68 - 悪巧み
薄く水が張った地面を踏みしめる。パシャリパシャリと音を立てるくせに、足裏から伝わる感触はふわふわしていた。
ひどく清らかな空気は、清浄過ぎて逆に息がしにくい。吸い込んだ空気はどことなく甘い気がした。
視界の中には水泡が多数映し出されている。シャボン玉のように揺蕩う水泡は、触れようとすると嫌がるように遠ざかった。時折、キュ、と鳴くような音も聞こえてくる。
その場所を一言で表現するとすれば、幻想的という単語以外には思い浮かばなかった。
神々がおわす桃源郷がこの世に存在するとしたら、恐らくはこんな場所なのではないかとすら思えた。
それだけ現実離れした空間だった。
ただひとつだけ残念な点をあげるとすれば、その幻想空間の先に待っているのがあの性格の捻じ曲がった女だということだ。
「我に至る道は月光に照らされ、陽隠せし岩戸は暁の訪れを待ち望み、頂へと誘う階は月滴に洗われる。玉座に相応しき者だけが我に触れられ、夢喰い人が我を覚醒させし時、黄昏の刻は始まる」
今や呪われた言葉にしか聞こえないその記述文は詠うように紡がれる。
意味は今に至ってもさっぱり理解できないが、こういった記述文にはそもそも意味などないのかもしれない。もしくは作った本人の都合の良い、あるいは作った本人にしか意味を持たないものであるか。
いずれにしろ心底どうでもいい。内容がなんであれ、それを実現させるつもりは欠片もないのだから。
天をも貫かん勢いでそびえ立つ大木の前に女は立っていた。
この場に現れたのが化け物に変貌したラドではないというのに、女に動揺の気配はなかった。ただ怪訝な顔はしていた。
「……エリスは?」
そう、いないのだ、エリスが。この場に現れたのはシュキハとルーダの2人のみ。エリスとシックの姿はない。
「おばさんの顔は見たくないからって帰ったよ」
煽るようにルーダが言う。
本来はシュキハに任されるはずだった挑発だったが、大根だからというエリスの一言でルーダに回された。挑発は棒読みにならないとのシュキハの主張は皆に聞き流された。
「ふふ、馬鹿なことを。帰るはずがないわ、あの子が――」
「おばさんの声も聞きたくないってさ。おばさんが嫌いだから」
女の口上を遮り、ルーダ。おばさんを強調して何度も言うあたり、確かにシュキハには真似できない。大根とは関係ないが、エリスの判断は正しかったと言える。
気色ばむ女に気後れする様子もないルーダは、初対面のときと比べて随分と度胸がついたと思う。頼りなさは残るものの、強かになった。
場違いにルーダの成長に感動するシュキハをよそに、ルーダの挑発は確実に成果を上げていた。
「賎民の分際で――!」
「えー、選ばれた民だなんて照れるなぁ」
わざとらしく照れたように頭をかいてルーダがはにかんでみせる。
女の言葉が詰まった。そこで怒りが臨界点を超えたらしい。
はにかんでいた表情を戻し、ルーダの目が細められる。
「魔笛クライシスによる思考誘導」
「…………ふん、卑賤なクズの中にも物を知っている者がいるようね」
同じく女が目を細める。視線に乗っている侮蔑の感情がより濃さを増した。
「それでエリスを遠ざけたのね。けど無駄よ。一度笛に魅入られれば抜け出すことはできないの」
「エリスの強さを過小評価しないほうがいいんじゃないかな。シックもそばについてるし、理屈に合わない行動はさせないよ」
「ふふ、あなたのその行動も誘導された結果だとは思わなかったの?」
「おばさん、笛の力がなかったら誰にも好かれなかったんじゃない?」
勝ち誇った笑みを浮かべる女に対して、それでもルーダは一歩も引かない。
目を吊り上げた女に対してルーダは微笑んでみせた。
「魔導的な観点に立つと、笛の本体を破壊しても影響力がなくならないことはおかしなことなんだ。持続的に効果を発揮するには魔力の供給が必要不可欠」
背負った槍を右手に構える。左手はまだ使用するなとルーダに厳命されていた。完全にくっつくまでは無理をするなということらしい。
「破壊した笛が偽物かとも思ったけど、笛からは確かに魔力の残滓があった。あれが魔笛クライシスであることは間違いないはずなんだよね。ただ気になるのは、魔力の残滓がとても微量だったこと」
「……何が言いたいのかしら?」
「おばさん、笛の力の核部分を取り込んでるでしょ?」
淡々と糾弾するルーダに合わせて槍を横に振る。宙をふわふわと彷徨っている水泡がいくつか破裂した。
「エリスにかかってる思考誘導はおばさんを始末したら消える。……違う?」
一歩進む。
女は半歩後退った。
「おばさんを守る戦力はもうない。悪いとは微塵も思わないけど、死んでもらうよ」
駆けだす。喉の奥で女が息を引きつらせた。
ルーダの読みは当たった。後はさっくりと殺すだけ。
首を切り落としても再生した女ではあったが、化け物ほどの再生力は女にないはずだ。
引きつった顔をさらす女に槍を突き出す。避けられるほどの反射神経も運動神経も女にはなかった。
ガギッ
正確に心臓を狙ったはずの槍が動きを止めた。見えない壁に阻まれて。
目を見開くシュキハの目の前で、女もまた驚いたように目を見開いていた。
「シアちゃんに手を出すなんて、オルフェやんやんなんだからぁ」
声は背後から聞こえてきた。
振り返れば、鮮やかな橙色の髪をそよがせて楽しそうにオルフェが笑う。
シュキハの槍を阻んだのは、オルフェが展開させた魔力障壁だった。
「なんで?」
想定になかった妨害者だった。
毛を逆立てて警戒の威嚇をする犬のように、ルーダが胡乱に目を据わらせる。オルフェ相手にはほとんど脅しにもならないだろうに、体内から魔力を放出させて臨戦態勢を取っている。
そんなルーダを見ながら、やはり少しも動じた様子も見せずに、むしろ不満そうにぷっくりと頬を膨らませた。
「だってぇ、シアちゃんはオルフェの獲物なのに横取りしようとするんだもん」
「もんって……だったらおれらが来る前にさっさと片付けておいてくれたら良かったのに」
「オルフェもそうしたかったんだけどぉ、返り血が気持ち悪かったからぁ」
「え゛!? まさかシャワー浴びに帰ったの?」
「うん!」
元気いっぱいうなずくオルフェにルーダが頭を抱えた。
さすがは敵ではないが味方でもない女である。生まれ育ちの歪さゆえにか、彼女の中の常識は基本的に世間の斜め上どころではないところを独走している。善悪も独自の基準を持っているに違いない。
「じゃ、じゃあ、譲るからどうぞ」
いろんな文句を呑み込んでルーダが女を示す。
それに機嫌を良くしてオルフェは女へと顔を向け――はしなかった。喜ぶそぶりすら見せずに何かを考えるように低く唸る。
ますます困惑したようにルーダの眉間に寄るしわの深さが増した。
「何か問題でもあるの?」
ちらと女を見る。オルフェの魔力障壁に守られている間に逃げ出してでもいるかと思いきや、焦ったように歯噛みしているだけだった。
よく見れば、魔力障壁は女を守るようにではなく、女を逃がすまいとばかりに女を取り囲んでいた。なんの意識もせずともシュキハにも視認できるほどに強力な魔力障壁は、同時に獲物を捕らえる壁にもなる。これを打ち破るには並の魔導師が隊列を組まなければ難しいだろう。
「あのねあのね、オルフェね」
「う、うん」
「シアちゃんを殺すのは当然だけどぉ、ヴェザちゃんも殺したいんだぁ」
「ヴェザ?」
「黄昏のことだ。不遜にも神王を名乗るくそ忌々しい存在だ」
ああ、と納得したようにルーダがうなずく。情報共有をしたつもりだったが、名前だけは言っていなかったようだ。もしくはルーダがどうでもいいことだとして忘れてしまったか。
ニィッとオルフェの口角が上がる。思わず背筋が凍りつくほど、それは無邪気な悪意を宿した笑みだった。
「だ・か・ら」
ぱちんと指が鳴らされる。
「きゃっ!」
エリスが降ってきた。シックと共に。
ぱしゃんと水が跳ねる音が大きく響く。どこにも水は跳ねていなかったが。
「いったた……あ、ちょっと! 変なとこ触らないでよ!」
「君のクッションになったんだ。ご褒美くらいもらっても良くないか?」
「言いながら撫で回すんじゃないわよ!」
こんな状況だというのに、シックは相変わらずセクハラをかますことをやめなかった。なんとなくオルフェが羨ましそうな表情なのは気のせいだと思いたい。
「ふ…………ふふふ、ふ、は、あーっはっはっはっは!」
立ち上がったエリスの視線が、シュキハの背後に滑った。
耳を塞ぎたくなる甲高い哄笑に顔をしかめる。
「素晴らしいわ! あはは! そうねそうよあなたならそうすると思ったわ!」
「やぁん、シアちゃんに褒められちゃったぁ」
女が両腕を広げる。顔は喜色に紅潮していた。
「開かれよ、暁と宵の狭間を揺蕩う扉! 祝福せよ、我が火輪!」
「シュキハ!!」
怒号にも似たルーダの声が轟く。
はっとしたようにシュキハは槍を引いた。
「インドラ!」
閃光が空間を焼く。
「桜華二槍流奥義! 黄釣船!」
引き絞った筋肉がぎしぎしと収縮する音が、鳴り響く轟音の中で確かに聴覚が捉える。
弾けるように解き放たれた力が槍を打ち出す。ルーダがオルフェに攻撃を仕掛けたことで外された魔力障壁は、弾丸のように放たれた槍を邪魔することはなかった。
「来たれ、黄昏!」
槍が女の胸を貫いたのと同時に呪は完成した。
振り返る。
「ああ!」
声帯が勝手に震えた。
「ふ………ふ、ふふ。綺麗よ、エリス。私の可愛いエリス」
エリスを中心に広がった魔導陣が、その効果を発揮していた。
そこにいるのは――いや、あるのは、一輪の蕾。
先のほうに行くにつれ鮮やかな赤を帯びる蕾は、エリスを呑み込み開花のときを待つ。その蕾は睡蓮の花によく似ていた。
絶望が足元をすくう。膝から力が抜けていくのを感じた。
「己の驕りを悔いながら死になさない。世界を破滅に導いた化け物として、私の世界で名を残してあげるわ」
「えー? オルフェ嬉しくなぁい」
狂ったように女が笑う。くすくすとオルフェも笑った。
2人の狂人の、それぞれ異なる笑い声を背に受け、赤の蕾へと駆け寄る。同じく駆け寄っていたルーダが、閉じた花弁をめくり上げようとしていた。シュキハもまた花弁をつかみ引き下げる。
が、どれだけ力を込めても花弁はびくともしなかった。
「くそっ!」
まだ間に合う。きっとまだ間に合う。
使うなと告げられた左手にも槍を構えて女を睨み据える。
あれを殺せば。あれの息の根を止めれば。あれの存在を否定すれば。
迸る憤怒の感情は眼光にまで乗ったのだろう、胸に穴を開けた女が痙攣するように頬を引きつらせた。それでも女が怯まなかったのは、己が優位性を確信しているからだ。
――今すぐその喜色に歪んだ顔をぐちゃぐちゃにしてやる。
滾るままに駆けだそうとしたシュキハの腕を、後ろからつかむ者がいた。
「待って」
ルーダだ。
非難の意味も込めて睨みつけると、びくっと肩を震わせながらもルーダは手を離さなかった。
「シュキハ」
「邪魔をするな!」
恫喝の声を上げながら腕を振る。
あっさりと解けると思っていた手は、しかし予想に反して外れなかった。
「ここからだよ」
「は?」
「見どころはここからなんだよ」
「……なに?」
気づく。
ルーダの口元に浮かんでいたのは笑みだった。
体を支配していた怒りの感情が、波が引くようにスーッと引いていくのがわかる。ルーダの笑みは今までにないほどに生き生きと、同時に見たこともないほどの悪辣さに彩られていた。
平たく言えば、シュキハはルーダの笑みにゾッとした。
「魔導師が悪意を持って描いたシナリオの、その底意地の悪さを見せてあげる」
「讃えなさい。私のエリスの生誕を」
ルーダの囁きが届かない女が、高らかに最後の呪を唱えた。
蕾は呪に答えて発光する。禍々しく。
溢れ出す魔力に気圧されて、シュキハは後退った。ルーダに腕を引かれるままに蕾から距離を取る。
神々しさすら感じてしまう光の中、開花した蕾の中心に――
「悪いな、俺はエリスじゃない」
シックがいた。
「へ?」
目が点になった。
女も同様に。
そういえば蕾が出現したのと同時にシックの姿も見えなくなっていた。エリスのことで頭がいっぱいになって全然気づかなかったが。
「きゃはははははははははははははは!」
鈴を転がしまくって不快な音をまき散らすように、オルフェの笑い声が響き渡る。
「じゃーん! ここに用意しましたは、リっちゃんの心臓として動いていた黄昏の鍵でございまぁ~す」
「そしてここに用意しましたは、そのエリス君の実物でございます」
「分!」
「離」
「成!」
「功」
男女の声が唱和する。テンションは違うが、実に楽しそうに。
錆びついたブリキのようにうまく動かない首を巡らせる。
オルフェは先ほどから一歩も動いていなかった。右手にグロテスクな臓器を持っている以外に特に変わったところはない。
ルーダのすぐそばには素顔をさらした薄着のパレニーがいた。傍らにエリスの姿もある。
満面の笑顔だった。ニコニコと愛嬌のある可愛らしいオルフェ、ニコニコと爽やかな癒しオーラを発するパレニー、おまけにニコニコと誇らしげに鼻の穴を広げたルーダ。
どこか後ろめたそうに、ちらとこちらを見るエリスの視線で、なんとなく察した。この作戦の核部分、シュキハにだけ知らされていなかったことに。
あれか。敵を騙すにはまず味方から。大根に台本は不要、アドリブでこなせ。
今度こそシュキハは膝から崩れ落ちた。
「黄昏の鍵って言うかぁ~、むしろこれがトワイライト・ストーンそのものなんだけどね? これさえ分離しちゃえば、リっちゃんの体にヴェザちゃんが降りることはできませぇん」
「おまけに私がエリス君の体内に流れる時間を封印したから、再度寄生させようとしても不可能」
「さらに付け足すなら、シックに対して黄昏解放の魔導を放ったおばさんに、もう一度それを発動させるだけの魔力は残ってない」
3人の魔導師が口々に告げる事実に、見る間に女の顔から血の気が失せていった。
絶望に蝕まれた人間の浮かべる表情だ。今の今まで憎悪の対象でしかなかった相手なのに、憐みの感情が湧いてきてしまうのは、同じく騙された側の人間だからだろう。
「仙女ちゃんを殺してまで、リっちゃんにヴェザちゃんを降ろそうとしたのに、残念だったねぇ。ねぇねぇシアちゃん。今どんな気持ち? オルフェに教えて? ねぇ?」
他人の心を抉ることを至極の楽しみにしているかのように嬉々として、オルフェが問いを重ねる。今の女には惨めという言葉以外に似合いそうな言葉は見つからなかった。
オルフェの右手の中で、血まみれの心臓――オルフェの話では黄昏の鍵であると同時に黄昏の石そのものらしい――が拍動する。みちみちと蠢く血管が、オルフェの腕に絡みつこうと不気味に動く。
宿主を失い次なる宿主を探しているのだろうか。
そのまま握りつぶしてしまえば、黄昏も消滅するのかはシュキハにはわからない。
無感情にそれを見下ろしたオルフェの顔に、妖しげな笑みが浮かんだ。
「保有する魔力量が魔すら超え、寿命の概念が限りなくゼロに等しく、リっちゃんと同じ因子を持つ。ヴェザちゃんを降ろす器としては十分だよね」
「オルフェ?」
独り言のようにつぶやくオルフェに、エリスが疑問の声を上げる。
にこっとオルフェが笑った。
「ねぇ、シアちゃん。そんなに世界が欲しかったら、シアちゃんがなればいいんじゃないの? ヴェザちゃんの器に」
ふわり、ふわり。近づくオルフェに女が悲鳴を上げた。
おぞましい魔力を垂れ流し始めた心臓を片手に、凄惨な笑みを浮かべたオルフェが近づいていく。女の胸にはまるで心臓を待ち受けるかのように、おあつらえ向きに穴が開いていた。
「やっ! やめ――っ!」
「なんで逃げるのぉ? 自分の娘にさせようとしていたことなのに、なんで自分は逃げるのぉ?」
「いやぁーーー!!」
「あは」
空間を操るオルフェから逃げられる可能性は、初めからあるはずがなかった。
手始めに両肩が吹き飛ばされた。
次に足首が吹き飛ばされた。
段階を追って、膝、腿、ときて股関節が。
聞こえてくる悲鳴は、破裂音がするごとに小さくなっていった。
目を逸らしたい衝動を抑えて、オルフェが行う所業のすべてを視界に収める。エリスやルーダが目を逸らしても、自分は目を逸らしてはいけないと思った。
「愛してるわ、シアちゃん」
胴体と分離した女の頭を撫でて、うっとりしたようにオルフェが微笑む。血しぶきが降る中で、狂人は美しく。
残された胸の穴へと心臓をねじ込む。
「――太陽は燃えているか?」
血の色よりも鮮やかに、蕾は女のすべてを呑み込んだ。




