(3)-2
「暗くて危ないし、俺ついていくよ」
公園内とは言え、色んな花見客で賑わっている。女の子一人で夜道を歩かせるわけにはいかないだろう。まして自分のペアなのだ。最も守るべき存在である。
深夜は首を横に振るが、
「いや危ないって。やっぱついて……」
「いい」
麻妃の声に重なるようにして、深夜が拒否する。声を出してまで断るということは、それだけこないで欲しいということかもしれない。
拒否されたことにショックを隠しきれない麻妃だったが、
「……すぐ戻るから。大丈夫」
そんな麻妃をフォローするかのように、深夜が一言付け加えた。
「そ、そうか、わかった。気をつけろよ」
麻妃は渋々承諾し、再びビニールシートの上に腰を下ろした。
それから数分後。
ペットボトルに口をつけたまま微動だにしない麻妃は、
「そんな心配なら見てくればいんじゃね?」
夕之助に半ば呆れた顔で言われてしまう。
自分では普通にしているつもりだったが、やっぱり心配なものは心配なのだ。
「そう……だよな」
でもあんなにはっきりと拒否されたのに、迎えになんか行ったらうざいとかしつこいとか思われないだろうか。
「今すげー女々しい顔してるぞ、おまえ」
語尾にきんもーと付け加える勢いではっきりと物申す夕之助。
「えー? あーちゃん、女の子になるでありんすかぁ?」
底なしの胃袋の持ち主がからあげを口いっぱいに頬張りながら言う。うん、これは無視していいレベル。
「女の一言に一喜一憂してんじゃねえよ。まして妹だろーが。行きたきゃ行きゃいんだよバカ」
なにやらイライラしている様子の夕之助は、寝転がったまま麻妃を足蹴りにする。
「ほらほらほらほらー」
「わ、わかったって! ちょっと行ってくるから蹴るな!」
しつこく足でぐりぐりされるので、麻妃はそれを避けるようにして立ち上がる。それを見たサリーが目に星屑が宿ったかのように輝かせながら、
「あちきも一緒に……」
と、言おうとして夕之助にペットボトルを投げ付けられた。
「おまえは俺と留守番すんの。わかったか?」
「むー」
また喧嘩が始まりそうな雰囲気だったので、麻妃は二人を尻目に逃げるようにしてトイレに向かった。
やや離れた場所にあるせいか騒がしかった声も遠くなり、トイレに近づいていくにつれて、まるでそこだけ隔離された場所のようだった。虫の音が不気味に響き渡っている。
それだけで麻妃の気分はあまりよくない。夜、こんな場所に女の子一人で出向くのは芳しくないからだ。
ほとんどといっていいほど人気がなく、考えたくないが成人男性が女の子一人無理矢理連れ去るなんてたわいないだろう。
次第にトイレらしき建物が見えてくる。月明かりだけが頼りといった程に、周囲には何もなく電灯も途中で途切れていた。異空間の入口に迷い込んだかのような感覚にさえなる。
「……しんやー?」
麻妃は近づくに連れて、控えめに深夜の名を呼ぶ。
ここに辿り着くまでに遭遇していないので、まだトイレにいることになるのだ。もし最中だったら悪いので名前を呼ぶか一瞬躊躇ったが、それでも心配な気持ちだけが先走り、名前を呼ばずにはいられなかった。
しかし返事は返ってこない。
もしいたとしても深夜が返事をするわけがないのだが、どうしてもこの嫌な予感を拭い去りたくて何度も呼んでしまう。まるでいなくなった飼い犬を探す子供のように、必死になっている自分がいた。
「おーい、深夜。まだいるのかー?」
トイレに到着し、入口で小声で名前を呼びながら周囲を見渡す。
その時、ジャーという水洗トイレの流れる音がした。その音が異様に大きく聞こえて、麻妃は振り返って女子トイレに視線を吸い取られる。
もう出てくるだろう、と壁に寄りかかって待っていたのだが一向に出てくる気配がない。
いぶかしんだ麻妃が聞き耳を立てると中から聞こえてきたのは、ドアの開く音でも、手を洗う水の音でも、ない。その代わりに聞こえたのは――
「……深夜? おい、深夜! いるんだろ! どうした!?」
ドンドンドン、という壁を叩くような音だった。それもノックというレベルではない。必死に誰かに訴えかけるような音と、何かが壁に無理矢理押しつけられて起きたような音だ。
壁に? 何が?
そんなもの、考えずとも一つしかない。
次に聞こえた、ドンッ! という音にあわせて自分の心臓も跳ね上がった。興奮しているのか、怒気がみなぎっているのか、不安に我を失いかけているのか、麻妃はもうなにがなんだかわからなかった。
「おまえ……!」
夢中で女子トイレに駆け込み、目標に向かって勢いよく全身全霊で体当たりした。
もちろん自分なんかが成人男性を相手に力で敵うわけがないし、喧嘩が強いわけでもない。それでも後先考えず、気づけば体が先に動いていて。
相手が酔っぱらっていようとなんだろうと、もうそんなのは関係ない。
「深夜になにしやがったッ!」
自分でも聞いたことのないような低くドスのきいた声で、猛獣が呻るように口を開いていた。
小さな体を更に小さくして、目に零れんばかりの涙を溜めて震えている彼女を見てしまったら……もう止められない。本能が理性というリミッターを無理矢理解除し、思考より先に体を動かすように指令を出す。
握り締めた拳が鋼のように硬く、炎を灯しているかのように熱い。
麻妃は拳を振り上げ、目標に向かって振り下ろそうとして――
「……な!?」
予想外の人物に振り上げた腕に抱きつかれ、動きを封じられてしまう。
深夜はぎゅっと腕に抱きついて首を左右に振った。何度も、何度も、首を振った。
麻妃が闇に囚われてしまわないように、自分のために自ら手を汚してしまわぬように、必死に阻止したのだ。
「わかった、わかったから……」
泣きながら自分の腕にしがみつく彼女を見て、麻妃ははっと我に返った。
それでも今自分がしようとしたことは間違ったことだとは思わない。こんなに誰かを守らなきゃと思ったのは初めて……初めて?
麻妃はそこに違和感を抱く。
深夜を守らなきゃと思ったこの気持ちは、きっと初めてなのに初めてな気がしない。これは一体なんなんだろうか。
深夜にかける言葉が見つからず、麻妃は手を握り締めて飛び出すようにしてトイレを後にした。
「……大丈夫か?」
とりあえず電灯の下にあるベンチに座り、麻妃は隣にあった自動販売機で水を買って渡す。深夜は水の入ったペットボトルを受け取り、握り締めたまま俯いてしまった。
「どっか痛む?」
麻妃は隣に掛け、顔を覗き込むようにして何度も問いかけた。
深夜が答えないのはわかってるが、それでもこんな時に返答がないと不安が加速してしまう。そんな自分の不安も取り払いたくて、答えないとわかっていてもしつこく話しかけたのだった。
「…………い」
虫の音に掻き消されるぐらいの震えた声で、深夜が口にする。
「え?」
何か聞こえた気がして麻妃が深夜に目を向けると、ぎゅぅっと小さな拳をふとももの上で握り締めていた。その拳の上に降り注ぐ小降りの雨は一体何を意味しているのか――麻妃は自分も泣きそうになりながら、深夜の次の言葉を待つ。
「嫌い……嫌い嫌い嫌い……大嫌い」
それははっきりと聞こえる憎しみのこもった声だった。
「男なんて……男なんてみんな汚い! 大嫌いッ!」
今までの深夜からでは考えられない声量で叫び、ペットボトルを地面に叩き付けた。
それは今し方の出来事だけを指すようには到底思えない迫力だ。
深夜は、はぁはぁ、と肩で呼吸しながら続ける。
「ほらね、男のせいでみんな壊れてく……お母さんだって……」
言って、深夜は余計なことを喋ったと言わんばかりに口を噤んだ。
「お母さん?」
しかし麻妃は問わずにはいられなかった。深夜を苦しめている“何か”を知りたかったからだ。
真っ直ぐな目を答えるまで逸らしそうにない麻妃に観念したのか、深夜は躊躇いながら再び口を開いた。
「うちね、離婚してるの。お父さんが浮気して」
深夜は地面に叩き付けられたペットボトルを拾い上げ、撫でるようにして砂埃を払う。
「それで大好きな街も引っ越すことになっちゃって。嫌だった、凄く嫌だった、本当に……嫌だったの。それと同じぐらい壊れていくお母さんを見るのも嫌だった」
重苦しい空気を入れ替えるかのように、涼しい風が二人の肌をなぞっていく。
「そんなお母さんさえも男が出来て、私を置いてどこかに行っちゃった」
深夜はせせら笑いながら、ベンチに背中を預けて空を仰いだ。
「浮気して出て行ったお父さんには浮気相手との新しい家庭があって、男が出来たお母さんにも新しい家庭が出来て……その間に生まれた私はいらない子になったんだ」
「……いらなくはないだろ」
黙って聞いていた麻妃は、そこだけは否定せずにはいられなかった。深夜はいらない子なんかじゃない。少なくとも今の自分にとってはいなくてはならない、いて欲しい、大切な一人である。
「いらないよ」
「いらなくないってッ!」
麻妃はつい感情が高ぶって、語気を荒げてしまう。
「ご、ごめん」
言ってすぐに我に返って反省すると、深夜は優しく微笑んで首を振った。
「変わらないね、麻妃」
「え……?」
深夜は立ち上がり、来た道を向く。
「今、なんて?」
「んーん、なんでもない」
初めて名前を呼んでくれたことが何よりも嬉しくて、この時麻妃は大事なことに気づけずにいた。
歩き出した深夜を追うように、麻妃もベンチから腰を浮かす。
「私が男と喋らないのは男が嫌いだから。喋れないんじゃないの、喋りたくないの」
「そ、そうか……なんかごめん」
追いついて隣に並んだ麻妃が叱られた後の犬のようにしゅんとする。
「なんであんたが謝るの?」
「いやほら、俺も男だしさ」
深夜はどことなく嬉しそうな顔をして、しかしそれを麻妃に悟られないように澄ました顔を作り出し、
「あんたは嫌いじゃない……かな」
「え!?」
さっきまでしゅんとしていた犬が餌を前にして、急に尻尾を振ってご機嫌になるかのように、麻妃の表情はぱあっと明るくなる。
「でもぜったい兄だなんて認めないけど」
「えー……」
ぬか喜びさせられた麻妃は、また尻尾をしならせるはめになるのだった。




