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9 - 欲望の檻

 インパクト大の不思議な魔導師と別れた後、ルーダはしばらくあの場に留まって言われた通りに練習を重ねた。

 付け焼刃だとしてもこれはルーダの自信に繋がった。


 これで少しは役に立てる。

 シックにおくれを取ることなく存在感をアピールできる。


 村の入り口で一行と別れたときと打って変わって、上機嫌に歩くルーダは前方に見知った人物を見つけて当てもなくぶらぶらしていた足を止めた。

「あれ、シックだ」

 先に村の中へと行ってしまっていたはずのシックの姿がある。


 人通りの少ない往来を横切って、汚れた看板が掲げられた建物へと入っていくのが見えた。

 目を凝らして看板を見れば、それが酒場と呼ばれる類の施設を示していることに気づく。シスターデ国の首都にある酒場はしっとりと大人の雰囲気を漂わせる店構えであったが、この村の酒場はいかにもな雰囲気を醸し出す寂れ具合をさらしていた。

 昼間から酒場に入るとは、さすが自他ともに認める不良騎士。


「って、関心してる場合じゃないや」

 こんな現場がエリスに見つかったらまた揉める原因になるだろう。

「阻止しなきゃ!」

 決意するのは早かった。


 通りを横切り酒場のドアを開ける。勢いよく開けすぎて酒場にいた人たち全員に注目された。


「あら、ルーダにしては派手な登場ね」

 奥のカウンター席から茶化すような声が飛んでくる。

「欲求不満なんじゃないか? 君が文字通りひと肌脱いでみたらどうだ?」

 次いで先に声を上げた人物をからかう声が聞こえてくる。


 姿を確認するまでもなく、声だけでその2人が誰かはもちろんわかっていた。

 まぶたが半分ずり下がった目を声が聞こえてきたほうに向けると、案の定旅の連れであるエリスとシックが仲良くお酒を飲み交わしているのが見えた。


「…………なんで2人してお酒飲んでるの?」

 注目をされていたのは店に入ってきたときのみ。既にルーダから意識を逸らして2人で話しこんでいるのが気に入らなくて、拗ねたように口を尖らせながら近づいていく。


「あら、おとななんだもの。飲んだっていいじゃない。それに冒険家は飲んでなんぼよ」

「イイ男も酒は必需品だ」

「2人ともそれ理由になってないよ」

 カウンター席には2人の他に人がいなかったので、ルーダはエリスの隣に座った。


「マスター、この子に適当なもの作ってあげて。お酒は出しちゃダメよ」

「いや、出されても飲まないから」


 酒場に入ったことは今までなかったが、酒場というだけあって店内はお酒のにおいが充満していた。

「そうだ。ねぇ、あんたさぁ、店に入る前に真っ黒なローブ着たいかにも怪しい男見なかった?」

 すぐに出てきたキュウリとキャベツの漬物――これがいわゆるお通しというものだろうか――にフォークを突き刺す。相変わらずルーダの存在を無視した会話はルーダを置いて始まっていた。


 2人の会話に耳を傾けながら店内を見渡す。

 尋ねている時点で店内にはいないのだとわかっていても、聞くだけでも怪しさ満載の黒ローブの人物をつい探してしまった――もちろん、いなかった。


「いや、そんな目立つ容姿の男は見なかったな。元々ヤローに興味がないから見落としていただけかもしれない。悪いな」

「いいのいいの。ただの情報屋で神出鬼没なヤツだからさ」

「情報屋と会うためにここに来たのか。一体どんな話を仕入れようとしたんだ?」

「ひ・み・つ」

 人差し指を口元に当ててエリスが楽しげに笑う。

 果たしてエリスの狙い通り、シックはそれ以上の追及はしなかった。


 透明の液体――お酒であることは間違いないだろうが種類まではわからない――の満たされたグラスを傾けて、ご満悦な様子でエリスがシックの顔を覗き込む。

「飲み比べで私に勝つことができたら何かひとつだけ教えてあげるわよ」

「女性より先につぶれたことはないがいいのか?」

「あら、私だって向かうところ敵なしよ。言っとくけど、この勝負で私負けたことないわよ?」

 互いに挑発し合うエリスとシックを呆れた目で眺めながら、手際良く作られて出されたホウレン草とキノコの炒め物を口に運ぶ。バターで炒めてあるのか程よいコクと、ガーリックが適度に利いていてなかなかおいしい。


「2人ともつぶれても介抱しないからね」

 ぽそりと呟いたルーダの言葉は恐らく2人には届いていないだろう。


 過去の武勇伝――傍から聞いていると決して自慢できるような内容ではないものもちらほらあったが――を互いに言い合っていた2人が、今度は無言で睨み合いを始める。一周回って逆に相性が良いのではないかと、半分以上本気でルーダは思い始めてきていた。


「いいわ。ならラドを交えてやりましょう。ここで合流する予定だからそろそろ着くはずよ」

「それは構わないが、彼は強いのか?」

「いろんな意味で退屈はしないわ」

「なるほど」


 会話をしながらも酒のお代りを注文することは忘れない2人。

 新たに追加された酒ビンからグラスに酒を注ぎながらも、エリスの横顔は昔を懐かしむような微笑があった。それは初めて見る柔らかい表情だったかもしれない。


「昔はよく3人で仕事終わりに飲んでたのよね」

「3人? ラドの他にも誰かいたのか?」

「トレジャーハンター仲間の子がね。私とラドとその子でチーム組んで世界中を飛び回ってたの」

「そいつは女か?」

「そうよ。でも結婚してやめちゃってね。まぁやめた後もちょくちょく会ってたけど、私のほうのミスで半年間会えてないの。いきなり半年間も音信不通にしちゃったから今頃怒ってるかもしれないわ」


 しょんぼりと肩を落とすエリスにシックの手が伸びる。落ち込んだ様子を見せる女性の慰め方をよく知っているのだろう。が、肩を抱こうとしていたシックの手は、何事もなかったかのような自然な所作でエリスが叩き落とした。

「事情があったのなら説明すれば理解してくれるさ。それより半年間も音信不通とは穏やかじゃないな。何があったんだ?」

 手を弾かれたことなど気にした様子も見せずに、シックが普通に会話を続ける。エリスのほうもやはり特に気にした様子もなく受け答えをしていた。


「まぁ、いろいろ」

 あいまいに濁してエリスが苦笑いをこぼす。気のせいかもしれないが、どこか自嘲するようでもあった。


「何があったかは知らないが、なぐさめて欲しければいつでも言ってくれ。朝までベッドの中で相手をする」

「はいはい。頼ることは一生ないと思うけど覚えておくわ」

「イイ男の誘いを断るとはもったいない」

「なにそれ」

 相変わらずのシックの言葉に、呆れたようにだがおかしそうにエリスが笑った。


 そうか、とルーダは思う。

 いい意味でも悪い意味でも、これがシックの才能なのだろう。


「飲み比べをするのはいいとして、その前に今後の方針を聞かせてくれるか? 帝国に入るならこちらもそれなりに準備が必要だ」

「んー……」

 ふとまじめな顔になったシックの提案に渋い顔をするエリス。

「君の秘密主義は理解しているつもりだ。だがこちらもまったくの情報なしでは満足に動けない。必要最低限の情報を共有することは許してくれないか?」


 うまいな、と思った。

 言動に軽薄さばかり目立つシックではあるが、頭の回転はルーダが思っている以上に早い。何よりも人と接し慣れているのだろう、断れない言い方というのを心得ているように見える。

 案の定というべきか、渋々ではあるがエリスが了承するように息を吐いた。


 腰のポーチを探って何やら取り出すと、それをカウンターテーブルの上に広げる。見れば地図のようだった。

「村に着く前にも言ったけど、現時点で目指してるのはここ」

「……ホロワ山脈か」

 指さされた場所を見る。シックがその名を口にした通り、確かにホロワ山脈を指してた。


「私たちが今いるのがここだから、このルートを通っていく予定」

「え?」

 反射的に声が出たのは、エリスが示したルートが明らかに遠回りだったからだ。ルーダの記憶が正しければ、エリスが示すそのルートが安全と言えるルートというわけでもない。

 そのあたりの事情はシックもさすがに知らないだろうが、必要以上の遠回りをするそのルートには不満を示すように顔をしかめた。


「時間がないと言うわりには随分と時間を浪費するルートだな。軽く目算しても5日は確実にかかる。ここをまっすぐ行けば2日とかからないように見えるが?」

「砂漠を通るのはリスクが高いわ。魔の領域だし」

「この迂回ルートでも魔の領域は通るだろ? 砂漠の魔はそんなに強いのか?」

 そこでエリスは口をつぐんだ。


 地図の上に置いていた指がすごすごといった様子で引っ込んいく。その指の動きを追う形で視線を動かしていけば、顔をしかめているエリスの横顔に行きついた。

 またルーダらには言えない何かがあるのだろう。出会ってからわずかな期間しか経っていないが、その表情からそれは容易に察せられた。


「魔の強さは変わらないけど、砂漠には軍の施設があるんだよね」

「え? ……え、えぇ。そうよ」

 助け舟のつもりで口にしたそれに、あからさまにエリスの顔に動揺が走った。何かまずいことを言ってしまったのだろうかと首を傾げる。


「軍の施設? 魔の領域にか?」

「うん。なんか魔の領域であることも利用した要塞とか言われてた気がする」

「なるほど、なんらかの軍事施設か。……行ったことがあるのか?」

「へ?」

 予想していなかった問いについ間抜けな声が出てしまった。

 思考停止の時間はまばたき2回分。


「まままままさか! そんな恐ろしいとこ行くわけないじゃん」


 胸の前でバタバタと手を振って強く否定。あの帝国の軍事施設に近づくなど想像するだけでも血の気が引いた。

「ならどうしてそんなに詳しい? 他国の人間が軍事施設の場所を把握しているのはおかしな話だ。君のような一般人ならなおさら」

「あ……え、えっと……」

 言われて初めて気が付く。疑問はもっとも。

 目が泳ぐのを自制できずにもごもごと口ごもる。その程度で追究の手を止めてくれる人ではないと承知していたけれど。


「……生まれが帝国なんだ。10年以上前にジスターデに移ったけど」

「ああ、そういうことか」

 観念して白状したルーダに対するシックの反応は思っていた以上に淡泊だった。帝国出身と言えば態度が変わる人が多いのに。

 単純に興味が薄かっただけなのかもしれないが、それでもルーダはその態度が嬉しかった。


「軍事施設があるから砂漠を避けて迂回するのか?」

「まぁ、そうね」

「さすがに警戒しすぎじゃないか? 施設に近づきすぎなければ軍もわざわざケンカを売ってこないだろ。それとも、個人的に砂漠に行きたくない理由でもあるのか?」

「そういうわけじゃないけど……できるだけ帝国軍と接触する可能性を排除したいの」


 どこか歯切れ悪くはあったものの、エリスの言うことには納得できた。

 帝国の軍人は横暴であることで有名だ。出生地を帝国とするルーダでなかったとしても、良くないうわさしか付きまとわない帝国軍と積極的にかかわりたいとは思わないだろう。


「――――まさかとは思うが、以前言っていた君を狙っているいろいろなヤツという中に帝国が含まれていたりしないよな?」


 沈黙が挟まれた後に慎重に紡がれたシックの問いは、エリスの顔を強張らせるのに十分な威力を持っていた。

 ひゅっと空気が抜ける音が耳に届く。それは自身が息をのんだ音だと、少し間を置いてから気付いた。


 沈黙は肯定だ。


 無意識のうちに動いた右手は胸元の布地をくしゃりと握りつぶしていた。

 帝国の軍人は恐ろしい。それはもしかしたら、魔に対する恐怖にも勝るかもしれない。


「フェアじゃないな。いくらなんでもそんな重要な情報を黙っているなんて」

「私が気を付けていればいいことなんだもの。わざわざ伝えなくたっていいじゃない」

「帝国相手に後手に回ることの危険性を知らないわけでもないだろ? 昨日の件にしてもそうだ。あの時点で君が魔に狙われていることを知っていれば、なんらかの対策が取れたはずだ。俺は怪我を負わずに済んだかもしれないし、少なくとも月種に襲われる覚悟くらいはできていたはずだ」


 勝手に怖気づいているルーダをよそに、鋭さを伴った声音でシックがエリスに非難めいた言葉をぶつける。わずかに煩わしげに眉根を寄せたエリスだったが、シックの言に対して反論することはなかった。


 はぁ、とシックがため息を吐くのが聞こえてくる。

「しかし帝国か……厄介なところに狙われているな、君は」

「好きで狙われてるわけじゃないわよ。あいつらが勝手に狙ってきてるの」

 少しだけ張りつめかけていた空気が緩んだような気がした。恐らくそれは、シックの声音から鋭さが抜けたからだろう。普段がああなだけに、少しでも硬さや鋭さが混じると途端に空気感が変わるのではないかと思う。後が怖いので本人には言えないけれど。


 グッとシックがグラスの中身をあおった。

「言うまでもないと思うが、帝国の軍人は横暴なことで知られている。その悪評は海を越えてヤマトの国にまで届くほどだ」

「ええ」

「昨年就任したばかりの総司令官殿は傑物といううわさだが、30代と若くしかも今は魔との戦争の最前線に立っている。まぁ、傑物というのはあくまでうわさだからどこまで信用できるかわかったものじゃないが、それが真実だとしても戦地に赴いている以上は国に残っている軍人たちの抑止力としては期待できない」

「うわさは本当よ。軍紀を整えたり王に直接忠言したりして、少しずつ国を良くしようとしてるもの」

「ん?」


 ぽきりと話の腰が折れる音が聞こえたような気がした。


 情報の共有と整理が目的なのか、言葉を連ねるシック。そこに補足なのかフォローなのか、現時点では特に必要としない情報を放り込んでくるエリス。一般レベルで空気の読める人だと思っていたが、実はそうでもなかったのかもしれない。


 シックの手が動いて頬をかく。珍しいことだ、反応に困っていた。

「とにかく、帝国に狙われているのならそのまま帝国領に入るのは危険極まりない」

「そうね」

 少々強引ではあるが話を戻したシックにエリスが同意を示す。その様子から、話の腰を折ったことには気付いていないらしい。


「ということでエリス」

「なに?」

「変装をしてくれ」

 きょとんと、エリス。


「君はイイ意味でも悪い意味でも目立ちすぎる。まずは象徴とも言えるそのバンダナを外そうか。服装は……そうだな、もっと露出を増やす方向でいこう。足を出すのはもちろんのこと、肩も出すといいな。胸元を強ちょ…っ――と」


 急に水を得た魚のように至極楽しそうにしゃべり始めたシックの口上は、エリスが無言で放った掌底を避けたことで途切れた。ニヤニヤと笑うその顔を見るに、エリスがどう反応するのか予め推測はできていたのだろう。途中まではまともなことを言っていたのに。

 半眼になったエリスの視線から逃れるように(かどうかは実際のところわからないけれど)、空になったグラスを持ち上げてシックが追加オーダーを行う。時間をかけずに液体の満たされたグラスがシックの前に届いた。


「シックの冗談はともかく、金髪は目立つから染めるとかしたほうが」

「それはイヤ」

 趣味全開なシック案の代わりに口にした案は、最後まで言い切る前に遮られた。振り返ってきたエリスの顔にはありありと不快気な色がうかがえる。


「そうだぞ、ルーダ。俺より先に自分色に染めようと抜け駆けするのは良くない」

 横から口を挟んでくるシックは無視しておいた。


 ちらりとエリスを見る。派手な色合いのバンダナから覗く金糸の髪はエリスによく似合っていた。見慣れているのもあるのだろうが、なんというか、うまい表現を見つけることはできないが、彼女にはその髪色以外に相応しい色はないような気がした。


「髪を染めるのは論外だとしても、変装くらいはしたほうがいいのかしらね」

「露出を」

「あんたは黙りなさい」

 挟み込まれたシックの横槍は最後まで言い切ることなく一蹴された。肩を竦めるシックは相変わらず反省はしていないだろうけれど。


「ねぇルーダ。どんな風に変装したらいいと思う?」

 己が欲に忠実な意見しか言わないシックよりもマシだと判断したのか、完全にシックを無視するようにルーダに体を向けながら、エリス。シックには失礼かもしれないが、正しい判断だと思う。


「もっと露出すべきだと本能の赴くままに言えばいいんだぞ、青少年」

「シックは黙ってて」

 視線すら向けずにエリスと同じくシックに告げる。落胆の気配も反省の気配もやはり感じられなかったけれど、それが逆にシックらしいのではないかと諦めの境地で思ったりしないでもない。悔しいことに。

 はぁ、と思わずため息がもれた。


「古来より伝わるお約束の言葉をキミに贈ろう。ため息をつくと幸せが逃げるぞ」


 誰のせいだ、との反論はやめておいた。言ったところで無駄に終わることは目に見えているし、無言でエリスが肩を叩いて慰めてくれたのでそれだけで十分だと思えたからだ。

 とりあえずシックは無視しよう――目線だけで思いが通じることなどかなり稀なことだとは思うが、うなずくエリスにはちゃんと伝わったような気がした。


「よくわからないけど、男装とかしてみたらいいんじゃないかな」

「男装ぉ~?」

「女の人の変装の基本かなと思ったんだけど」

「いや、なかなかの妙案だ」


 色よい反応を見せないエリスの向こう側から、2人して無視しようと決めたシックがまたしても口を挟んでくる。

 先ほどまでと同様に話の腰を折るだけの内容ならば、目配せした通りに無視をしていた。だけど普通に会話に加われてしまうと、無視を決め込むこともできなかった。

 渋々といった様子でエリスが振り返る。先をうながすように顎をしゃくると、シックの口元がにぃっと歪んだ。


「キミは実に男装に適している。なんたってさらしを巻く手間がいらな――」

 飛んだ平手はシックの頬に打撃を与える前に、手首をつかまれたことで止められた。


 やっぱり無視すれば良かった。後悔したところで遅い。


 陰険に唸ってシックを睨み据えるエリスと、そのエリスを相変わらずのニヤニヤ顔で見下ろすシック。

 またしてもため息がこぼれる。2人を止める気にもなれなかった。

 諦観の念を抱きながらお通しとして出されていたきゅうりの漬物に箸を突き刺す。店のドアが乱暴に開く音が聞こえてきたのはそんなときだった。


「エリスさーーーーん!」


 振り返ると同時に店内に響き渡る声。反射的に耳を塞いだが、男にしてはやや高いよく通る声はその程度で防ぎきれるものでもなかった。


「エリスさんエリスさんエリスさん!」


 騒音の元がどたどたと騒々しい足音を立てながらルーダらの前に――エリスのもとへと駆け寄ってくる。よく見る必要もない。ジスターデ国の首都で出会いそして別れたラドだった。

「っさいわね。そんなに呼ばなくても聞こえてるわよ」

 相変わらずノンストップでうるさいラドには慣れているのか、ちらりとも視線を向けぬままエリスが邪険に言う。ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるシックとの睨み合いも継続したまま。


 よほど急いで来たのか、到着するなり激しく咳き込み始めたラドに(自分が使っていたもので悪いけれど)水の入ったコップを渡してあげる。中身を一気に飲み干すラドを見上げ――それから、席を替わってあげたほうがいいのかと思いついて腰を浮かす。だけどルーダの動きには気付かずにラドは身を乗り出して、未だに睨み合いを続けていたエリスとシックの間に強引に顔を差し込んだ。


「大変ですエリスさん!」

「顔が近い!」

「ごめんなさーい!」


 狙ったように吸い込まれたエリスの左手がラドの左頬をひっぱたく。たいした力でもなかっただろうに、エリスの張り手の勢いに逆らうことをせずにラドはその場に左頬を押さえながら倒れ込んだ。そのまま目元を押さえてよよよと泣きまねすらし始める。

 慣れが感じられた。あるいは今の一連の流れが彼ら2人のコミュニケーションなのかもしれない。


 ラドの乱入のどさぐさで睨み合いから脱したエリスが、アルコールの満たされたグラスを片手に椅子を回転させる。泣き崩れていたラドがそれに合わせて背筋を伸ばした。床は汚いだろうに、きっちりと正座をして。


「で? なにが大変だって?」

「ここに来るときに帝国の軍人を見ました!」

「え?」


 聞き返したのはルーダだった。体を動かす筋肉が急に緊張し、吸い込む酸素が急に薄くなったような、そんな錯覚に襲われた。

 初めて見る真剣な眼差しをエリスに向けるラドを凝視する。うそや冗談ではない。それはラドを見ればわかった。

 国境の村とは言え、ここはまだジスターデ領。帝国の軍人を村中で見ることなどほとんどないはずである。

 めぐる思考に意味のない焦燥感を募らせるルーダの耳に、ガシャンと何かが割れる音が届いた。


「エリス?」


 音の発生源は足元。床には砕け散ったグラスがあった。

 怪訝な声を上げるシックに導かれるようにエリスを見る。蒼白な顔があった。尋常ではない。そう一目でわかるほどに。

 疑問に思うほどの急変だった。帝国の名を話題に出していてもそれほど顕著な反応を示さなかったのに。一般的な人間の帝国に対する嫌悪感と同じくらいの反応でしかなかったはずだ。

 カタカタと小刻みに震える姿は異常の一言に尽きた。


「――これはこれは」


 声。店の入り口から。ざわ、と店内がざわついた。

 転じた視線の先には入り口をふさぐように立つ男の姿。

 隣から短く息を飲むような悲鳴が聞こえた。


「まさかとは思ったが本当に生きていたとはな、エリシアナ・バードランド」


 巨躯という表現がふさわしい大柄の体格の、帝国軍の軍服に身を包んだ男性。

 エリスの体が傾いて、倒れた。



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