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(4)-1

「し、仕方ないよね。ほら、起田くん……記憶喪失で……」

 そう、そのたった一言で。

「記憶喪失?」

 今まで黙ってただの観覧者でいた夕之助が口を挟んだ。

「う、うん……起田くんは……」

 言っていいのか悪いのかわからず、五月は返事を求めて麻妃に視線を送り続ける。

「記憶喪失ってどういうこと」

 そんなの聞いてない、とでも言いたげに深夜が強い口調で麻妃に問いただす。

「ねえ!」

 答えずにいる麻妃を急かす深夜。

「……自分でもよくわかんないんだって」

 麻妃は蚊の鳴くような声で吐き捨てるように呟いた。

「何を忘れてるのかも忘れてるんだぜ。なにもわかんないんだよ」

 麻妃もまた強い口調で言い返した。

 言いたくなかった、こんなこと。言わずにいたかった、こんなこと。

 麻妃はぐっと歯を食いしばり、みんなから顔を逸らした。

「記憶喪失なんだよね、俺。……なんて別に言うようなことでもないだろ」

 余計な心配を煽りたくなかったし、そういう目で見られるのも嫌だった。新しい生活を初めていく上で新たに思い出を刻めばいいかな、ぐらいに楽観視していたからだ。

 それがまさかこんなことになるなんて……。

 今にも泣きそうな顔をしている深夜を見てしまっては、もうどうすればいいか麻妃にはわからなかった。

 覚えていない申し訳なさと、覚えていない自分への歯痒さで、身を引き裂いてしまいたかった。どうして燕五月のことは覚えているのに、深夜のことは覚えていないのだろう。

 これは燕五月のように“忘れている”という感覚ではない。自分の中には深夜がおらず、掘り起こす記憶の破片すらないのだ。

「ご、ごめん……なんかごめんね、ほんと」

 重苦しい空気が漂い、さすがに自分の失言に気づいた五月はみんなと顔をあわせることが出来ず、ただただ謝り続けた。

 沈黙が重くのし掛かり、誰もが息をすることさえ苦しく感じる。

 麻妃を心配しているのか、サリーが麻妃の制服の裾をくいくいっと引っ張る。くぅん、と今にも鳴きそうな子犬のような顔で、言葉に出来ない今の気持ちを精一杯表現しようとしていた。彼女なりに今の状況下で麻妃を思いやっているのである。

 出来るだけ不安を煽らないように笑顔を返した麻妃だったが、それは作り笑顔にしかならなかった。

 そんな空気の中で夕之助が最初に口を開く。

「そういうことか」

 何かに納得した様子の夕之助は深夜の方を見ながら、ぼそっと呟く。

 沈黙を破ったその一言の威力は凄まじい。そこにいる誰もがその言葉の続きを待ちきれなかった。

「そういうことって……どういうことだ?」

 あたかも自分はこの状況を理解しているといわんばかりの態度と台詞に、麻妃はあまりいい気がせず、しかめっ面で問いかけた。

 夕之助は答えず、深夜に冷ややかな視線を送り続ける。

 おまえから言え、と言わんばかりに。

 その容赦なく突き刺すような視線と圧力を感じながらも深夜は躊躇っていたが、沈黙と静寂が深夜以外の発言を許さなかった。

 誰もが深夜を見ている。

 深夜はぐっと歯を食いしばり、小さく息を吐く。今にも猛獣のごとく暴れてしまいそうな感情を頑丈な牢獄に抑え込み、平然という脆い硝子の仮面を無理矢理被って――

「最初からおかしいと思ってた」

 息を吐くように囁いた。

「……え?」

 麻妃は何がなんだかわからないといった様子で、ただただ深夜を見つめ続ける。

「あの日……初めて自己紹介してきた日。もしかして大人になって気づかないのかなって思わないぐらい、初対面の人を見る目をしていたから」

 深夜は目を伏せて、続ける。

「許せなかった、すごく許せなかった。それでもきっと思い出してくれるって、ずっとジャージで過ごしてみたり、あんたの好きだった食べ物作ってみたり、少しだけ希望を抱いたりなんかして」

 優しい声に怒気を混ぜて、必死に溢れる感情を制御しながら。

「でも一緒に過ごしてわかったの。完全に忘れてしまってるんだって。すべてなかったものになってるんだって」

 それでも悔しさだけはどうしても溢れかえってしまう。

「どうして忘れちゃったの? 全部忘れちゃったの? 全部? ねえ全部なの?」

 責められているのに、悪いのはすべて自分なのに。

 今、頬を伝う涙はそんな深夜への申し訳なさでも怒りをぶつけられたことへの申し訳なさでも、どれでもない。

 わからない何かの涙が勝手に零れ落ちてきているのだった。

 麻妃は俯いて、顔をあげることが出来なかった。

「なんでなの、あーちゃん……」

 それは決してサリーを真似て呼んだわけではない。ずっとずっと前から呼び慣れているような、そんな呼び方だった。

 何も言えずにいる麻妃の背を押すかのように、それ以上何も言えずにいる深夜に加勢するかのように、

「……つまり昔から友達だったんだな、おまえら」

 夕之助が控えめに言った。

 深夜は小さく首を振る。

「兄妹みたいだった。私は当時から妹扱いされるのが嫌だったけど、ね」

 それを聞いた麻妃が顔をあげる。

 泣きそうな顔をして微笑んでくる深夜を見て、胸が引き裂けそうになる。

「ごめん……本当にごめん……」

 謝って済む問題じゃないし、解決するわけでもない。それでも今は謝ることしか自分には出来なかった。

 深夜はきゅっと口を噤み、視線を泳がせて、その先を言おうか迷っている。

「忘れてるのは私のことだけじゃない」

 それを口にしてしまえば、麻妃のショックは何十倍にもなるかもしれないし、何より理解し難いことだろう。それでも深夜は、今言うしかないと判断した。

「いたんだよ、家族。あーちゃんにはお母さんがいたんだよ」

 麻妃は目を剥いて、動くという人としての機能すら忘れてしまったかのように制止した。またしても脳内が白く満たされようとしている。

「お母……さん……が、い……た?」

 深夜はこくんと頷いて、それ以上は口を開こうとしなかった。

 お母さんがいて、深夜がいて、そんな出来事をすべて忘れ去っていて――記憶の破片すらなく、すべては修正液で消された後に、更に破って捨てられてしまっているのだ。自分の中にあるのは新しいノートと同じ。白紙のこれから使う予定のノート。

「なんでなんだよ、なんで……」

 自分が記憶喪失なのは知っていた、知っていたけど……何を忘れているかなんて誰も教えてくれなかった。

 この時初めて自分のどの記憶が喪失されていたかを知る。だからといってその記憶が蘇ったわけではない。

 麻妃はその場で頭を抱えて、目を白黒させながら今にも発狂してしまいそうだった。

 夕之助は机から飛び降り、混乱している様子の麻妃の肩に手を置いて揺さぶる。

「落ち着け、麻妃」

 子供を諭すように言って、優しく包み込むように両頬を両手で覆う。

 すべてを見通してしまいそうな真っ黒な瞳を前に、徐々に平常心を取り戻していく麻妃。

「母親と小野の記憶だけ失ったのはなんでかわかるか?」

 首を横に振る麻妃に、まるで母親が子に言い聞かせるかのように言う。


「それだけおまえにとってかけがえのない大事な存在だったからだろうが」


 ぱしん、と夕之助は麻妃の両頬を叩いた。

「――――」

 言われなければ気づかないだなんて、なんて情けない話だろうか。

 きっといつも抱く違和感の原因はそれで、なによりもなくてはならない大事なものが抜け落ちていたからなのだ。

「だからもう、そんな泣くな。みっともねえんだよバカ」


 そんなことがあった後で盛り上がれるはずもなく、そのまま解散することになった。

 みんなで帰る気分ではない麻妃は「ごめん、先に帰るわ」と言い残して、先に教室を出てしまう。

「あーちゃん、あちきも……!」

 と、サリーが言いかけたところで夕之助が腕を引っ張って首を横に振る。

「なんか……ごめんね、ほんと。こんなことになるなんて」

 五月はなんと言っていいかわからない様子で、最初とは比べものにならないぐらいテンションが落ちていた。

「どうしようもねーだろ、もう起きたことなんだし」

 そんな五月に容赦なく事実をぶつける夕之助。

「そうだよね……うん」

 夕之助はいらいらした様子で五月に近づき、目前で睨み付ける。

「で、つまりどういうことなんだよ。詳しく聞かせろ」

「え? でも……いいのかな、言って」

 いらつきが頂点に達しそうな夕之助は舌打ちする。

「いいも悪いもこんな状況にしたのは誰だよ、てめえだろうが。こんな煮え切らねえまんま帰れっつーのか? あ? ふざけんじゃねえよ」

「坂本くんってさー顔いいのに口悪いよね。あ、女装で有名だから名前ぐらいは知ってたよ!」

「て、てめえ……こんな状況の時にぃ……」

 どこまでも一言多い五月に殴りかかりたい気持ちを抑えながら、夕之助は続ける。

「記憶喪失ってどういうことなんだよって聞いてんだよバカ!」

「バカってなんなの、バカって。まあいいや。その言葉の通りなんだけどね」

 五月は深夜の方を横目でちらちら確認しながら、言葉を紡いでいく。

「小野さんは途中で転校したから知らないと思う。あの感じだと起田くん本人も覚えてないのかも」

 うーん、と呻りながら五月は語り始めた。

「小学校の卒業式の帰りに交通事故にあったんだって。運良く起田くんは助かったみたいだけど……」

「起田くんは、か」

 夕之助が難しい顔をして突っ込んだ。五月は力なく頷く。

「でも記憶喪失になっちゃったみたい。生活には支障ないみたいだけど」

「あーちゃんは……昔の記憶がないでありんすか?」

「部分的にね。卒業式にお母さん来てたのにお母さん自体がいないことになってたり、小野さんのことだって……ね」

 深夜は五月から目を逸らす。

「だから中学は遅れて入学してきたんだよね。それで時々休んだりするの」

「そういえばあいつ……入学も3日遅れだったよな」

「それそれ。治療してるんだと思うよ。中学の時もそうだったし」

 サリーが夕之助の服を引っ張って、しゅんとした顔で何度も問いかける。

「どうにかならないでありんすか? 記憶はずっと戻らないでありんすか? なにか……なにか出来ないんでありんすか?」

「どうだろうな。記憶はそのうち戻るっていうし、俺らには見守るぐらいしかないんじゃねーの」

「でもでも……でもっ!」

「麻妃の記憶は麻妃のもんだろ。俺らが安易に立ち入っていいもんじゃない。気持ちはわかるけどな」

「だって! このままじゃあーちゃんもおのおのさんもかなしいでありんす!」

 必死に訴えかけるサリーの手を深夜が引っ張って引き止める。

「いいから」

「おのおのさん……?」

「お母さんのことはあれだけど、私のことはもう別にいいから」

 その一言が夕之助の癇に障ったようで、

「この期に及んでまだそんなこと言うわけ、あんた」

 サリーの手を引っ張り、自分の方に引き寄せる。

「おいサリー、脱げ」

「すっぽんぽんになるでありんすか?」

「そうだ。麻妃の前で脱いで、慰めてやってこい」

 夕之助は悪戯な笑みも不適な笑みも浮かべてはおらず、真顔でそう言った。

「もういいんだろ、過去捨てても。あいつが誰とどうなろうと妹のおまえにはどうしようもないしな」

「…………」

 夕之助は深く長い溜息をつき、その場で脱ごうとしているサリーの頭を一発殴る。

「出来ない嘘はつくんじゃねえよバカ。なんて顔してんの?」

 深夜は本音を隠せずにいた。それが顔に出てしまっており、夕之助にそこをつかれてしまう。

「んー? あ、そういうこと? もう小野さんの顔がノロケにしか思えないよね」

「てめえは喋るな! 一生喋るな! つーかもう帰れよ!」

 一気に空気を凍らせて人を怒らせることに関しては、五月は天才といっていいだろう。

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