エピローグ
早朝、それはまるで何かから逃げるように。
まだ幼い深夜は母親に手を引っ張られ、すっからかんになった家を飛び出た。既に荷物は運び終わっており、後は新居に移動するだけだった。
「お母さん、どこ行くの?」
「いいから」
理由を聞いても母親は答えない。
幼いながらに深夜はその空気を読み取っていた。穏やかな状況ではない。それは母親の表情や声色で充分判断出来ることだ。
遠ざかっていく一軒家。
深夜は名残惜しそうに何度も振り返る。
一緒に暮らした父はもういない。優しかった父ももういない。三人で仲良く暮らしていた、あの日はもう戻ってはこない。
どうして? 深夜はそんな当然の疑問を抱く。
遠ざかっていく歩き慣れた道。通学路。
深夜ははっとする。
「お母さん! 学校は? 学校は変わらないよね?」
引っ越すことぐらい理解は出来る。しかし肝心なことを伝えられていなかったのだ。
「転校届け出してあるから心配ないわ」
深夜は手を振り払って立ち止まる。
「深夜……?」
「いや! 私、ここに残る!」
「なに言ってるの。もう荷物運んだでしょ? ほら、行くよ」
掴む母親の手を再び強く振り払う。
「いやっ! ここに残るの! 学校変わるなんて絶対いや!」
地団駄を踏みながら首を左右に振る。一歩も動かないと主張するかのように、地を強く何度も踏みつけた。
「……我儘言わないで。お願いだから」
額を手で多い、悩ましい顔をする母親。
母親を困らせたいわけじゃない。そんな顔をする母親を見てしまっては罪悪感すら抱く。
しかしそれでも深夜には譲れないものがあった。
「だって……あーちゃんと遊べなくなるもん……」
もちろん学校の友達と離れるのも嫌だし、新しい学校でやっていくことにも不安がある。だが、それよりも麻妃と離れることが深夜は心底嫌だったのだ。
深夜は自分が他の女子とは扱いが違うことに気付いて、まだ間もなかった。
麻妃はいつだって優しいし、いつだって味方してくれる、でも妹のような存在。それは何か違う、と気付いたばかりの時だったのだ。
他の女子と仲良く話している麻妃を見るのが嫌だった。
もっともっと自分とだけ仲良くして欲しかった。
これから、って時だったのだ。まだ麻妃と遊びたい、いっぱいいっぱい遊びたいのに。
「またそのうち遊べるよ。ほら、もう行こう」
半泣きになる深夜に勤めて優しく語りかける母親。
父親がいなくなってからいつだってそうだ。母親が優しく語りかける時は嘘なんだ。
深夜が目を擦り、涙を拭う――その時だった。
「おーい! しんやぁー!」
自分の名を呼ぶ聞き慣れた声がして振り返る。
彼は走っていた。走って、走って、息を切らしながら自分を追いかけてきてくれた。
「あーちゃん……?」
麻妃は深夜の目前に辿り着くと、息を整えながら笑って見せる。
「家がからっぽなんだもん。びっくりした」
はぁはぁ、と肩を揺らしながら笑っていう麻妃。
深夜は眉尻を下げ、横目で母親を見る。
母親の目は決まっていた。その視線がもう抗いようがないことを思い知らす。
「……ごめんね、あーちゃん。私、引っ越すんだって」
その言いたくなかった言葉を口にした瞬間、ぶわっと大粒の涙が目頭から溢れ出してくる。
「そっか、だから家がからっぽだったんだ」
こくん、こくん、と泣きながら頷く深夜。
麻妃を前にして、さっきよりも行きたくない気持ちが高まる。
離れたくない、この街にいたい、麻妃と一緒にいたいのに。
幼い深夜にそれは許されなかった。親の勝手な都合だろうと子供である以上、従う以外に選択肢などなかったのだ。
泣きじゃくる深夜を目の前に、麻妃は一粒も涙を見せなかった。
黙って深夜の手をとり、手の平に小さな包みをのせる。
「?」
小さな包みには赤いリボンがついており、安っぽいながらにちゃんとプレゼント仕様になっていた。
「明日、深夜の誕生日だろ。これ、誕生日プレゼント!」
「もしかして、これ渡しにきてくれたの?」
「うん、そうだよ?」
麻妃はお別れを言いにきたわけじゃない。
たった今お別れすることを聞かされたが、それでもお別れをするためにきたわけじゃない。それだけはブレなかった。
「開けてみて」
深夜は言われるがまま、包みを開ける。
「星のピン?」
「うん! 深夜に似合うんじゃないかなーと思って買ったんだ!」
手の平にのっている小さなピンを麻妃は手にとり、深夜の前髪付近につけてやる。
「ほら、やっぱり似合う」
鏡がないのでその場で見ることは出来なかったが、それでも麻妃が似合うと言ってくれるなら、それだけで嬉しくで仕様がなかった。
「ありがとう、あーちゃん」
さっきまで泣いていたのが嘘のように、笑みを零す深夜。
それを見てほっとしたのか、麻妃も笑みを返した。
「そろそろ行くよ、深夜。麻妃くん、プレゼントありがとう。元気でね」
それまで黙って見届けていた母親からタイムアップが告げられる。
引き戻された現実に抗う術はなく、二人は向かいあったまま、段々離れていく。
深夜は振り返ったまま母親に手をひかれる形で歩いていき、麻妃はその姿を見ながら笑顔で言った。
「誕生日おめでとう! きっとまたおめでとうが言えるよ! 今度は一緒にケーキ食べようね!」
「……深夜? おーい、深夜」
深夜は心地よいその呼び声で目を覚ました。
「大丈夫か? 疲れてるなら部活辞めとこうか?」
瞳を開けると麻妃が見下ろして、心配そうな顔をしていた。
夢と現実を彷徨いながら、意識をはっきりさせるには少しの時間を要した。
執拗に瞬きをし、左右を見渡して、そして麻妃の顔を見る。
「ううん、大丈夫」
ホームルームでまさかの爆睡。
最近の自分は気を張っていたのだろう。今日の結果でその緊張が一旦解け、疲れが今になって出たようだ。
「怖い夢でも見たんだろ、ほら」
麻妃は深夜の目尻に残った涙の粒を拭いながら笑う。
「え……? あ、ああ、ううん」
頬を朱色に染めて、深夜はそれを否定した。
「怖い夢じゃない。懐かしい夢」
「懐かしい夢?」
「そっくりそのままあんたに見せたい夢」
言って、深夜は立ち上がった。
眠っている間にホームルームは終わっており、これから部活の時間である。
「ほんと見せて欲しいぐらいだよ。そしたら記憶ぐらいすぐ戻るのになぁ」
ははは、と自虐ぎみに笑い飛ばす麻妃。
深夜は鞄を手にして、大きく深呼吸をし、意を決した。
「あ、あの……誕生日の、やつ……あ、ありがとう。嬉しかった」
「ん? ああ、うん。喜んでもらえたならよかったよ」
ぽんぽん、と頭を優しく叩く麻妃。
深夜がその手を見上げると、
「あ、ごめん! つい……」
麻妃は気に障ることをしてしまったと思い、手を急いで引っ込めた。
「ま、また、次の誕生日も、おめでとうって言ってね。お、おっ……」
「お、おっ?」
「おに、いちゃん……!」
言って後悔したらしい深夜は顔を真っ赤にして、
「やっぱ今のなし!」
速攻で前言撤回した。
慣れないことはするべきじゃない、と即座に学ぶ。ただそれでも……。
「お、おにーちゃんって言った? おにーちゃんって言ったよね? おにーちゃん……おにーちゃん……」
ふつふつと沸き上がる喜びを隠しきれない程、歓喜している麻妃を見てしまってはどうしようもなかった。
一番言いたくないのに、それが一番喜ぶ言葉だなんで……と皮肉に思う深夜である。
自己嫌悪の波に飲まれても、そんな麻妃の姿を見れるのは深夜自身も嬉しかった。
「そうだよな、そうだよ、やっぱりそうだ。俺はおにーちゃんなんだよ!」
麻妃はそう宣言し、深夜を抱きしめる。
「え、え、えっ!?」
ぎゅうぅ、と抱きしめられて動揺している深夜を余所に、麻妃は何かを確信していた。
部室に向かう際、恒例になりつつあるサリーが深夜を無理矢理引っ張っていく、という構図が今日も見受けられた。
そしてそれを眺めながら夕之助と並んでまったり歩いていく。
「よかったな、兄妹のまんまで」
完全棒読みで言う夕之助に「ああ」と返事をする麻妃。
「よかったのか? 本当に」
「まあな。深夜は可愛いし、愛しいし、守ってやりたい。でもそれが女としてのものかっていうとわかんないっていうか、違うような気がしないでもないっていうか……なんていうか、俺はおにーちゃんでいたいんだよ」
「へえ」
口元を緩めながら、夕之助はそれ以上問わなかった。
「じゃ、サリーだったらどうなんだよ。おにーちゃんしなくていいんだぜ?」
「なんでサリーが出てくるんだ? そりゃサリーも可愛いし、愛しいし、おっぱい大きいし、守ってや……らなくても夕之助いるじゃねえか」
「おまえ言ってること自分でわかってんのか?」
「え? まあ、半分は」
夕之助は疲れた顔つきで深々と溜息をついた。
「おまえぜってー苦労するぞ、妹でも彼女でも」
「なんでだよ、そんなことないって。さっきだって深夜が俺のこと『おにーちゃん』って呼んでくれたしな。へへへ……」
にやけ顔を堪えることが出来なかった麻妃をやや引き気味で見る夕之助。
「そりゃそう呼べばおまえが喜ぶからだろ……」
と、確信をついた夕之助の独り言は麻妃の耳まで届くことはなかった。
部室の扉を開けたサリーと深夜は、中に入らずその場で立ち止まる。
深夜はあからさまにいやぁな顔をし、サリーは舞い戻って麻妃の背中にくっついて隠れた。
「わ! どうしたんだよ、サリー」
「なんかいるでありんす……」
「え」
なにかいるってなにがいるんだよ……そしておっぱい当たってるって!
サリーのおっぱいに、じゃなくて、サリーの手に押されるがまま前に進んで、その“なにがいる”部室を恐る恐る覗き込んだ。
「んだよこれ」
夕之助が心底嫌そうな声色で吐き捨てる。
その気持ちが麻妃にもわからなくはない。
「遅かったね、待ちくたびれちゃった」
背景にお花畑でも背負っているかのような穏やかな空気と耐えることのない笑顔。
そしてそれに反してむっとした顔をしているボーイッシュな女の子。
「もー! 麻妃くん達、遅くない?」
左手を腰に添えて、右の人差し指を揺らしながら、もーもー言いながら拗ねているご様子の女の子。
「もーもーうっせーんだよ、この牛女」
「牛女ってなによ、女装癖! ちょっと女装したら美少女だからって何でも言っていいと思ってるんでしょ!」
言わずもがな、夕之助と最も不仲の五月であった。
「……で、なんで高山と源さんがいるんだ?」
高山はにっこり笑って椅子から立ち上がり、部室に入ってきた麻妃達に歩み寄る。
「紫乃ちゃんがきみの妹になるわけだ。つまりきみは僕のおにーさんになる」
そして手を差し伸べた。
「聞けば、ここは家族らしいことをする部活というじゃないか。是非、交ぜて欲しいな」
「は、はぁ……え? えええええっ!?」
麻妃は流れに流され、手を握ってしまってその言葉の意味を理解する。
「五月ちゃんもお世話になっているみたいだし、みんな家族みたいなもんだろう?」
「そ、そうなの?」
「しらねーよ、俺に聞くな」
夕之助に助けを求めたが、助けてはもらえなかった。
「ま、よかったんじゃねーの? おまえ好きだろ、兄扱いされんの」
夕之助が小馬鹿にしながら言うと、意外な人物が名乗りを上げた。
「……深夜?」
麻妃の腕を引っ張り、子供が駄々をこねるかのように、
「お、おにーちゃんって呼んで、あーちゃんが喜ぶのは私だけなのッ!」
顔を真っ赤にして啖呵を切った。
その無理している感じが凄く可愛くて、必死に自分の腕を引っ張る深夜をそのまま自分の腕の中に抱え込んでしまいたくなる。
しかし何故かそこで対抗心を燃やしたらしいサリーが反対の腕を引っ張って、
「じゃ、あちきはおねーちゃんやるでありんす! ゆーのすけのおねーちゃんだから、あーちゃんのおねーちゃんもやる!」
ちょっと意味のわからないことを宣言した。
むーっと口を尖らせているサリーが一体何にいじけているのか麻妃はわからなかった。わかることと言えば、自分の腕がサリーの胸の谷間に飲み込まれているということ。や、やわらけえ……。
「んじゃー私は真ん中とーっぴ!」
きゃはっ、と笑いながらどう考えてもこの状況に悪ノリしただけであろう五月が、麻妃の両腕で塞がっていることをいいことに、胴体に勢いよく抱きついた。
「なんだよこれ! ちょ、離れろ! みんな離れて、散れ!」
まるで抱っこをねだる子供のように寄ってきた三人を引きはがす。
ちょっとめんどくさい、でも悪い気はしない。騒がしくてうるさい、それも悪い気がしなかった。
後からやってきた二人と同等の扱いをされたことに、すっかり機嫌を損ねてしまっている深夜を見て麻妃は苦笑する。
気付いていない、わけじゃない。
でもそれをすべて肯定するわけにはいかなかった。肯定すれば今の関係が崩れてしまう。
どちらかを選択しなければならない時、麻妃はそっちを選んだのだ。
もしこのまま一緒に過ごして、何かに自分が気付いてしまっても――それでも俺は姉妹とはつきあえない。
「……とは、言い切れないよなぁ」
そんな弱音を呟いて、それでも可愛い妹を兄心とやらで見つめた。
【END】




