 とんだ親不孝だ。家出をしてもう数年になるが、せめて別れの挨拶くらいはちゃんとすべきだった。今さらながら後悔がエリスの胸中を黒く塗りつぶした。

 バードランド家のエリシアナはこの世にもう存在しない。ここにいるのはトレジャーハンターのただのエリスだ。

 せめて父親に再婚相手がいることが救いだろう。皮肉な話だけれど。

 もちろんあの母親のことも世間に公表されることはなかった。シンシアーナ・バードランドは数年前に馬車の事故で亡くなった。その事実が別の真実に塗り替えられることはない。それでいいと思う。


 エリシアナ・バードランドとして生きることはもう二度とできなくはなってしまったが、ヨーヒ兄様とは会ってもいいと許しが出た。人目につかないように、という注意はされたが。

 もっとも、復興作業に忙しいヨーヒ兄様にはしばらく会えないだろうということはわかっている。さすがにそこまで迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 復興と言えば、今回の戦争で最も被害を受けたのは帝国だ。ヨーヒ兄様から聞いた話によると、上層部が軒並み亡くなったらしい。腐った豚ども――本当にこう言った――が消えたことは国のためには良いことだったろうが、復興資金を搾取する対象が減ったことは痛手だった。

 隣国のジスターデ国や、魔導国レトポーフからの援助がなければ復興もままならなかっただろう。エリスが世話になった相手だからと、バードランド家からも個人的な援助がなされたと聞いている。

 ただ、帝国は消滅せざるを得ないだろうというのがヨーヒ兄様を含めた皆の認識だ。

 腐敗した上層部が消えたからといって、腐敗した体制がいきなりなくなることはない。いくらヨーヒ兄様が尽力したところで、その本質が変わるまでには膨大な時間が必要となる。

 今回、黄昏を復活させる遠因となった――パレニーの巧みな情報操作によって戦争責任の一端が帝国に被せられたのだ。あながち間違ってもいないし、ヨーヒ兄様も反対はしなかった――帝国の延命はほぼ不可能だろう。どういった形になるかはわからないが、地図上から帝国の名が消えることだけは確かだそうだ。

 エリスとしては複雑だが、口を挟める立場でもなかった。


 そして、裏で糸を引きまくっているパレニーはというと、三英雄の協力者としてこちらも大々的に世間に公表された。元々知名度の高かった魔導師だ、三英雄の名声に拍車がかかったのは言うまでもない。

 ただし、表舞台にはナルが代理人として顔を出していた。一回よくわからない人形――魔導人形とかいう魔力で動く人形だったらしい――に代理出席させようとして、ナルとルーダに破壊されている。

 それから不貞腐れた。

 とはいえ、やることに手は抜かなかった。むしろ激化した。

 ルーダの通り名である『殲滅の魔導師』の名を積極的に広めたのは誰であろうこの人だ。ルーダが激しく抗議をしに行ったが、戻ってきたルーダは本気泣きしていた。宥めるのに苦労したくらいに。

 余談だが、そのせいなのかどうかは知らないが、シックがしばらく機嫌が悪かった。

 なんにしろパレニーの自由奔放ぶりは決してなりを潜ませたりはしなかった。むしろのびのびと解放された。唯一止められる可能性のあるナルですら匙を投げたのだ、いったい誰が止められる。

 そこにオルフェが加勢したのだからロクなことになるはずがない。

 何かしら通ずるものがあったのか、あの2人はなぜかとても仲が良い。オルフェがエリスのところにいないときは、大抵パレニーのところにいた。


 そのオルフェだが、当然ながら彼女の存在も世間に公表されることはなかった。というか、気まぐれに大陸のひとつくらい軽く消滅させられる力を持っている存在のことなど公表できるはずもない。

 そして現在、オルフェはどうしているかというと――なぜかパレニーのところに住み着いている。

『シアちゃんとイクつもりだったからぁ~、オルフェやることなくて退屈なのぉ』

 というのが彼女の主張だ。誰も歓迎はしていないが、誰も追い出そうともしていない。

 ただ、パレニーに夜這いをかけることだけはナルが全力で止めているらしい。割と本気で相手をしてくれるため、オルフェはむしろナルと戯れることが楽しいようだ。ルーダの見解では狙われているのはむしろナルのほうなのではないのかと。

『近い将来、食われるんじゃないかな?』

 などと投げやりに言っていたルーダは、どうやらナルを助ける気はないらしい。

 薄情とは思わない。下手に関わったら矛先が自分に向きかねないのだから。

 ナルはナルで強かな女だから、オルフェ相手に惨敗することはないだろう。勝てもしないだろうが。

 エリスにしろルーダにしろ、穢れまくったあのおとなたちがティッケに妙な影響を与えなければそれでいいのだ。次期賢者の思考が変態に染まらないことを願うばかりである。

 ルーダなんて早々に染まり始めて、ヘタレドSというよくわからない新境地を開拓してしまった。シックのようにただ性格が悪いだけではないから、余計にたちが悪い。


「おい待てルーダ。落ち着いて話をしよう」

「ナルだったかパレニー様だったか忘れたけど、魔導師はやろうと思えばなんでもできるんだって言ってた。最近やっとその意味がわかってきたんだよ」

 小気味良く地面を叩いた鞭から電流が迸る。ミミズのようにのたくった電流は、そのまま消滅せずにうねうねとした動きでこちらへとにじり寄ってきた。

 エリスを抱え込んだままのシックがじりじりと後退する。

 対するルーダはなかなかにいい笑顔をしていた。

「そもそもさぁ、なんでシックは待ち合わせの場所で女の子をナンパとかできるわけ? バカなの? バカなの?」

「あれはただ普通に話をしていただけだ」

「それが今まで何回あったの?」

「毎回か?」

 鞭で強く叩かれた地面がめこりと凹んだ。

 普通鞭でそんなことができるはずがないし、ルーダの力でそんなことが可能なはずがないので、相当量の魔力がその鞭に込められているのだろう。それこそ地面を凹ませられるほどに。


「シック、あんた早めに謝ったほうがいいんじゃない? あれ、本気で怒ってるわよ」

「君が怒るならわかるが、なんであいつが怒るんだ」

「は? なんで私が怒るのよ」

「嫉妬?」

 身を乗り出して目を塞いでやったら、ルーダの鞭が見事に太ももにヒットした。

 緩んだ腕から猫のようにすり抜ける。即座にシュキハに保護されシックから遠ざけられた。

 なんというチームワーク。


「一応さ、応援してたんだよ、シックのこと」

「へぇ、それはありがとう」

 逃げたエリスを追わずに、シック。手首をプラプラさせながら軽く首を回す。

「なのになんでそういうことができるかなぁ」

 庇ってくれるシュキハに礼を言って後ろに下がる。

 フリーになったシュキハが、両足を軽く開いていつでも飛びかかれる体勢をとった。

 そのシュキハの左腕に目をやる。

 あるべき腕はそこにはなかった。


 腐敗し消滅した左腕の再生は、いかにパレニーであろうと不可能だった。いや、あの後すぐに治療を行っていれば再生する可能性もあったらしいが、あのときはパレニーも倒れていたしルーダもナルも魔力の過剰消費により昏倒していた。

 オルフェは治癒系の才能がなかったため、誰もシュキハの腕を治療することができなかったのだ。

 パレニーが完全に回復して治療が可能になったころには、腕の再生のタイムリミットが完全に過ぎていた。義手ならば作れるとの申し出はシュキハ自身が拒否をした。

『力量不足ゆえ。これを戒めにさらに精進していきたい』

 などと言って。

 大変だったのはむしろシュキハではなく、トウナのほうだった。

 意外にもハスノミヤの死はすんなりと受け入れた――予想はしていて覚悟を決めていたらしい――のだが、シュキハの左腕の惨状には悲鳴を上げて卒倒した。比喩表現ではなく、本当に卒倒した。

 義手を断ったときの狂乱っぷりは今でも記憶に新しい。

 女なのにとか、嫁の貰い手がとか、いろいろと喚いていたせいで、うるさがったオルフェに強制窒息(物理)をされてあえなく轟沈していた。今度はシュキハが破廉恥だのなんだのとうるさくなったが。

 今ではオルフェの姿を見るだけで、顔を真っ赤にして悲鳴を上げながら逃げる始末。ヤマト一の傭兵の名が廃るのではないかと一度からかったら、物凄い形相で睨まれた。なんとはなしに(・・・・・・・)オルフェにそれを愚痴ったら、次からはエリスを見ただけでも逃亡するようになったのは少しおもしろかった。


「ルーダ、ひとつ聞いてもいいか?」

「なに?」

「散々答えをはぐらかした挙句に、俺の目を盗んでバックれようとしているエリスに非はないのか?」

 ギクリと肩を痙攣させる。振り向いてきたルーダの視線からは目を逸らしておいた。

 視線を感じる。すごく白けた視線を。

 冷や汗が流れるのを感じながら黙秘を貫いていると、弁護の口を開いたのはシュキハだった。

「笑止! 貴様のように軽薄な男にエリス殿が靡くものか!」

「シュキハは黙ってようか」

「ぬ? また拙者だけ除け者か!?」

「シュキハ」

「はい」

 あっさり引き下がったシュキハが地面にのの字を書き始めたのを横目に、逃げ込める茂みを探す。

 近づいてきたルーダに手首をつかまれた。

 はっと気が付いたときには既に逃亡失敗だった。


「エリス、あれが終わったら返事するって約束してたよね? なんでしてないの?」

 穏やかな口調でありながら、含みを持たせた言い方だった。この辺り、パレニーに似てきたと思う。似なくてもいいのに。

「違うわよ。返事はちゃんとしたわ。断ったもの」

 我ながら言い訳めいていると思える言い分に、即座にシックが口を挟んできた。

「俺はあんな理由では納得しないと言ったはずだが?」

「あんたが納得しなくてもそれが私の答えなの」

 目の前で、へにょりとルーダの眉尻が情けなく下がった。自分の苦手分野に話が移ったせいだろう。

 エリスの手首をつかんだまま、睨み合う――睨んでいるのはエリスだけだが――2人を困ったように交互に見やる。被害妄想なのだろうがなんとなく、面倒事に巻き込まれたしまった、みたいな表情に見えた。

「エリス殿はなぜ断ったのだ? 破廉恥軽薄軟派野郎だからか?」

 空気を読まないことに定評があるシュキハがふと疑問の声を上げる。地面に描かれたのの字がすべてカタツムリに変形していたのは見なかったフリをしておいた。

「新しい心臓に引け目を感じるから、だそうだ」

 如何にも気に入らないとばかりにシックが代わりに答える。エリスは反射的に胸元に手を当てていた。


 新しい心臓――今、この皮と肉と肋骨に隔てられた内側には自前の心臓以外の心臓が動いている。

「……ああ、魔の王の」

 つきりと胸に痛みが走る。

 そう、そこにあるのは魔の王バーリハーの生命の輝き(ルナティックソウル)だった。


 人と魔が長年争い続けていた元凶は黄昏にある。魔もまた被害者に過ぎない。

 すぐにそう納得できる人間がいったいどれだけいるだろうか。

 裏で糸を引いていたのが黄昏だったとしても、表だって人間と争ってきたのは魔だ。今さら憎悪の対象を、降って湧いたように現れた黄昏という存在に移せと言われても、はいわかりましたとできるほど人間は器用ではない。

 多くの人間にとっては魔は恐怖と憎悪の対象なのだ。それは変わることがない。

 シックらが三英雄として持ち上げられている裏で、人間側の代表と会合を設けたバーリハーは自身の死をもって戦争の終結とすることを決めていた。

 それは同時にエリスのためでもあったのだ。


 エリスの心臓の代わりとなりうるものはこの世にはもう存在しない。

 亡くなったハスノミヤの心臓として動いていた最愛の魔の生命の輝きも、彼女が亡くなったときに砕かれてしまっていた。黄昏の鍵ももちろん消滅している。普通の人間とは違うエリスに適合する心臓は、普通の人間からも得られない。パレニーに一生体内の時間を封印していてもらうことも――彼に相当量の負担がかかってしまうので――不可能。

『王様の生命の輝きなら代わりになるんじゃない?』

 何気なくつぶやかれたオルフェのそれに、バーリハーの決意は固まってしまった。後は相談も何もない。

 人間側との会合で何をどう話し合ったのかはエリスにはわからないが、最後に一度だけ顔を見せたバーリハーに結論だけを突き付けられた。拒否の言葉など届くはずもなかった。

 衆人環視の中、バーリハーは王として生を終わらせた、と伝え聞いた。

 その日から魔の領域の中でさえ、魔の姿を見ることはできなくなったと聞いている。気配はあるらしいので消滅したわけではないようだが、魔の領域の奥の奥へと引っ込んでしまったらしい。

 王を失った魔が今後どうなるか、誰にもわからない。

 バーリハーの生命の輝きは速やかにオルフェによって回収され、拒絶するエリスを無視してティッケの禁呪によってエリスの新たな心臓となった。なってしまった。


 バーリハーを責めた。オルフェを責めた。ティッケを責めた。

 自分を責めた。

 戦争責任ならば自分こそが取らなくてはならなかったのに。なぜ自分だけがこんなにも大事にされ、なぜ自分だけがのうのうと生かされるのか。

 それを考えだしたら、シックへの返事の選択肢がNO以外なくなった。

 だから断った。それだけだ。


「ねぇエリス」

「なに?」

「エリスが負い目を感じる気持ちはわかるよ。他人の犠牲で生きながらえた自分が、人並みに幸せになんかなっちゃいけない、とか考えてるんでしょ?」

 図星だ。

 憮然と黙り込むエリスの顔を覗き込んで、仕方がなさそうにルーダが苦笑した。

「テンプレ通りの女性的思考だよね。でもそれ、間違いだよ、エリス」

「え?」

 きょとんとするエリスに再度苦笑を向け、ルーダはエリスの手を引いた。

「王様はさ、きっと、エリスにエリスらしく生きてほしかったんじゃないかな」

「私らしく?」

 手を引かれるままに歩く。

 向かう先にはシック。反射的に抵抗したが、強く手を引かれて渋々従った。

「バカみたいに遠慮するとかさ、エリスには似合わないから。ちょっとわがままで強引で、我が強くて負けん気が強い、それがエリスでしょ?」

 しょ?と言われても同意しかねる。そんなに女王様気質なつもりはなかった。

 だがエリス以外にとってはそうではなかったらしい。シックはもちろん、シュキハまでうんうんとうなずいていた。

 おかしい。腑に落ちない。


「だから」

 強く手を引かれてつんのめる。離された手は、たたらを踏んだ先で別の手につかまれた。

「王様を言い訳にしないでちゃんとけじめつけなよ」

 顔を上げる。目の前にシックの顔があった。

「あー無駄な時間過ごしたー。シュキハ帰るよー」

「むぅ、致し方ない。拙者も馬には蹴られたくない」

「ちょっ! まっ――!」

 制止の声を待たずに2人の姿はどんどんと遠ざかって行ってしまった。というかあれ、本気走りではないか。そんなにこの場から離れたかったのかルーダめ。


 つかまれた手から熱が伝わってくる。注がれる視線を意識しながら、エリスは諦めのため息を吐き出した。

 これはもう逃げられない。

「エリス」

 言葉を選んでいるうちに先に口を開かれた。

「ひとつ教えてほしい」

「……なに?」

「君に、俺は必要か?」

「は?」

 思わず凝視した。見下ろしてくるシックの顔を。瞬きもせずに。

 悔しいけれどよく整った顔だ。三英雄の中でも特にモテるのが納得できる。上流階級特有の上品な整い方ではないし、性格も相まって近寄りがたいという雰囲気が一切ない。

 待ち合わせ場所に行くと必ず女性と話をしているのも、あれはナンパではない。女性側から話しかけてくるのを相手にしているだけに過ぎないことを、ルーダは知らないだろうがエリスは知っている。自他ともに認める軽薄な男ではあるけれど、エリスに告白していながら他の女性を平気でナンパするほど不誠実な男ではない。それくらい、知っている。


 きゅっと唇を引き結ぶ。

「……あんたは、……ジスターデ国の名誉騎士にも選ばれて、これから、順風満帆な生活が約束されてる」

 相槌はない。

 逸れそうになる視線をシックの双眸に固定して、エリスは言葉を続けた。

「いい縁談の話も、望む望まざるにかかわらず、きっと、たくさん持ち込まれる」

 こくんと唾を飲み込む。ただの唾液のはずなのに苦みを感じた。

「私はもう、バードランド家の人間じゃない。何も持たない、戸籍すら、偽造のものしかない」

 つかまれていない手がふらふら彷徨い、

「ねぇ」

 シックの服の裾をつかむ。

「それでもあんたは私を選ぶの?」

 裾をつかむ手に力がこもる。


「俺はエリス以外いらない」


 迷いのない言葉だった。

 ――予想を裏切らず。


「バカ」


 返せたのはそれだけだった。

 体から力が抜けていく。体を前に倒すと、頭がシックの胸板にぶつかった。

 本当に馬鹿らしい。シックも自分も。

 頭を撫でられる感触に気づいて軽く身をよじる。離してくれないかと思ったが、意外にもすんなりと解放してくれた。

 息を吐いてグッと体を伸ばす。

 目を細めて太陽を見上げれば、じゃれあうように飛ぶ(つがい)の鳥が視界を横切って行った。

「次はどんな冒険をしようかしらね」

「君とならどこへでも」

 差し出された手を取って、エリスは微笑を浮かべた。


後日談を数点書いて完結となります。


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