その4(第7話)
◆池部志穂の二回目の異世界トリップの話
二回目の異世界トリップをして、今日で二週間が経った。
まあ仮にも異世界に来たわけで、色々と物珍しい見物や、カルチャーショック的イベントはあった。
この世界は従兄の良ちゃんが書いた『西方帝国記』のなかで描かれている世界の元になった世界だから、文章としては予備知識があったわけだけれど、それでも現実のリアルさにはかなうものじゃない。
馬のかわりに恐竜みたいな生物に乗っている人とか(小説の中では走竜と呼ばれていたものだろう)森族っていう名前で呼ばれる、本物のエルフとか(私もその森族の亜種? の赤ちゃんになっているらしい)ほかにもリザードマンに、ドワーフに、コボルトに、獣人とか。
やっぱり、ファンタジー、あるいはSFでもいいけれど、そういう異世界モノは映像が有ると無いじゃ全然違うと思う。
あの超有名SF映画のスターウォーズだって、例えば映像とか全然無しで、ストーリーだけノベライズしたら、はっきりいってそんなにたいしたことはない気がする。でもあの映画が文句なしに超大作なのはやっぱり映像の力だろう。
それで、西方帝国記の世界も、やっぱし映像になると素晴らしさが十倍くらいはアップしていると思う。それに、この世界は現実だから、当然映像だけじゃなくて五感のすべてで世界を味わえるので、もう素晴らしさ十倍どころじゃない。
例えば、獣人の人には獣状態に変化してもらって触らせてもらうと、もちろんモフモフ具合が最高で、体ごと毛皮に埋まってみた。獣人の人が変化した超巨大ライオンとか、巨大狼とか、巨大猪とかに全身で戯れたり、背中に乗らせてもらったりする体験は至高だと思う。
それに、わたしも赤ちゃんになってしまったせいで、乳母の人とメイドの人達に傅かれることになったりして、移動は常に抱っことか、毎日お風呂で他人の手で洗ってもらったり、着替えさせてもらったり。
それに何かこっちに来て一週間くらいしたところで、わたしの乳母とかいうお姉さんがやってきて、そんで人のおっぱいなんか吸わなきゃならなくなったりして、なんという羞恥というか役得というか、まあ色々あり過ぎるほどあったけれど、まあでも、そういう体験も二週間以上もやってると飽きてしまう。
文字はなぜか読めたから(日本語の字幕の映像が視界に映る)図書室から本をたくさん持ってきてもらって、ヒマにまかせて読んでいたけれど、それも気分がだんだん煮詰まってきてしまう。
それに、このお屋敷で出してくれるごはんは、旅行に行ってちょっといいホテルに泊まった時にでてくる洋食みたいな感じなので、何だか味噌汁とか納豆とかが恋しくなってきてしまったのだった。
良ちゃんの小説を読んでいるときは本当に楽しくて、それこそ時間を忘れるくらいだった。
ドラえもんの秘密道具のなかに、絵本入り込み靴ってのがあるけれど、それがほんとに欲しくなるくらい良ちゃんの描く小説世界には夢中になったものだった。
でも現実にその異世界に来ることができてしまうとどうか。
小説っていうのは、単に現実を写しとるものではなくって、ハラハラドキドキしたり感動したりするように、ちゃんと山場とかそういうのを計算して書いてるんだなってことがよく分かる。
小説で読むのじゃない実際の異世界行きってのは、それは異世界の単なる日常に行くだけのことで、最初の興奮が覚めてしまうと案外退屈なものだった。
異世界の風景とか文化とかそういうのは、現実だけあって小説以上にずっと凄いけれど、ただそれだけが凄いということで、例えて言えば『CGや特撮に何十億円もかけた超美麗映像の超大作だけどストーリーが全くつまらない映画をみてる』ような感じだ。
そんなわけで、まあ次の日の朝わたしは、いつものように乳母のアニさんから起き抜けにおっぱいをもらって(もうすっかり慣れた)それから背中にボタンが付いている自分では絶対に脱ぎ着できない赤ちゃん用ワンピースみたいなのを着せてもらって、顔を洗ってもらって、それから抱っこで食堂に運んでもらって、高級ホテルの朝食(洋食バージョン)みたいな朝食が何品も何品も絶対に食べきれないくらい山のように出てくるのを、とりあえず一切れづつだけでも食べて、テーブルの上が片付けられて、それから食後の紅茶を、わたしの部屋に付いてくれているメイドのマリエさんがいれてくれている様子を眺めていた。
この世界、というかこの今いるお屋敷に来て以来、わたしの周りには大体、女の人が三人もついて世話をしてくれている。
ひとりは、さっきおっぱいをくれた乳母の人でアニさんという。栗色の髪と瞳のきれいなお姉さんだ。
この世界では、わたしは大体この人に世話をしてもらっている。朝起きてから晩に寝るまでずっと一緒だ。朝に起こしてもらって、おっぱいをくれて、顔を洗ってもらって、服を着せてもらって、御飯を食べるときの面倒もみてもらって、食後におっぱいをくれて、お風呂の世話もしてもらって、夜もおっぱいをくれて、添い寝をしてくれる。
それでアニさんが来て何日かして、わたしも見た目とは違って実は十六歳なんだからそこまでしてもらわなくても、と明日は言おうと思って、寝て起きたら、なぜか自分の下半身と寝間着とシーツがびっしょり濡れていたりした。まあ、ちょっと寝る前にジュースを飲み過ぎたのだと思う。それでしょんぼりしながら体を拭いてもらう破目になって、もう十六歳がどうとか恥ずかしくてとても言えなくなってしまった。
それでそれ以降も赤ちゃん扱いは続いている。
それで、そのおねしょをしたときに、体を拭く蒸した拭き布とか新しい下着とかを用意してくれたのが、二人目のエマさんというメイドさんだ。
このひとは水色の瞳にプラチナブロンドのものすごくきれいなお姉さんで、見ているとなんだかお姫様という言葉が浮かんできて、世話をして頂くのがもったいないような気分になれるひとだ。でも、物腰も丁寧で、音もなく動いて必要なものは何でもいつの間にか用意してくれる何だかできる女の匂いがする人でもある。
最後のひとりは、この世界に来て最初に会った人で、メイドのマリエさんだ。
この人は黒髪黒目の小さな女の人で、多分、歳も中学生くらいだと思う。元の世界で日本の中学生とかに紛れ込んでいてもあんまり違和感がなさそうな感じがする。
この人は、部屋の掃除とかベッドメイクとかその他諸々の雑用をしてくれている。そして今は食後の紅茶を淹れてくれている。
で、この三人目のマリエさんがけっこう難しいヒトなのだ。
この人は、わたしが元の世界に帰るのが、なぜかすごく嫌らしくてわたしが元の世界に帰ろうとすると、すごく引き留めようとしてくる。初めてこっちにトリップした翌日の朝に一度家に帰ろうとした時なんか凄かった。もう懇願して泣き落としてもう大変な騒ぎだった。
それでトリップ二回目の今回も、もう少し早く帰る予定だったんだけど、マリエさんに泣かれて宥められて賺されて、こっちの世界にきたまんま二週間も経ってしまったのだった。
でももう、そろそろ自宅のベッドでゴロゴロしてマンガ読みたいし、味付け海苔と葱・生卵入り納豆かけ御飯と味噌汁と焼魚が食べたくてたまらない。
それで、
「あのぅ、ちょっと一度家に帰ってみたいんでしゅけど」
と、マリエさんの様子を窺いながら頼んでみた。この体はいまだにちょっと噛む。
そうするとマリエさんが紅茶のポットを取り落とした。
ガチャンッと結構大きな音がして紅茶が盛大にこぼれてしまったので、あっ、と思って見ていたけど、マリエさんは慌てるどころか身動きひとつしない。
おかしいなと思ってふとマリエさんの顔を見ると、マリエさんの顔は真っ白になっていた。紅茶がテーブルクロスにひろがって、ぽたぽた床に落ちてるのに、マリエさんはただぼんやりした表情で、口を半開きにしてわたしの顔を眺めるばっかりだった。
「あの……だいじょうぶでしゅか?」
声をかけると、マリエさんはハッとして反応してくれたけれど、何かを言おうとしてつっかえるみたいに、口をパクパクさせたり、唾を飲み込んだりしてばかりで一言もしゃべれなかった。
そして、周りにいたメイドさんたちも何かおかしいと思ったらしくて何人かが集まってきた。それでマリエさんの顔色を見てびっくりして、抱きかかえるみたいにして連れて行ってしまった。
また給仕の人が新しい紅茶を持ってきてくれて、食卓のテーブルクロスが紅茶で汚れちゃったからってことで、アニさんに抱っこされて、食堂から、なんか天国みたいに花が咲き乱れるお庭に出て、そこの四阿でお茶の続きをすることになった。
マリエさん大丈夫かなー、そうですねー、みたいな会話をしながらアニさんとのんびりお茶を飲んでいると、家令のアスラウさんがやってきた。
家令というのは、このイケベ家で働いている人の中で一番偉い人らしい。乳母のアニさんに教えてもらった。
で、その家令のアスラウさんは、背が高くて肩幅の広い大柄な人で、鋭い眼や見事な鉤鼻がある顔には立派なおヒゲがある。そして、焦げ茶色の豊かな髪がライオンの鬣のように豊かにセットされているのだった。実際に超巨大なライオンに変化できる獣人だ。
おとつい超巨大ライオンに変化してくれて、背中に乗らせてもらった。
アスラウさんは、わたしを背中に乗せたまま、このお屋敷の大広間の方にある鏡の前に行ってくれて、その鏡に映った光景はもうナルニア国物語そのまんまというかんじだった。でも獣化したアスラウさんは普通のライオンよりは全然大きいので、イメージ的にはナルニア国物語より、もののけ姫に近いかもしれない。
そのアスラウさんは人間状態のときも立派な服を着ていて、立居振舞も堂々としてて、すごく威厳に満ち溢れているから、何だか圧倒されてしまうような気分になるようなおじさまだ。
だから、わたしはなんだか貴族のお姫様になっているらしいけれど、わたしなんかよりこのアスラウさんのほうがよっぽど貴族っぽい。そんな人が、
「おはようございます。シホ様におかれましては本日もご機嫌麗しくあらせられますように」
とか言っちゃって、今は赤ちゃん状態のわたしが座っている、というか乗せられている椅子の横に片膝ついて恭しくご挨拶をしてくれるものだから、恐れ多いというかセレブ気分というか、いっそ馬鹿馬鹿しいような気さえしてくる。
「いや、その、あの、ど、どうもありがとうございましゅ……」
いまだに慣れないので、もごもごと返事を返しながら、貴族とか身分のある世界というのはなかなか大変なものだと思う。
「先ほどはマリエが大変失礼をいたしました。お許しください」
「いえ、しょんな……」
「マリエから聞きましたところによれば、ご自宅にお帰りになりたいと」
「はい、って言ってもちょっとばかし納豆を食べて、味噌汁を飲んで、一日実家で過ごしてくるだけでしゅ」
「左様でございますか、承知いたしました」
「あの、マリエしゃんは……」
「はい、多少の貧血をおこしたようですので、少し休めば良くなると思われます、が、マリエは先の旦那様のリョウ様がいなくなってしまわれて以来、すこしばかり情緒が不安定なところがございます。御不快のようでしたら、配置換えを行いますが?」
「いえ、そんなことは別に……」
「寛大なお言葉を大変ありがたく存じます」
「何でマリエさんは、わたしが帰ろうとすると泣くんですか?」
わたしはずっと疑問に思っていたところを聞いてみた。
「……マリエは、先の旦那さまによって拾われた戦災孤児でございます。旦那様を母のようにお慕いしていたようですから、旦那様がこちらの世界へはもう帰ってこないと宣言なさって、いなくなってしまわれたことにいささか大きな衝撃を受けているようです。それで如何なる心の働きかは存じませんが、先の旦那様に続いて、シホ様までが居なくなってしまうことに非常な恐れを感じているという次第のようでございます」
そう言われても、わたしは良ちゃんじゃないので、良ちゃんが居なくなったからって、わたしを引き留めても、良ちゃんの代わりにはならないわけだから、あんまり意味がない気がする。
そう言うと、アスラウさんはしばらく考え込んで、
「……マリエのみならずわたくしも含めイケベ大公爵家におりますものは、先の旦那様には非常に良くして頂き、返しきれないほどの恩義を感じておるものもおります。そうであるのにわたくしどもは旦那様の仰せになったことを信ずることができませんでした。そのために、わたくしどもは旦那様をお引き留めすることも、別れの御挨拶を申し上げることも何もできずに、旦那様が居なくなってしまわれるのをただ見ていることしかできなかったのです。今となってはわたくしどもは旦那様に何かを申し上げることすらもできません。シホ様は、わたくしどもにとって旦那様に関わりのある、繋がりのある唯一の御方でございます。ですからシホ様があちらの世界にお帰りになるとき、もうこちらには帰ってきていただけないのではないだろうかなどと考えますと、正直に申し上げてわたくしは血の気が引くような恐れを感じるのでございます……大変に差し出たこととは存じますが、どうかわたくしとマリエのために、どうかもう一度こちらにお戻りになるというお約束を頂けないでしょうか?」
アスラウさんはそう答えた。
気楽な異世界見物のはずが、なんか一気に話が重くなってきたのでびっくりしたけれど、でも要するに、またこっちに顔を出してくれというだけのことだから、マリエさんには、向こうの世界で事故にでも遭わない限り、こっちに帰って来ると約束して、とりあえずその日は、元の世界に帰してもらった。