(5)-2
「最初はね、普通に一緒に過ごしたよ。友達同士の延長上みたいな同居人。そんな感覚だったかな。妹なんて言われても僕にはわからなかったし、でも一緒に過ごしていく以上は仲良く楽しくやっていこうと僕なりに努力もしたんだ」
でも、と続けた高山の表情はどこか曇っていた。今までの笑顔キャラが嘘かのように申し訳なさそうな顔をする。
「一緒にいれば情が生まれる。守ってあげたい、尽くしてあげたい、笑顔にしてあげたい。もしかしたらそれは兄が妹に抱くものと同じかもしれない。でも……そこで触れたいなんて思ったら、もうアウトだろう?」
麻妃は思い当たる節があり、心臓が矢で串刺しにされたような、逃げ場のない痛みを感じた。
「まあ……僕が男として駄目だったのかもしれないけど。赤の他人同士、突然家族にされてやっていけるものなのかな。血の繋がりってバカにならないんじゃないかなって思うよ」
この学校自体を批判するようなことを述べ、高山はまたいつもの安っぽい笑顔を浮かべた。
「だから僕はお互いが幸せになれる結末を選択したんだ」
「お互いが幸せになれる結末……」
麻妃が復唱するのを見て、高山は言うか言うまいか悩み、しかし決断する。
「オフレコにして欲しいんだけど」
「え?」
「僕が起田くんに喧嘩を売ったのは小野さんを妹にしたいからじゃない。紫乃の為だ。でも小野さんの同意は得ている。その意味が起田くんにはわかるね?」
似たようなことを夕之助も言っていた気がするが、最後のおまえってバカ? の印象の方が強すぎてよく覚えていなかった。
「目的が同じだからだよ」
「目的が……同じ?」
「起田くんと縁を切ってまで彼女がきみとどうなりたいか。……わかるね?」
「――――」
言葉足らずの夕之助とは違い、彼は丁寧にわかりやすくヒントを与えた。
「それって……!」
麻妃がそれについて問う間も与えず、高山は背を向けて来た方向へと走り出していた。
麻妃は魂が抜け落ちたかのように、その場に呆然と立ち尽くす。
それってつまりあれだろ?
「嘘……だろ」
彼女の言う“兄として見ていない”の真意が見えてしまい、麻妃の頭は更に混乱へと突き落とされた。
嬉しいのか、ショックなのか、恐らくどっちもだろう。
そう考えた時、彼女との関係性を思い出す。
自分の中にはない、彼女の中にだけ刻まれている、昔の二人の思い出達。
昨日今日会って、彼女がそうなったとは思えなかった。自分に思い出させようとしてくれていた行動の数々を思い浮かべる。
もしかしたら――
自惚れでなければ、彼女は、ずっと、自分の知らない過去から……。
「……って、ここで突っ立ってる場合じゃなかった!」
麻妃は自分の両頬をぱちんぱちん、と何度か叩く。
もしそうであっても、そうでなくても、今は目の前のことに集中しよう。
右手の中にあるエアガンを握り締め、高山を追った。
出た瞬間、彼女をからかうように風が吹く。
深夜は両手でスカートを抑え、中が見えてしまうのを防いだ。その場には誰もいないが、それでも下着を大公開するほど男勝りではない。
深夜は一度一階に降り、廊下を突っ切って、突き当たりの階段を上りきったのだった。
屋上に出た深夜は周囲を窺いながら、向かい側の出入り口に向かって歩き出す。相手の位置を把握出来る以上、一カ所に止まるわけにはいかないのだ。
「!」
無駄に広い屋上のど真ん中にきた時、向かっていた出入り口に人影を発見する。
もちろん今校内には自分と麻妃、そして高山達以外にはいない。いたとしても家族評議会の人間か教師だろう。つまりこんな所にいるはずがない、ということだ。
深夜は足を止め、様子を伺う。もちろん場合に寄っては、逃げるか避けるかしなければいけないので、全身が緊張で強ばっていた。
「見つけた」
「……あんただけなの?」
出入り口から姿を現したのは紫乃だけである。
「安心した?」
「別に」
悪戯に笑ってみせる紫乃に無表情で答える深夜。
「こっちに来なさいよ。あなただって負けた方が都合いいんでしょ?」
紫乃は短い髪を耳にかける素振りをして、余裕ある態度で言い放つ。
「あんたには関係ない」
深夜はそんな紫乃に怯む様子はなく、いつもより大きな声ではっきりと物申した。
「関係なくないわ。私と涼平の問題だもの」
「それこそ関係ないじゃない。私は男の方と話をつけただけで、あんたとは話してないから」
「……いちいちめんどくさい女。だからふられちゃうんじゃない?」
紫乃が挑発的に言うと、深夜はまんまと挑発にのってしまい、顔を真っ赤にする。
「うるさいっ!」
「だってどう見ても女として見てないじゃない、あれ」
「うるさいって言っ……」
麻妃の言葉に紫乃が被せる。
「好きだったらとっくにわざと負けてるでしょ。よっぽど可愛いのね、妹として」
紫乃は麻妃にリングを外された足首を指しながら、わざと“妹”を強調するように言う。
「あんたにはわからない」
出会ったばかりで、すぐに好きあえるような関係のあんた達にわかるはずがない、と深夜は喉まで出かかったが引っ込めた。
築いた関係が長ければ長いほど、深ければ深いほど、そう簡単にはいかないのだ。
麻妃には記憶がない。ならば初対面として近寄ることも出来ただろう。しかしそれをやってしまったら、過去を、大事な思い出を、すべてなかったことにしてしまうことになる。消し去ってしまうことになるのだ。
深夜はそれだけはしたくなかった。
今も昔も麻妃にとって自分は妹のような存在で、それ以上のポジションではない。そんなことわかっている、わかっているけれど……。
「なに? 叶わないならいっそ妹として側にいるのもありかな、なんて気持ちが揺らぎでもしたの?」
素っ気なく言って、紫乃は深夜に向かって駆けだした。
深夜も負けじと瞬時に振り返り、元来た方向に走り出す。
――と、チャイム音が鳴る。
二人の追いかけっこにBGMでもつけるかのように、静まりかえった校内でうるさく響く。
最終下校予鈴だ。次の本令がなるまでに部活動は着替えや片付けまで終えて校内を出なさい、という合図である。
しかし今は違う。深夜にとって、麻妃との待ち合わせのチャイムだ。
後ろから紫乃が何か言っているが、振り返ると遅れをとってしまう。深夜は努めて振り返らず、とにかく走った。
階段を飛ぶように降り、廊下を走り、中央階段の前を通過――何のプレートもない、無の教室。それこそが現在部室として使われている、団欒部の部室だ。
深夜はもう限界だった。決して運動神経がずば抜けていいわけではない。
息を切らし、肩で呼吸しながら、すがるように部室のドアに手をかける。
「あーちゃん!」
扉が開いた瞬間だった。
またあの電流が体に流れ込み、その発信源が足首だったというのもあって、膝を折って座り込んでしまう。
右の足首からリングが外れ、開放される。
「……なんで?」
部室で待っていたのは麻妃ではなく、エアガンを構えた体勢の高山だった。
深夜の顔から希望が抜け落ち、絶望へと変化していく。
「りょうへぇっ!」
その姿を見つけた紫乃が飼い主を見つけた子犬のように、深夜を通り越して高山にすり寄っていく。
「喧嘩相手の下調べぐらいはしてあるんだ。ここ、小野さん達の部室だよね?」
高山は返答を待たずして、左足首を撃つ。
「……んんっ」
流れる電流に耐え、声を押し殺す深夜。
残すリングは後首だけ。守備するにも方法がなく、逃げるにも立ち上がれない状態だ。
「深夜! ごめ、遅くなった!」
やっと待っていた声がして、絶望的だった状況にかすかな光が灯ったような気がした。
深夜は麻妃の声に歓喜し、振り返って――しかしそれはやはり、気がしただけ。
「ごめんね」
高山の笑顔の消えた顔と、申し訳なさそうな一言と、目を見開いた深夜の顔が麻妃の目に焼き付いた。
時の流れがそこだけスローモーションになったかのようで。
――深夜の首からリングが外れた。
「あーちゃん!」
校舎から出てきた麻妃達を出迎えたのは、待っていたサリーと夕之助、そして五月だった。
サリーは名前を呼びながら麻妃の元へ一直線に駆ける。
「お疲れ」
夕之助はそれ以上は何も言わなかった。二人の様子を見れば結果なんて聞かなくてもわかっている。
「どうだったの? 勝った? 負けた?」
……というのに、空気を読まず直球で問いかける五月に、
「おまえほんと読めないな」
軽蔑の視線を送る夕之助。
「読めないってなにがよー」
「読めない奴には見えないものだよバカ。バカは二人もいらねーんだよ」
「なによ、もう! いちいちむかつく女装男だなぁ!」
二人が睨み合っているのに気付いた麻妃が苦笑しながら、まぁまぁ、と嗜めた。
「結果は負けだったよ。最終決定は家族評議会とお父様方との話し合いで下されるらしい。もちろんこの勝負結果を考慮しての最終判断になるだろうってさ」
「ふーん、そなんだ。喧嘩させといて最後のいいところは上が持ってくってわけかぁ」
「最後は結局親が判断する、ってことなんだろ」
夕之助がつまらなそうに突っ込んだ。
五月の興味はその話題から深夜へと移り、すっかり気落ちしている彼女を見た。
「ねっ、何でそんなにへこんでるのー? 望みが叶ったのに」
深夜の顔を覗き込んで言う五月の首根っこを夕之助が引っ張る。
「もうおまえ黙ってろ。ほら、行くぞ。サリーも」
名前を呼ばれたサリーは麻妃を見上げ、名残惜しそうにする。
「なんでそんな顔すんの。また後で会えるって」
麻妃は笑ってサリーの背中を軽く押した。
「じゃあな、俺達は先に帰るぞ」
言って夕之助は嫌がる五月の腕を引っ張って、先に歩いていく。
「……鞄、取りに行って俺達も帰るか」
深夜は小さく頷いた。
それを確認してから二人で一旦教室に戻ることにする。
校内は不気味なぐらい静かで、兄弟喧嘩が行われたのもあって人気が全くない。
すっかり日が暮れてしまい、廊下も真っ暗だった。
日中あれだけ騒がしい廊下、日当たりの良い中央階段の踊り場、活気溢れている各教室……すべてに生気がなく、まるでお化け屋敷のようだ。
「どうした?」
いつも隣を歩いていても少し距離をとって歩く深夜が、異様に近づいて歩いているような気がする。
「ああ、怖いんだろ?」
麻妃が戯けた調子で言うと、
「こ、怖くなんかないっ!」
子供がやせ我慢しているような震えた顔で言うので、麻妃は安心させるような一言を言ってやる。
「大丈夫だって。心配すんなよ。……お、俺も充分怖いからな」
こ、怖いのはおまえだけじゃないんだぜ!
近づいてきて自然と触れた深夜の手を力強く握り締める。
だ、だって怖いんだもん!
怖いのも二人いれば怖くな……くなんかねえええええ!
「さ、さっさと鞄とってこようぜ」
二人は歩く速度をあげて教室に向かい、着いた途端に電気をつける。
電気が着くだけで、なんだかほっとするので不思議だ。
そのまま自分の机に向かって鞄をとり、また入口に戻る。電気に手を翳し、消す準備をしながら深夜を待った。
「……今日はごめん」
深夜は鞄に教科書を詰めながら、独り言のように口にする。
「ごめんって?」
「巻き込んじゃって」
「ん、あーいいよ別に……」
あの喧嘩自体は麻妃にとってどうってことない。それよりも、なによりも――
「もう今日で終わりなのかな、兄妹ごっこ」
麻妃は場を重苦しくしない為にわざと“ごっこ”をつける。もちろん今までごっこだとは思ったことはないし、本気で兄らしくなりたくて、兄と妹のような関係を築きたくて頑張っていたつもりだ。
「わからない。でも多分」
「まだ始まったばかりだったのになあ。あはは」
痛々しく笑う麻妃に、深夜はかける言葉が見つからなかった。
「もしそうなっても……」
麻妃は言葉に詰まった。深夜は顔を上げ、鞄から麻妃に視線を移す。
今の気持ちを、思っていることを、正直に彼女に伝えるべきだろう、と麻妃は思う。
明日下される結果がどんなものだっても、後悔だけはしないように。
縁がなくなっても、これだけは確かだと。
「俺はおまえの側にいたい……かな」
深夜の大きく見開いた目が、瞬きを忘れて麻妃だけを見つめる。
「なんていうか、きっとそうなったら一緒にも住めないだろうし、学校と部活でしか会えないしさ」
麻妃は照れくさそうに頭を掻いた。
自分にはわからない、わからないけれど、わかってやろうとすることは出来る。
一度自分と別れを経験している深夜の気持ちを。
繋がりがなくなれば、少なからず遠く感じてしまうだろう。まして衣食住を共にしていたのだから尚更だ。
深夜は止まった動きを再開させ、鞄を持って麻妃の元へ向かう。
「ど、どうした?」
そして目の前で立ち止まり、俯いたまま固まってしまった。
もしかして泣いているのだろうか?
麻妃はそっと頭に手を添え、優しく包み込むように撫でた。それがスイッチとなったのかもしれない。
「んうぉっ!?」
腹に頭突きでも入れるのかよ、というような勢いで、深夜は麻妃に抱きついた。
小柄で小さな深夜の顔は、丁度麻妃のお腹に埋もれている。
小さくて短い手を一生懸命背中に回し、ぎゅうっとしがみつく。そしてたまに聞こえるじゅるじゅるという鼻をすする音。
……鼻をすする音? おい、人の制服で拭いてんじゃないだろうな。
麻妃は何か言葉をかける代わりに、深夜の頭を撫で続けた。
「……もうどこにも行かないで」
蚊の鳴くような声で。
「もういなくなったりしないで」
次は感情のこもった、はっきりとした声で。
深夜は麻妃に訴えかけるように言った。
ずっと言いたかった、言えなかった、気持ちと想いを込めて。
あの日いなくなったのは深夜の方だったが、記憶と共に遠くへ行ってしまったのは麻妃の方だった。
自分の身近な存在が、大事な存在が、もし突然記憶を失ってしまうというのはどういう気持ちなのだろう。
そんなもの麻妃には計り知れなかった。
「もうどこにもいかないから」
その言葉で彼女を安心させることが出来るなら、いくらでも言ってやる。
麻妃は頭を撫でながら、自分のなくした記憶と自分自身を悔やんでも悔やみきれなかった。




