その5(第8話)
◆元の世界に里帰りしたものの、あてが外れたので、里帰りをさっさと切り上げて、三回目の異世界トリップをした池部志穂の話
そろそろ自宅のベッドでゴロゴロしてマンガ読みたいし、味付け海苔と葱・生卵入り納豆かけ御飯と味噌汁と焼魚が食べたくてたまらない。
という理由で元の世界に帰ってみたけれど、結果としては意味がなかった。
なんでかと言えば、こちらの世界で二週間も過ごして帰ってきても、現実世界では一日しか経ってないからだ。
つまり現実世界に戻れば、その時点でトリップする直前の記憶と感覚が、まさに直前のはっきりした記憶と感覚として蘇ってくる。現実世界の記憶と異世界の記憶が二重写しのようになる。
だから、異世界で二週間過ごして味噌汁が恋しくなっても、現実世界に戻った瞬間、ああ、なんだ味噌汁なら昨日の晩ごはんで食べたじゃん、となる。だから特に味噌汁を食べたいとも思わなくなる。
それで、じゃあまあ味噌汁はいいかと思って、こっちの世界にトリップすると、今度は二週間こっちで過ごした記憶のせいでやっぱり味噌汁が恋しくなる。
結局こっちの世界で感じた欲求はこっちの世界で満たさなきゃならないらしいということだった。
なんだかややこしいので、がんばって考えてみたけれど、つまり現実世界の時間の流れを基準とした場合に、この異世界の時間は、過去に向かって伸びていくということになるんだろう。
例えば現実世界のある日の午前九時に現実世界からトリップしてあちらの異世界で三日間過ごせば、こちらの世界に戻ってきたときに三日前の記憶ができる。それでこちらの世界でアイス食べてトイレ行ってマンガ読んで休憩して、現実世界の午前十時にまたトリップして二日ほど遊んでまた戻ってくる。
そうすると、現実世界で一時間の記憶ができる間に、異世界の記憶は五日分もできてしまう。
まとめると、現実世界の側からみれば、異世界の記憶は、過去に伸びていくということになるらしい。
そういうことを、食堂での朝ご飯が終わってから、紅茶を飲んでいたら、朝の御挨拶に来てくれたアスラウさんに話してみた。
そうするとアスラウさんは、
「記憶の件はともかくとしまして、シホ様はミソ汁とナットウとノリをお召し上がりになりたいということでよろしいのでしょうか?」と言った。
「えっ、こっちの世界にも納豆とか味噌汁とかってあるの?」
わたしがびっくりして、そう聞き返したのは、良ちゃんの書いた『西方帝国記』シリーズは、読んでる限りではヨーロッパ風ファンタジーの世界で、納豆とか味噌の話は全然出てこなかったからだ。
けれどもアスラウさんは、
「ナットウもミソもございますし、ノリもショウユもございます」
と答えてくれた。
「えっ、じゃ、じゃあ今日の昼ごはんは納豆卵かけ御飯と味噌汁がいい!」
わたしが思わず興奮してそう答えたのも無理ないと思う。
「ご要望に沿うことがかなわず、まことに残念ではございますが、当屋敷にはナットウは存在いたしません。ただしミソとノリとショウユはございます」
「えっ、どうして?」
「ミソは野菜を焼いたものに付ける調味料として、ショウユはスープの隠し味として、ノリはパスタの上に振りかけられているものを、過日それぞれ食べた覚えがございます。けれどもナットウは極めて癖の強い食物ですから当屋敷の食事として供されたことはございません」
「んん? 『癖の強い』って、納豆を今までに食べたことはあるの?」
「はい、わたくしが以前に帝都にて、先の旦那様のリョウ様とともに皇帝陛下に拝謁の栄誉を賜ったときに、そこで昼餐をともにさせて頂いたのですが、そのメニューのなかに確かナットウがございました」
「ほう! ほうほう!」
思わずヨロコビの合いの手を入れてしまう。ヨーロッパ風の異世界にトリップしたのに味噌も納豆もあるなんて最高じゃないか! と大喜びして話の続きを待っていると、アスラウさんは何だかわたしの方を微妙な表情で見て、話を続けた。
「……あのときは、皇帝陛下との昼餐も最後の方で、スープにサラダに魚の料理も肉の料理も出てきた後で、後はデザートと飲み物というところでございました。
今から考えると、スープの後に普通は出てくるべきパンが出てこなかったあたりが、後々の惨劇を予示していたのだと思われるのでございます。
その当時、年齢も若かったわたくしは皇帝陛下からの御招待を賜ったということで、極めて緊張しておりまして、何やら胃の調子も好調とは程遠く、ほとんど強張っているような状態で、食欲も全くなく、むしろ嘔吐感があるくらいでしたが、それでもなんとか頑張って、食事を終わらせ、コースの最終盤にさしかかったところでございました。
それで空いた食器が片付けられて、わたくしが、どうやら乗り切ったという思いで、痛む胃をさすりながらデザートのと珈琲あるいは紅茶あたりを待っておりますと、運ばれてきたのは予想に反して、漆で塗られた四角い盆でございました。
その盆のうえには陶製の小皿がひとつ、見事な金蒔絵が入った漆塗りの椀がふたつ、それに赤漆塗りの木皿がひとつありました。小皿には胡瓜と白菜を米糠に漬けた漬物があり、ふたつの木の椀には、一方は米を炊いたものが入っていました。ここまではリョウ様の御希望によりイケベ大公爵家でも食事として出されたことのあるものでしたからどうということはなかったのです。つまり東方風の食事ですな。
でもその他が問題でした。
木の椀のもう一つの方には、なにやら芳醇なような臭いような香りのスープが入っておりました。これはつまりミソ汁でして、リョウ様の食事の御相伴に何度もあずかり、慣れてしまった今となってはミソ汁も中々良いものですが、その当時には、そのミソ汁はわたくしの強張った胃に打撃を与えるものでした。
それで、これは一体なんなのかとリョウ様の方を窺うと、リョウ様は驚いたような歓喜の表情を浮かべて椀の中身を見ておられ、顔を上げるなり、
『ミソの再現に成功したの!?』
とひどく興奮した様子で叫ばれました。
『そう、そうなのよ。というか再現したのとは違うんだけど、大陸のかなり東の方にまで足を延ばした商人がいて、皇宮に持ち込んできたのよ。それにミソだけじゃなくてショウユも持ってきてくれたのよ!』
皇帝陛下はそうおっしゃるなり、懐から陶製の小瓶を取り出され、ご自分と我々の漬物の小皿に、何か黒い液体を振り掛けられました。これはつまりショウユですな。
『すごい、すごいよ! ユミちゃん最高!!』
リョウ様はそのショウユがよほど嬉しかったらしく、さらに興奮して叫ばれました。
ああ、ユミというのは皇帝陛下の御尊名のひとつですが、そうすると皇帝陛下は、にやりとお笑いになり、最後に残った赤漆塗りの木皿の方をお示しになられてこうおっしゃいました。
『ミソ、ショウユときて、じゃあこの藁の束は何だと思う?』
その木皿の上には面妖なことに、食べ物ではなく小さな藁束の両端を紐でくくったようなものが載せられていたのです。わたくしが、これは何だろうと思って様子を窺っていますとリョウ様が、
『これはナットウでいいのかな?』とおっしゃいました。
『あれ? 反応が薄いわね?』
『うーん、ナットウはあんまり好きじゃないからなあ』
『えー、ナットウはよそから持ってきたんじゃなくて、大豆を茹でて実験しまくって自分で再現したのよ。だからナットウが一番苦労したのに。何よ、食べないの?』
『いやまあ、せっかくだから貰う』
というような会話がありまして、リョウ様は、その藁束を手に取って真ん中から割くようになさいました。そうすると中には、腐敗しきって糸をひくようにまでなった……ように見える茹でた大豆が現れたのでした。
皇帝陛下とリョウ様がそのナットウを炊いた米の上にお載せになりましたので、わたくしもそれに倣って藁束を割いてみましたが、その糸ひく豆は口に入れるには非常な抵抗を感じさせるものでございました。匂いを嗅いでみますと、腐敗している匂いではありませんから、おそらく発酵しているというのが正しいとは察せられましたが、たとえそうだとしても、その匂いは、わたくしの緊張した胃の状態からするとまさに吐き気を催させるものでした。
皇帝陛下は、躊躇っているわたくしの方をご覧になると、お優しくも、
『ナットウはちょっと癖がつよいからね、無理しなくていいよ。御飯だけ食べて。後で御飯出そうと思ってパンは出さなかったんだから』
とお言葉を下さいました。
皇帝陛下は下々の者にもお優しく、寛大で慈悲深く、気楽なおつきあいをお好みになる方であるということを今でこそ知っておりますけれども、その当時は、わたくしも、陛下から賜った昼餐で出されたものをよもや食べないなどということは考えられもしなかったので、悲壮な決意で、お二方に見習ってそのナットウを炊いた米の上に乗せたのでした。
そうすると、陛下はご自分、リョウ様、わたくし、それぞれのナットウの上に、ショウユを振り掛けてくださいました。そして陛下とリョウ様のお二方はそれを召し上がり始められたのです。
シホ様はご存じでないでしょうけれども、皇帝陛下はそれはそれは神々しいまでに美しい方でございます。
雪花石膏のごとき膚、上品な卵型の御尊顔の上には、それぞれに慎ましやかな印象を与える整った鼻と瑞々しい唇があり、それだけであると、ともすれば整っているだけということなりがちですが、そこにそれぞれがまさしく天与の宝玉であるというべき非常に大きな翡翠色の瞳が、見るものに非常につよい印象を与えておられます。その上に、腰までとどくほどの金の河ともいうべき豪奢な御髪をゆるくうねらせておられました。
格別に親しい間柄であられたリョウ様との昼餐ということで気楽な印象のドレスを纏っておられましたが、それでも金糸銀糸にレースで其処此処に装飾が入れられているもので、陛下は、御身を神として崇拝されることを厳に拒まれますが、豪奢な椅子に腰かけておられるその在り様はまさしく女神以外の何者であろうかという様でございました。
その陛下が! あろうことに糸をひくほど腐敗……失礼、発酵した豆を、そのいと麗しき御口へかき込む様にして食しておられるのでした。それはまさしく名状しがたい冒涜ともわたくしには思われたのでございます。
……とまれ陛下がそのように手本をお示しになられたのですから、臣下としてそれに倣わぬわけにはまいりませぬ。ふと隣を見れば我が主人も同じようにしておりました。
それで、わたくしもそのナットウの載った椀を手に取ったのでございます。それを顔に近づけると、独特の臭気が襲い掛かってきて、わたくしの強張った胃に強い嘔吐感を催させました。
わたくしは嘔吐感と闘いながら、陛下の御前でよもや反吐をぶちまけることなどあれば、これは自裁せねばならぬと思い、
(汝、獅子の祝福を受けたる者よ! 身命賭し、如何でか試練を耐え抜かん!)
とそんなふうに戦の前のように自分を内心で鼓舞して、そのナットウに口をつけたのでございます。
まあ今から考えると馬鹿馬鹿しくも健気というべき心持でございましたが、とりあえずその場は昼餐を吐き戻すことなく無事に乗り切ることができました。
皇宮を離れて家路につくときに、陛下はたくさんのミソとショウユを賜りましてリョウ様はそれらを喜んでお持ち帰りになりましたが、ナットウについてリョウ様は陛下に、
『あー、ナットウはあんまり好きじゃないから別にいいや』と仰せになりました。
『もー、せっかく苦労して再現したのに……』
と陛下は若干、御気色を悪しくなさったようでしたが、ともかく当イケベ家にはナットウは持ち込まれなかったのでございます。
それで、当屋敷でもミソやショウユはそれ以来、リョウ様がお召し上がりになる分と、当屋敷のコックや領民が欲しがる分程度は細々と生産されておりますが、ナットウは生産されておりませんし、わたくしがナットウを口にしたのも、後にも先にも皇帝陛下に昼餐を賜ったあの機会が最初で最後でございます」
アスラウさんはそう言って言葉を切った。
……長い話だったけど、つまり皇帝陛下は超美人で、アスラウさんは納豆が大嫌いで、納豆は今ここには無いっていうことでいいんだろうか? そう聞くと、
「お見事な要約にございます」とアスラウさんが答えてくれた。
「じゃあ、納豆はどこにあるの?」
「それは、帝都にございます。わたくしも風の噂に聞いたという程度に過ぎないのですが、何でも皇帝陛下の操作なさる御人形が御自ら帝都でナットウ、ミソ汁、漬物、焼いた魚、などを出す店を開店なさって好事家の間で話題になっているとか。故に帝都まで足を延ばせばナットウを食することは可能であると思われます。……帝都までご旅行なさいますか?」
「うん、行く!」
わたしは、ためらいなく答えていた。つまり、いい加減この世界も退屈かも……と思い始めてきたところへ旅行とか言われると飛びつかないわけにはいかない。
けれどアスラウさんはわたしが興奮するのに水を差すように、こんなことを言った。
「帝都においでになるのであれば、少しばかり確認しておかねばならないことがございます」
「え、なにを確認するの?」とわたしは勢い込んで聞きかえす。
「まず、シホ様が天竜を呼ぶことがおできになるかどうか、次に晶術の行使がおできになるかどうか、おできになる場合はその威力がどれほどのものかということでございます」
アスラウさんはそう言った。