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実験小説『イケベ大公爵家の日常』  作者: 西村紅茶
アスラウ・ライオネル編
24/24

その1New!!


◆イケベ大公爵家の家令、アスラウ・ライオネルの過去の話



 先の旦那様のリョウ様は、『別の世界』への出奔をなさるにあたり、私達使用人一同に対して、手紙でご指示を残された。


 なぜ旦那様がそのようになさったかというと、それは『別の世界』について旦那様が私ども使用人に直接お話しになっても、使用人達はそれをある意味で、狂人の話す言葉、あるいは冗談のようにしか受け止めず、またそのような私どもの反応を、旦那様自身も予測なさっていたからである。



 けれども、私個人としては旦那様のその言葉を深刻に受け止めていなかったわけではなかった。


 否、むしろ非常に深刻に受けとめていた。旦那様が領地や事業を整理されはじめられたときから、とりわけそうだった。


 領地や事業の整理ということは、すなわち、旦那様は身辺の整理をなさっておられるということにもなるので、つまりわたしは旦那様の自殺を恐れていたのだった。


 旦那様は、自殺こそなさらなかったが、そのかわりに私には行くこともできぬ別世界へ消えてしまわれたのであるから、私の懸念は半分あたっていたのだった。



 旦那様が何について悩んでおられたのかということは、今もってよく分からないままであるが、旦那様の様子が少しばかりおかしかったのは確かなことであったと思う。


 旦那様はここ数年、書物を読んでばかりおられた。それも学術書や歴史書などの類ではなく、娯楽本、言うなれば子供向けの冒険譚、怪異小説、恋愛もの、空想小説、そんなようなものばかりを読んでおられた。それも少し読むのではない。朝起きてから寝るまでの間、食事と厠へ行く以外はずっと読んでおられた。


 帝都の書店からしょっちゅう馬車が来て、旦那様の好みに合いそうな書物を馬車いっぱい、山のように置いていくのだ。そして旦那様はそれを毎日、一日中お読みになる。それで読み終わった本を旦那さまは部屋の外に出しておかれる。そうすると毎朝メイドがやってきて、外に出された本を図書室に運び、整理して並べる。


 そうして、この数年で当屋敷には図書室がふたつ増えた。


 旦那様はそんなふうにして、本ばかり読んでおられるから、それ以外のことはほとんど何もなさらなかった。

 必要な政務の類は有能な代官を据え、その代官たちの統括監督を私にお命じになった。

 それでも十分に領地はまわっていくし、一般的な貴族の中にはそのように政務の類を信頼できる代理人に委任しているものは少なくない。


 武門の貴族であれば武威を張るのが本分であるから、統治そのものについては手腕を持っていないということもごく普通にありえるからだ。そういう場合は行政の専門家である代官を据える。そうするのは普通のことである。


 だから、わりと新しい使用人達であれば、旦那様の様子について何も感じなかったかもしれないが、私や、あるいは私と同じく旦那様にお仕えして長い、家政のマーサ、執事のデイライトなどはやはり違和感を持っていただろうと思う。昔の旦那様は、そのような無気力な時間の過ごし方はなさらなかったからだ。


 そして、そんなふうに旦那様の様子がおかしいので、何か煩いごとがおありですかとお聞きしてもあまり要領を得ない答えが返ってくるのだった。


旦那様曰く、


「僕はね、この世界じゃなくて、僕の世界を生きなきゃならないんだ。そこが僕の闘う場所だからね。だから、この世界で僕がどれほど色々なことをしてもそれだけでは駄目なんだ。でもね、この世界はね、みんな僕に親切にしてくれるから離れがたいんだよ。

 僕は今こうやって仕事も何もせずに本ばかり読んでる。でもね、この世界で勤勉に何事かを為そうと、本ばかり読んで時間を潰そうと、それは僕の闘うべき場所から逃げているという点では、僕にとっては同じことなんだよ。だからどうせ同じならと、楽な方に逃げてるんだ」


 旦那様が、何を仰せになろうとしているのか、あまりよく分からなかった。


「……仰せになったことの意味が理解しがたいのですが」


 それでそう答えると、旦那様はさらに仰せになった。


「うん……まあ、そうだろうと思う。僕の常々言っている別の世界に関わることだ」




『別の世界』に関わる話である。


 さらに質問を重ね、旦那様のお話を虚心坦懐に、予断を交えずに、ただ率直にお聞きする。


 すると――今のこの現実世界とは違う何処かに、もうひとつの世界があって、旦那様はそこで何事かを成し遂げなければならないのに、今、自分はこの現実世界にとどまっている。この状態は是正されなければならない。――というようなことになる。



 そもそも、その別の世界というのは何処にあるのですか。どこか遠い異国ですか。とお聞きすると、それは異国ではないし、この星の上にある場所でもない。そして、私はそこに行くことができるが、君はそこに行くことはできない。そうおっしゃる。



――やはり、意味がよく分からない。


 旦那様のおっしゃりようは、この御自らの問題について人の手は借りたくない、あるいは、借りられないという意味にも聞こえるし、何らかの形而上の考えについて語っておられるようにも思える。あるいは単にはぐらかしておられるようにも。


 故に私は黙り込むしかなく、そうすると旦那様は、


「君は、この世界が自分の持ち場であって、そこで頑張って生きているが、僕はそうではない。ただそれだけのことだ。気にかけてくれるのは嬉しいが、僕が自分で結論を出すべき問題だから、君はあまり悩まないでくれ」寂しげに微笑んでそうおっしゃった。



 そして、旦那様は、かの石の板の上で、使用人一同の目の前で、煙のように消え失せてしまわれ、そうなってはじめて私ども使用人一同は、先の旦那様のお言葉を、単なる旦那様の、形而上の事柄についての曖昧な内心の悩みとしてではなく、具体的な事実として信ずるようになったのだ。


 そして、今となっては、旦那様が後の指示のために残された十数通の手紙と、シホ様のみが旦那様と私達を繋ぐよすがになってしまった。


 今となって、旦那様に申し上げたいこと、お聞きしたいことは溢れるほどにあるし、また旦那様にとって何の力にもなれなかったらしい我が身にも慙愧の念を感ずる。




 私が旦那さまと初めてお会いしたのは、かれこれ百二十年以上前で、私がほんの五、六歳のころだったと思う。

 とある森の外れで、私が死にかけて横たわっているところを旦那様に救われたのだった。



 私の家はひどく貧しくて、私はいつもお腹を空かせていた。その頃はひどい冷害があって、ことのほか食事が少なかった。私達の家族は生活のために何でもかんでも売ってしまって、家の中はがらんとしていて、服も、家族それぞれに着たきりしかないほどだった。


 私ももちろん一枚きりのシャツを着ていて、夜が来ると母がそれを脱がせて、私を寝床に追い込み、それから母は、これもひとつきりしかない桶で、微かな咳をしつつ、そのシャツを洗って干すのだった。そうすれば一枚しかシャツがなくても常に清潔なものが着られるという寸法だった。


 しかし、そんな僅かの余裕も無いような生活でいつまでもやっていけるはずもない。

 食べ物が足りなければ体が弱る。


 或る晩に私は高熱をだした。ひどい風邪に罹ったのだ。


 私達の家族が住んでいるところは、田舎の寒村だったから治癒士などいない。貧窮しているから子供が病気になったとて、滋養あるものを食べさせることなどできない。なす術がない。


 父はいつものように痩せた畑をしばらく引っ掻いた後は、火を起こす薪用の枯枝を集めることしかできなかったし、母は生活の疲れで、生気の失せた洞穴のような目で私を見下ろし、ときたま汗を拭いてくれるのだった。


 それから三日ほど経った日の晩、私は寝床の中で高熱で朦朧としたまま、シャツを着せられて、父に抱かれて外に出た。冷たい夜気が、高熱に炙られた躰に気持ちが良かった。随分長いこと揺られていた。熱でぼやけた目を薄く開けると、行く道の先には黒々とした森があった。


 私はそれを見て、ああ棄てられるなと悟った。恨みは抱かなかった。


 何もかもがもう無理だというのは小さいながらに分かっていたし、それで棄てられるとしたら私か乳飲み子の妹しかないわけで、妹が棄てられるなどということはあってはならないことだからだった。

 そうするしかないのだと棄てられる当の私すら納得していたのだった。


 だから、父が私を地面の、枯葉の積もったところへ置いたときに、底の無い坑に落ちるような不安を感じても、寝たふりをしていた。

 寝たふりをしていたから、自分の着ているズボンと下着とシャツがもったいないから持って帰れと言えないのが残念だった。


 それで、冷たい外の風に吹かれながらさらに二晩を過ごした。


 朝がきて、光が顔に射すのを感じたが、あまりはっきりとは見えなかった。

 外で二晩を飲まず食わずで過ごしたせいで、風邪がいよいよ悪化して、目ヤニで目がふさがりかかっていたし、意識も途切れがちであやしかったからだ。

 頭が痛かったのが、徐々にぼんやりとふわふわした心持になってきた。寒くて凍えていたのが、それを通り越して、いよいよ本格的に自分の体から熱が抜けて、周りの地面と同じになっていくのが分かった。

 少し前に隣の隣の家の老婆が、死んで土に埋められた日のことを思い出した。


――枯葉を、小枝を踏む音が聞こえた。

 大丈夫? そう声が聞こえた。




 目が覚めたら何もかもが変わっていた。


 熱がひいていて、気分が良くなっていて、体がきれいになっていて、清潔な寝間着を着ていて、真っ白なシーツの柔らかなベッドの中にいた。

 ベッドの隣に女の人がひとり付いていてくれて、重湯を食べさせてくれた。また寝て起きると、今度はミルク粥を食べさせてくれた。その次はミルク粥に果物がついた。妹にも食べさしてやりたくて泣いたのを覚えている。


 さらに何度か寝て起きると、今度は普通の食事を食べさせてくれた。普通のといっても、普通には食べたことのないほどおいしい豪華なものだった。贅沢にバターの載った白くて柔らかいパン、卵の入った旨いスープ、脂があって柔らかい肉、瑞々しくて甘い野菜、大振りで形の整った果物。



 いまでも全て、全て覚えている。昨日のことのように。

 忘れることは決してない。たとえ旦那様が忘れたとしても。


 それ以来、百二十年以上にわたってイケベ家で暮らし、旦那様にお仕えしてきた。それなのに旦那様は、何も訳が分からぬうちに居なくなってしまわれた。

 突如として親しい者に死に別れたときのような、悲痛な腹立ちが私を襲う。


 が、それはもはやどうするすべもない。

 旦那様が残してくださったのは、旦那様からのご指示が書かれた、この手紙の束とシホ様である。


 そして今朝は、旦那様のご指示に従って、新たな手紙を二つ開封した。それらは組になっており、


『私の相続人を爵位の継承のために帝都に連れて行く前に読む手紙』と


『そのときに私の相続人であるイケベ・シホに読ませるべき手紙』という表題だった。


 そして私はご指示に従い、二つめの方の手紙をシホ様に差し出したのだった。


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