67_1 - 化け物たちの宴
大気を震わせる咆哮はあたかも赤子の産声のように。
まるで悪夢を見ているようだった。
「ふふ、ふふふふふ」
呼応するように笑い声が響く。
「本当にあなたは馬鹿ね、エリス」
女だった。
切断された首を擦りながら、なんでもないように立ち上がる。己の血で紅く染め上げられたドレスをさらして、女は妖艶に微笑んだ。
「だから言ったのよ。あなたがこちらに来ればすべてが丸く収まると」
ますます女の笑みが深くなった。慈悲に似せた狂気を乗せて。
ラドの血走った眼が獲物を求めて彷徨う。
「全員殺してしまいなさい。エリスの目の前で、ね」
雄叫びが空間を満たす。
怖気づきそうな己を奮い立たせてルーダは鞭を構えた。
初対面のときに比べると恐怖心は薄い。それの正体が誰なのか知ってしまったからなのか。吐き気だけは強い。正体を知ってしまったからだ。そしてわかってしまったからだ。
――もう元には戻せない。
噛み締めすぎて奥歯がぎしぎしと鳴る。感情的になるなと思念リンクを通して告げてくるパレニーの声もナルの声も、沸き起こる憤怒を鎮めることはできなかった。
雄叫びが終わらぬうちに両腕を前方に突き出す。化け物に成り下がってしまったラドに。
「やだ! やめて!」
後ろに下がらせていたエリスが突き出した腕に飛びつく。突き飛ばすようにしてルーダはエリスを振り払った。
「クロス――」
「やめて!」
「ライトニング!」
持てる限りの出力でもって放たれた雷撃が大気を引き裂き化け物に迫る。雄叫びを上げる化け物の顔面に狙い違わず雷撃は直撃した。
「ラド!!」
身を裂く悲鳴が響き渡る。
ルーダは攻勢の手を止めなかった。
魔力回復の金平糖を服用しながら連続で雷撃を放つ。すべてがすべて狙い澄ましたかのように化け物に被弾した。
黒煙に包まれる化け物。
なおも手を休めずルーダは右手を振り上げた。
解き放つ魔力に応えて、化け物の頭上に黒雲が立ち込める。帯電する黒雲にありったけの魔力を送り込むと同時に力ある呪を放つ。
「インドラ!」
轟音と共に雷が化け物を貫いた。
もう戻せない。もう戻れない。
そんな彼を救う方法が死なせてやる以外にあるだろうか。
シックにもシュキハにも手出しはさせたくなかった。エリスに憎悪の感情を向けられるのは自分ひとりだけで十分ではないか。魔導師として思考した結果、それが最善策として残った。それ以上のことは思いつかなかった。
憎い。恨めしい。女が。人の命を軽々しく使う女が。
「ふふふ、愚かしいわね」
余裕の態度を崩さず女は笑う。
身構えるルーダの目の前で――化け物の姿が消えた。
え、と呆けた声を漏らす暇もない。背後に質量感のある気配。
体を捻りきる前に衝撃が体を貫く。ことはなかった。のみならず捻りきった体の先に化け物の姿はなかった。あったのは肉の塊、いや豊かな双丘。慣性の法則に逆らえずに突撃した顔が柔らかな双丘に受け止められた。
「やぁん、積極的ぃ~」
頭上から糖度の高い声が降ってくる。
「あは、相変わらず性格悪いねぇ、シアちゃんは」
頭を押さえつけられてむぎゅむぎゅと双丘に押し付けられる。苦しくてバタバタと腕を振ったらあっさり解放された。
「出たわね化け物」
「やぁん、シアちゃんのイ・ジ・ワ・ル。オルフェとってもとぉっても探したんだよぉ? シアちゃんってばかくれんぼ強くなったね。前はあんなに弱かったのに」
額を押されてたたらを踏む。
くすくすと笑う声が追いかけてきた。
「しかもお人形さんなんて作っちゃって。オルフェで失敗したから一から作るのは諦めたのぉ?」
「あの化け物を黙らせなさい」
びりびりと大気が震える。慌てて振り返ると、目の前にまで化け物が迫っていた。
なぜか化け物の向こう側にエリスがいる。先ほどまですぐ近くにいたのにいつの間に移動したのだろう。現実逃避気味にそんなことをぼんやりと考える。化け物のスピードが速すぎて回避行動を取るには既に遅すぎた。
背後から回ってきた腕が首を抱く。引き寄せられるままに背後にもたれかかると、頭の裏に柔らかい感触が当たった。
「化け物は2人もいらないのにねぇ? シアちゃんっておばかさんだよねぇ?」
伸びた腕の先から展開された魔力障壁が化け物の振り下ろした腕を受け止める。
物理的な攻撃は防げないはずの魔力障壁は軋み音ひとつあげなかった。
「サンオブサン」
耳元で囁かれた言葉に鳥肌が立った。
眼前で化け物が爆ぜ飛ぶ。魔力障壁に阻まれて肉片が降りかかることはなかったけれど、空間に張り付く肉片の生々しさに思わず目を逸らしてしまった。
圧倒的な力。逆立ちしても足元にも及ばないほどの。
叫び声が聞こえてくる。半狂乱になったエリスの悲鳴だった。シックとシュキハの2人がかりで抑え込んでいるが、喉を引き裂くような叫び声はいつまでもこだましていた。
「お人形さんはお人形さんでしかない。化け物にはなれないんだよぉ?」
「それはどうかしら」
飛び散った肉片がぼこぼこと沸騰するように隆起する。
「あなただけが特別だと思わないことね、化け物」
逆再生のように肉片が集まり化け物が再生される。この世の光景とは思えなかった。
「あは」
耳元で声が、無機質な笑い声が聞こえた。
「蹂躙なさい」
化け物が4本の腕を振り下ろす。
一瞬の浮遊感が体を襲った。
衝撃音が耳に届く――結構遠くから。
「わ、わ、わ」
足の下に地面がなかった。何かを踏みしめている固い感触はあるのに、そこには何もない。
遥か下に化け物の姿があった。あの巨躯が小さく見えるほどの高度にルーダはいた。背後からオルフェに抱きしめられたまま。
「暴れないでね」
「ひゃっ!」
耳に息を吐きかけられて変な声が出た。
いつの間にか脇の下からお腹に回った手がへそのあたりを撫で繰り回す。くすぐったくて身悶えするルーダの反応を楽しむように、背後のオルフェがくすくすと笑った。背中に当たる感触が柔らかくて、顔に熱が集まっていくのがわかった。
足下から化け物の咆哮が聞こえてくる。
セクハラされて恥ずかしがっている場合ではない。
「あ、ああああの!」
「なぁにぃ?」
「ひあぁ!?」
へそ周辺のさらにその下へと向かいかけていた手を慌てて止める。
「ちょ! やめ! っや!」
慣れた手つきで脇腹をくすぐり、ルーダの手が緩んだところでベルトを外しにかかる。必死に抗うルーダを嘲笑うようにオルフェの手は巧みに動いた。
大変な状況だというのになぜ貞操の危機を感じなければならないのか小一時間問い詰めたい。いや、やっぱり逃げたい。
緊張とか羞恥とか混乱とか、いろいろ入り混じって目が回る。
くすくすくすくすと実に楽しそうにオルフェが笑った。
「わかってるよぉ? あの子への対応でしょう?」
「へ?」
ベルトを必死に死守するルーダの耳元で囁くようにオルフェが言う。
「でもでもぉ、あの子無限再生しちゃうからどれだけ攻撃しても無駄なんだぁ」
「無限再生って……ひゃっ! ふ、ふえのこ、効果?」
「それに加えて体もいろいろ弄ってるんじゃないかなぁ。こんな風に」
「にあ!」
ベルトは諦めてくれたのか今度は首筋を攻め始めた。
仮にも真面目な話をしているのに、なぜ同時進行でセクハラができるのだろうかこの人は。
「体を構成する魔導回路がずたずた。あれで精神が正常に維持されてたら奇跡」
「も、元には戻せないの?」
「ムリ」
考える間も挟まずに即答される。無情な答えではあるけれど、ルーダも同様の答えに辿り着いていた以上は文句を言う権利はない。
やるせなさからため息が漏れた。
――と。
顔に影がかかった。
オルフェに顔でも覗きこまれたのかと思って顔を上げ、それが間違っていたことを知った。喉の奥で押しつぶされた悲鳴が漏れる。
化け物が飛び上がって腕を振り上げていた。
あの高度を跳躍してきたのか、いよいよ化け物じみた身体能力だと言わざるを得ない。
迫る振り下ろされた手を見ていたら再度の浮遊感に襲われた。
「殺すのは簡単だけどぉ、それやったらオルフェ絶対にリっちゃんに嫌われちゃうでしょう?」
瞬きの刹那にまた場所が移動していた。今度はちゃんとした地面に足がついた。
空間移動なんだろうか。流石は空間属性のエキスパート。一瞬の浮遊感を覚えさせるだけで、おまけに魔力をほとんど感じさせずにスムーズに行えるとは尋常ではない。
確かにこれだけ卓越した魔導技術と底の見えない魔力の持ち主ならば、無限に再生する化け物を消滅させることは可能だろう。
こくんと喉が鳴る。
着地した化け物の血管の浮き上がった眼球がこちらを、オルフェを捉える。
「エリスにはおれから説明する。だから、だから――」
突進してくる化け物を見据える。
決断しなくては。自分は魔導師なのだから。進んで泥を被らなくては。
歯の付け根が合わない。喰いしばれば喰いしばるほどカチカチと歯は鳴った。
「… ―― …… ―― …」
「え?」
かすれた囁き声は密やかに。
浮遊感が体を襲う。
「逃げ回るのはやめてようやく観念したのかしら?」
「やぁん、オルフェがそんなかっこ悪いことするわけないじゃん」
遠くから会話が聞こえてくる。
ルーダだけが空間移動されたらしい。近くにはシックたちがいた。エリスはどうやら恐慌を脱したようだけれど、まだ安定はしていない。
化け物との戦いをオルフェは真面目にするつもりはないらしい。振り下ろされた拳をひょいひょいと舞うように避ける姿はどこか楽しそうだ。しゃらしゃらと聞こえてくる軽やかな音が彼女の舞のために用意されたBGMのようだった。
化け物はどこを見てもラドの面影など見出せない。意識しなければ感知できないかすかに残る魔力だけが、その化け物をラドと証明する唯一だった。
「シアちゃん、シアちゃん、嗚呼可哀想なシアちゃん」
「早く殺してしまいなさい化け物!」
クルクルと舞い踊るオルフェの挑発に女が癇癪を起こす。オルフェの動きに翻弄されっぱなしだった化け物が憤怒したように短く吼えた。
舞の終わりにオルフェがぴたりと動きを止める。
口元に浮かぶのはただただ楽しそうな笑み。
化け物が地を削り跳躍する。
「どれだけ変質して人の枠を外れようと、人は人以外にはなりえない。化け物として生を受けた者だけが化け物足りえる」
「いいえ、化け物は作ることができる。ノエキスト王朝の、いいえこの私が! 私が神より授かった力を持ってすれば」
「太陽神様に愛されているのはシアちゃんじゃない。オルフェだよ」
「ならばあなたを殺して神の寵愛を奪い取ってあげるわ」
化け物の拳がオルフェに叩きつけられる。展開された魔力障壁がひしゃげ甲高い悲鳴を上げた。
「終わりをあげる。哀しいお人形さん」
空間が切り裂かれた。化け物を取り囲むように。
目を瞠る。
空間を切り取る魔導の美しさにルーダは目を奪われた。途方もない大きさの点描画のように細やかで、渓谷を流れる水のように滑らかで、覗き込んでも底が見えないほどに深遠で、踏み荒らされていない新雪のように清らかで。
それは完成されたひとつの作品だった。自然には生まれない芸術だった。
そして同時に。
おぞましい。恐ろしい。惨たらしい。禍々しい。
原始的な感情を揺さぶり起こすほどに凄まじい魔力を放っていた。全身の毛という毛が総毛立つ。開いた毛穴からは絶えず汗がにじみ出てくる。内臓すら冷えていく感覚があった。
「暗黒太陽」
呪は紡がれる。厳かに、大胆に。
切り取られた空間にはただ“無”が広がっていた。いや、広がっているという表現は相応しくない。文字通りそこには何もなくなっていた。
化け物の姿も、空気も、光も、魔力も、空間そのものも。
震えが止まらない。
見せつけられたのは“存在の否定”だった。
空間属性における究極の到達点とも言える、およそ人間には実現不可能と言われた禁忌だ。どれだけの魔力があればそれが実現できるだろうか。想像もできない。
まさしく彼女は化け物だった。彼女こそが化け物だった。それ以外の表現が見つからないほど圧倒的に。
エリスが崩れ落ちる。化け物の、ラドの死は揺るぎないものだった。
発狂する暇もない一瞬で、血肉の一片たりとも残さず綺麗に消し去ってしまった。現実感を伴わないことはエリスの精神的には良いことだったのだろうか、悪いことだったのだろうか。
「さ、次はシアちゃんだよ?」
さも今の出来事などなかったかのようにオルフェがにっこりと笑う。彼女にしてみれば禁忌だろうと適当に指を振ったのと同じ程度の労力でしかないのだろう。現にオルフェから感じられる魔力の量は目減りしているように視えない。
今まで散々常識外れだと思っていたパレニーやニッチが小粒に見えるほど、オルフェの強さは常軌を逸していた。
この人に任せていれば黄昏なんて簡単に退治できるのではないかと思えてくる。そこまで協力的に動いてくれるとは思えないけれど。
「二度と復活もできないようにしてあ・げ・る・か・ら、安心して消えてねぇ?」
よろめくようにして女が後退する。
満足そうに笑んでオルフェはふわりと宙に浮いた。
「馬鹿ね」
足元に血肉が飛び散る。
思考停止。状況の認識能力が著しく低下していた。
化け物がいる。オルフェを両手で押しつぶして。まるで蚊でもつぶすように。
「空間を操作できるのが自分だけだと思わないことね。ふふふ、もう聞こえないかしら」
狂ったように響き渡る女の哄笑。
――何が起きた?
状況の理解を脳が拒む。
「全員始末してからエリスを連れてらっしゃい。抵抗するようなら手足を折っても構わないわ」
エリスを流し見る女の眼差しはゾッとするほど冷たかった。
「あなたが初めからママの言うとおりにしていたら、誰も不幸にならずにすんだのに」
「ふざけるな! 仕組んだのはすべて貴様だろう!」
吼えるシュキハに蔑みの視線だけを送り女は踵を返した。
遠ざかる背中。声をかけることも、手を伸ばすことも、エリスにはできなかった。
化け物がこちらへと足を進める。
シックが、シュキハが、各々の武器を構える。
ルーダは――ルーダだけは、腰が抜けて立ち上がることもできなかった。
だって敵いっこない。間違いなく化け物級のスペックを持った魔導師があんなにもあっさりと殺されてしまったのに。無限に再生し続けるのに。空間を渡ることができる化け物なのに。
いったいどこに勝てる要素があるというのだろう。
地面を揺らす化け物の歩みが止まる。
顔に血が飛び散った。
生温かい感触が頬を伝う。臭気を伴う液体の中には肉片が混じっているようだった。
「あーあ」
飛び散った肉片のひとつひとつ、血液の一滴に至るまで隈なく空間が切り取られて消滅していく。それも瞬きも追いつかないほどの速さで。
「この程度の演出で騙されちゃうなんて、脳みそ劣化しちゃったのかなぁ~?」
ふわりと降り立ったオルフェが心底不思議そうに小首を傾げてみせる。視線は女が消えた方角に向けられていた。
「空間を渡る魔導を阻害することなんて簡単にできちゃうのになぁ。空間操作でオルフェに勝てるわけないのに」
すべての肉片と血液が消滅したのを特に確認するそぶりも見せず、ふわふわとした足取りで近づいてきたオルフェが座り込んでいるエリスの前にちょこんとしゃがみ込む。呆然としていたエリスがはっとしたように顔を上げた。
オルフェがにこっと笑う。今しがた化け物を爆裂四散させてかつ存在否定を行ったことを感じさせない自然さで。
「あのね、あの子を戻してあげることはオルフェにはムリだったの。リっちゃんが泣いてるから戻してあげたかったけど、あそこまで変質しちゃった子を無理やり戻しても心まで戻らないから」
形の良い眉がきゅっと寄る。
「殺しちゃったのは、ごめんね。あれ以上シアちゃんのお人形さんでいさせるのは可哀想だったから」
「それは――」
――自分が頼んだから。
言いかけた言葉はオルフェのいちべつで止められた。にっこりと笑って口を挟むことを拒まれる。
泥を被る気でいるのだと。
唇を噛んで顔を伏せる。ぎゅっと目をつむると目の端から涙がにじんだ。
「オルフェのこと仇だと思って。この後シアちゃんも殺しちゃうつもりだしちょうどいいでしょ?」
誤解していたかもしれない。オルフェという人物のことを。
可愛らしい外見とは裏腹に平気で残虐なことを口にしたり実行したりできる人だけれど。時と場所を選ばず己の欲望のままにセクハラをかます人だけれど。絶大な魔力を持ち禁忌すら指先を動かす程度の労力で発動できてしまう人だけれど。
三魔人の仲間を大事にしているし、だからこそ捻くれ者のニッチに好かれている。いつでもニコニコと笑っているし、だからこそそこにいるだけで場がパッと明るく華やかになる。
決して悪い人ではない。
いい人でもないのだろうけれど。
少なくとも敵ではない。あの女が生きている限りは。
「あのね、あの……あの子にも伝えたの」
「つた、えた?」
「オルフェの空間の中にいれば今のままでいられるけど、シアちゃんに見つかったら二度とリっちゃんのところには戻れないよって」
エリスの目が大きく見開かれる。
「でもでもぉ、『僕は最後まで奥様を信じたいから』って言って行っちゃったの」
にじんでいた涙がぽろぽろと溢れ出す。
あんまりではないか。信じようとしていた女はラドを道具としか見ておらずその名前すら憶えてない。あまりにもラドが哀れすぎる。こんなことが許されていいのか。
「これ、あの子から預かってたの。リっちゃんに渡すね」
差し出されたのは便箋だった。シンプルなデザインの、封筒にも入れられていない手紙。
「ごめんね」
エリスが首を振る。便箋を胸に抱いて。
彼女のせいではないことはわかっている。むしろ彼女は最大限のことをしてくれた。それが理解できるからこそ、感情的になってオルフェを責め立てることなどできるはずもなかった。
「ふっ……ぅ……」
爆発する感情はとめどなく。
ルーダは初めて見た。声を上げて泣くエリスを。
『ごめんなさい、エリスさん。せめて僕だけでも、あの人のそばに――』




