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66 - 邪悪に嗤う

 女は笑う。艶然と笑う。

 膝から崩れ落ちたエリスを見て嗤う。

「長かったわ。ようやく、ようやくこの日を迎えることができた」

 観客を無視して進行する幼稚な演劇のように、女はひとりでただ嘲笑う。己以外のすべての存在を。


 女はエリスによく似ていた。

 色彩豊かな花に囲まれカップを傾ける姿は、切り取られた一枚の絵画のようだ。素直に美しいと言える。

 言えるはずなのに。

 込み上げてくる嫌悪感はなんだろうか。

 まるで内包された醜悪さが隠れきらずににじみ出ているかのようだった。

「なんで? ママは馬車の事故で――」

「あなたがママの言うとおりにしないから。ママも心苦しかったのよ? 死を偽装することは」

 うなだれるエリスに寄り添えば、裾ではなく腕をギュッとつかまれた。

「でもね、エリス。ママは怒っていないわ。時間はかかってしまったけれど、あなたはちゃんとここまで来たのだから。許してあげるわ。ママのために綺麗に咲いてくれるのよね?」

 これまで21年間生きてきて、シックはここまで悪意に満ちた女を見たことがなかった。

 いや、悪意というにはやや語弊があるかもしれない。

 女には恐らくそれが悪意であるという自覚がない。ただ邪悪なのだ、この女は。


 知らず睨むようにして見てしまっていたのだろう、目が合った女の顔に侮蔑の感情が乗った。

「エリス、こちらへいらっしゃい。あなたは愛されるために生まれてきたの。そんな下賤な者たちといつまでも一緒にいては駄目よ。あなたが穢れてしまう」

 悪意に満ちた言葉に腹立たしさは感じなかった。自分が馬鹿にされる分はスルーできる。伊達に軽薄な騎士として女をはべらせていたわけではないのだから。

 が、それはあくまでシックの場合である。

 顔を上げたエリスの眼光には怒りが宿っていた。

「ふざけないでよ! 私の、私が選んで、私が信じてきた、私の仲間に向かって、無関係な人が勝手なこと言わないで!」

「無関係だなんて、ひどいこと言わないでエリス。私はあなたの――」

「ラドに何したの?」

 最後まで言わせず問いを被せる。ピクリと女の眉が不快気に跳ねた。

 それだけの反応で女がひどくプライドの高い人物であることがうかがい知れる。癇癪を起こさないのは寛容だからではない。この女の場合は計算高いからだ。

「らど? 誰のことかしら。下々の者の名は覚えない主義だからママわからないわ。でも、私のために使われるのだから心が死んだって幸せでしょう?」

 カッとエリスの頭に血が昇るのが手に取るようにわかった。


 沸点を超えた感情のままに開かれたエリスの口を片手で塞ぐ。

 予想外の妨害だったのだろう。憎しみすらこもった眼差しで強く睨まれた。

 何も言わずに頭の上に手を置く。エリスは悔しそうに唇を噛んでうつむいた。

「……悪いが」

 立ち上がりざまに抜剣する。剣先の向く先は女だ。

「君には退場願う」

 シュキハが槍を構え、ルーダが魔力をみなぎらせる。

 誰もが同じ気持ちだった。

 それほど深く関わったわけではない。兄の死の報を受け、腐っていたシックに浮かれハイテンションでうざく絡み胡散臭い旅に誘い、己の不甲斐なさに絶望していたシックに制裁を加えるヨーヒから庇おうとしてくれただけの関係だ。

 それだけの関係に過ぎないが、それだけのことでシックは救われたのだ。

 もしゼロの街で声をかけられなければ、騎士も辞めて女に寄生する退廃的な生活を送るだけの腐れ人間になっていただろう。もしヤマトから連れ出されなければ、暴走して戦場に乱入して無駄に命を散らしていただろう。

 そう、間違いなくラドは恩人だった。

 その恩人を悪しざまに侮辱され、黙っていることなどできるはずがない。

 エリスさんエリスさんと馬鹿犬のように浮かれハイテンションでうざい感じに尻尾を振っている彼が、能面のように表情をなくして機械的にしゃべるだけの人形になっている現状を見過ごせるはずがない。


「下賤の輩が」

 侮蔑の感情を隠そうともせずに女が吐き捨てる。

「ママ」

 立ち上がったエリスを横目に見る。

 いつか見たときと同じように、彼女は凛と立っていた。

「私はママの思い通りには動かない。私の道は私が決める。ラドを返してもらうわよ」

「エリス……」

 真っ向から言葉をぶつけられて女が悲しそうに目元を歪める。一瞬怯みかけたエリスだったが、半歩も下がらずに女を見据え続けた。

 その態度で女も悟ったらしい。エリスが思い通りにならないと。

「そう。なら仕方がないわね」

 言って、睫毛を伏せて嘆息する。

 いつ何が来ても対応できるようにシックは剣を構えた。

 女の姿を視界から外さないようにしながらラドの姿も視界に収める。何をされたかはわからないが、突然襲ってくる可能性もある。油断はしないに越したことはない。


「わかったわ。ラドを解放するわ」

「え……?」

 予想に反して女の口から出たのはこちらの要求を呑む内容だった。

 きょとんとするエリスに女が笑いかける。

「あなたがこちらに来たらね、エリス」

 シックは反射的にエリスの手首をつかんでいた。それによって踏み出しかけていたエリスの動きが止まった。

 女が笑い声をもらす。

「邪魔をしないでもらえるかしら、下民風情が。エリスはこちらに来たがっているのよ」

「ゲスが」

「口を慎みなさい」

 勝ち誇った笑みを浮かべる女を睨みつける。

 まさしく下衆の極みだった。

 恐らくエリスはラドを見捨てることはできない。もし立場が逆だったとしたら、ラドはためらいなく自身を犠牲にするだろう。それは雇用主に対する忠誠からではなく、家族同然に思っているからこそ。エリスもまたそうであるはずだ。

「あれはあなたを綺麗に咲かせるために拾った人形よ。あなたという華を咲かせるのがあれの役目。役目を果たせば晴れてお役御免となるの。逆を言えば、あなたが咲かない限りは役目を終えられないということ」

「解放するという保証がどこにある? 君の言葉はなにひとつ信用できない」

「エリス以外はいらないもの。手元に置いていても邪魔なだけだわ」

 どこまでも女は自己本位だった。


 エリスを渡すわけにはいかない。ラドもエリスが犠牲になってまで救われたいとは思わないはずだ。

 ならばラドを諦めるのか? それしか方法がないのならば迷ってはいけない。それでエリスに決定的に嫌われ憎まれようとも、エリスを差し出すという選択肢だけは排除しなければならない。

 懊悩するシックを見て――いや、見下して、女は満足そうに笑う。

「どうして」

 横手から声。ルーダだ。

「どうして黄昏を復活させようとするの? 実の娘を生け贄にしてまで」

 思わずといった感じに口元が歪んだ。

 確かにエリスと女の間には母子関係があるのだろう。だが、こんな女がエリスの母親だとは認めたくなかった。それを気にしたのはシックだけだったようだが。

「愚かな質問ね」

「そんなに世界を滅ぼしたいの?」

 重ねた問いかけは女の表情に蔑みの感情を乗せた。

「滅ぼしたいわけじゃないわ。再生したいのよ、世界を」

「再生?」

「ええ。この世界はもう駄目なの。だから一度滅ぼして作り直さなくてはならない。とても時間がかかってしまったけれど、ようやくそれも叶うわ」

「ダメって、どうゆうこと?」

 その質問は女を笑顔にさせる効力を持っていた。あるいは女がそう質問するように誘導したのかもしれない。

 女は口元に笑みを湛え、

「私が統治していないからよ」

 腐れた発言を口にした。


 反吐が出るとはこういうことを言うのだろうか。

 醜悪な女は醜悪な口を歪めて醜悪な言葉を吐き出し続けた。

「黄昏を使い世界を滅ぼした後に、私の慈悲で世界を再生し統治してあげる。世界のすべては私のもの。私こそが世界の頂点に君臨するに相応しい」

 妄言もここまで行くと狂気だ。悲劇でもいい。

 ただ世界を滅ぼすことを目的として復活しようとしている黄昏のほうがまともな思考回路をしているのではないかと錯覚しそうになる。

 垂れ流される妄言を聞き流しながら、シックは女との距離とラドとの距離を測った。

 女の背後に控えるラドを確保するよりも、女の首を刎ねるほうが早い。だが女がなんの対策もせずにそこにいるとも考えられない。最悪のケースはラドを盾にすることだ。命令され身を挺して女を庇おうとするラドを無力化するのに手こずれば、女にまんまと逃げられる恐れがある。

 シックとシュキハが同時に飛び出し女とラドをそれぞれ担当、ルーダはこの場に留まりサポート及びエリスの護衛。これがスタンダードな作戦だろう。女がバカでなければ想定されているはずだ。

 勝利を確信している女の意表を突くための一手を打たなければならない。


 ふと考えが浮かぶ。

「エリス」

 何かを必死に耐えるように唇を噛んでいたエリスがこちらを見る。

「ラドに呼びかけてみてくれないか。君の声なら届くかもしれない」

 思いついたのはそんな古典的な手段だ。

 先ほどまでの浮かれハイテンションから一転、カカシよりも表情をなくしたラド。その彼に呼びかけて反応が望めるのはエリスくらいしか考えられない。

「あなたがこちらへ来れば解決するのよ。無駄なことはしないでもね」

 声を潜めていても会話は筒抜けだ。女の笑い声に反発するようにエリスが眦を吊り上げた。

「絶対に取り戻してやる」

「無駄よ。効力はあなたも知っているでしょう?」

「ママこそ、私がママの思い通りにならないことは思い知ってるでしょ?」

 挑発的にエリスが言い返せば、不快気に女の眉間にしわが寄った。

 腐れた発言を平気でする女だ。逆らわれるという経験が極めて少ないのだろう。パレニーの話では元々は一国家の王妃だったそうだから当然か。


「ラド!」

 張り上げた声にラドは反応しない。ぼんやりと足下に視線を落としたまま微動だにしない。

 ほら、とでも言うように女が笑った。

「無視してんじゃないわよラド!」

「諦めてこちらにいらっしゃい、エリス。そうすればすべて丸く収まるのよ」

「うっさいわね! 黙ってて!」

「まっ! ママに向かってなんて口の聞き方するの。そんな風に育てた覚えはないわよ!」

「育てらてれた覚えないわよ! ずっと放任してたじゃない!」

 なぜか親子喧嘩に発展した。

 耳障りな高音で言い合う2人は勝手に喧嘩させておき、ルーダとシュキハにそれぞれ目配せする。ルーダにはいまいち伝わりにくかったが、ヒートアップする口喧嘩が長引いているので直接耳打ちして意思を伝えておいた。

「ラド! あんたどっちの言うこと聞くつもり?! あんたの主人はどっちかはっきりさせなさい!」

「見苦しいわよエリス。さっさと諦めなさい」

「ラド!」

 もはや言い返すこともせずにエリスが叫ぶ。

 ピクリとラドの眉が痙攣した。ように見えた。


「ラドぉ!」

 悲鳴にも似たエリスの呼びかけが、棒立ちだったラドに反応を与えた。

「え、……りす、さ――?」

 風が動いた。

 停滞した空気を引き裂き何よりも早くラドに到達しその手首を拘束する――鞭。

 半拍遅れて飛び出したシュキハが突き出した槍は白いパラソルセットを吹き飛ばした。

 鞭で引き寄せられたラドの体を引きずり倒し、後ろ手に鞭で縛り上げ拘束する。電池が切れたように反応のないラドは抵抗らしい抵抗を見せなかった。

「笛を奪って!」

 鋭い声が飛ぶ。

 女を組み敷いていたシュキハが、声に従って女の懐から奪い取った笛をエリスに投げてよこした。

「壊して!」

 うまくキャッチできずに地面に落ちた笛に剣を突き立てる。ぱきんと乾いた音を立てて笛はあっさりと砕けた。

 瞬間、膝の下に押さえていたラドがびくびくっと痙攣した。

「ラド! ラド!」

 ひっくり返したラドの頬を引っ叩きながらエリスが呼びかける。

 反応を返さないのはそれまで通り。ただ違うのは、ラドが気を失っていることだ。


「抵抗するな。貴様の負けだ」

 女を組み敷いているシュキハが鋭い声を上げる。

 シュキハに本気で取り押さえられて抜け出せる者はそうそういないだろう。それが非力そうに見える女ならばなおさらだ。

「愚かね」

 勝敗は既に決している。それがわからない女でもないだろうに、女は他人を見下しきった態度を変えるつもりはなさそうだった。

 まだ何か奥の手があるのか。

 ルーダにこの場を任せると、シックは組み敷かれた女のもとへと向かった。

「長引かせるつもりはない。今ここで終わらせてやる」

 喉元に剣先を突きつけ宣告を。

 聞き出さなけれはならないことがあるのだろうが、これ以上この女を生かしておくことはできそうになかった。

 剣を振り上げる。

 女の笑みは消えない。薄ら寒さを感じるほどに不気味だった。

「エリスはバカね。笛の力が洗脳だけだと思ってるんだもの」

 振り下ろした剣が女の喉を貫いた。

 びくんびくんと女の体が跳ねる。死の痙攣が収まるのを確認してから剣を引き抜いた。


(……笛?)

 先ほど砕いた笛のことを指しているのはわかる。

 あれが魔笛クライシスだったのだろうか。洗脳という単語が出てきたので恐らくはそうなのだと思う。

 エリスの様子がおかしかったのも、女が魔笛を持っていたことを知っていたからだとすれば納得ができる。亡くなったと信じていた人間が持っていたものだ、いろいろな想像が頭を駆け巡っていたに違いない。その中でも最悪の予想が当たってしまった。

 事切れた女の顔は未だに笑顔に彩られていた。

(洗脳だけが笛の力じゃない……)

 最後に女は言った。ただのはったりだとは思えない。

「ラド!」

 思索を中断して振り返る。どうやらラドが目を覚ましたらしい。

 最後にもう一度だけ女の亡骸を見下ろし踵を返す。


「エ、リ、ス、さ、ん?」

「そうよ、エリスよ。わかる?」

「は、い」

「待って。今解いてあげるから」

 夢と現の間をまだ彷徨っているのか、ラドの受け答えはふわふわとした稚拙さがある。

 現状を把握できていないのか、後ろ手に縛られていることにも気づいていない様子だった。うざい浮かれハイテンションが復活するには今しばらくかかりそうだ。

「エ、リ、ス、さ、ん、ご、め、ん、な、さ、い」

「なんであんたが謝るのよ。あんたはただ巻き込まれただけでしょ。謝るのは……謝るのは私のほうよ」

「お、く、さ、ま、を」

「ごめんね。ごめん。あんたにこんな、ひどいこと――」

「た、す、け、ら、れ、ま、せ、ん、で、し、た」

「なに、……言ってんのよ」

 背後に回り込んで、手首を縛る鞭に悪戦苦闘しているエリスの隣にしゃがみ込む。かなりきつく縛ったのでエリスには解けないだろう。代わりを買って出るとエリスはすぐにラドの正面に戻っていった。

「痛いところない? 体に違和感とかない? 大丈夫?」

 返事は、あー……、という無意味な発声。

「ラド?」

 手首から鞭が解ける。

「に、げ、て」

 ルーダがエリスの腕を引く。シックも即座に立ち上がってラドから距離を取った。


 きぃぃぃ、と耳障りな超音波が耳の奥で響く。

 解いた鞭をルーダに投げて寄こせば、ルーダはさらにエリスをその場から遠ざけた。

「なに? なんなの?」

 困惑するエリスの声だけが耳に優しく届く。脳髄を抉り出さんとするかのように、超音波は容赦なく鼓膜を揺らした。

 ゆらりとラドが立ち上がる。

 その体の一部が前触れもなく――盛り上がった。

「ラ……ド…?」

 隆起する体は一部だけではない。右肩が盛り上がったと思えば左腕が膨れ上がり、内部から押し広げるようにしてラドの体がその体積を増していく。

 まとっていた衣服は破れ、頭皮を覆っていた髪は抜け落ちた。笑顔を作るためだけに垂れ下がっていた目は血走り、戯言ばかり垂れ流す口からは鋭い牙がはみ出る。とてもトレジャーハンターとは思えないまったく鍛えられていなかった体は隆起した筋肉を露出させ、その肌も赤黒く色づいた。

「やだ。やだ、やだ!」

 見せつけられる現実を拒絶するようにエリスがかぶりを振る。拒絶したところで変わらない現実はそこにあった。

 開いた口から咆哮が放たれる。


 化け物がそこにいた。


『きっとこれは、シンシアーナ様を救えなかった、僕の――罪』


運命は嗤う。邪悪に嗤う。

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