壁の向こうで何かがなる…
壁の向こうから聞こえたもの
S玉県南西部、A坂台駅から歩いて数分。
地域密着型コミュニティFM局、FMあさかぜ。
日曜日の午後。
局内では、昼の生放送番組『サンデーヒルズ』が放送されていた。
パーソナリティは4人。
その1人が、チャタニだった。
初老の大柄な男性で、この地域ではちょっとした有名人だ。
休日には子ども食堂を運営している。
気さくな人柄で、特に目立ったトラブルもない。
そんなチャタニだったが、この日は朝から少し調子が悪かった。
前日の疲れが残っている。
食欲もあまりない。
胃のあたりが重く、何度か水を飲んでいた。
それでも本人は、いつものように局へ来ていた。
13時ごろ。
「ちょっとトイレ行ってきます」
そう言って、チャタニはスタジオを出た。
男性トイレに入り、洗面台の前に立つ。
そのときだった。
「……ピィーン」
壁の向こうから、かすかな音が聞こえた。
チャタニは顔を上げた。
電子機器が発する音のようだった。
しかし、電子音にしては妙に長い。
少し間を置いて、
「……ん~~……」
低く、細い音が続いた。
「……なんだ、これ」
チャタニは壁を見る。
向こう側は女性用トイレだ。
何か音がすること自体は不思議ではない。
だが、この音は妙だった。
電子音のようでいて、どこか人の声にも聞こえる。
「……ピィーン……」
また聞こえた。
チャタニは眉をひそめた。
気にしなければいい。
そう思った。
ところが、気にしないようにすると、かえって耳に入ってくる。
「……ん、ん~~……」
チャタニは洗面台に手をついた。
胃のあたりが、さらに気持ち悪くなってきた。
朝から調子が悪かったせいだ。
そう思おうとした。
だが、額に汗が浮かぶ。
「……ちょっと、まずいな」
壁の向こうから、また音がした。
「……ん~~……」
チャタニは立っているのがつらくなり、洗面台に体重を預けた。
視界が揺れた。
そして、そのまま床に崩れ落ちた。
*
13時05分。
『サンデーヒルズ』は、何事もなかったかのように続いていた。
「チャタニさん、ちょっと長くない?」
曲の合間に、パーソナリティの1人が小声で言った。
「そうですね……」
別の1人も時計を見る。
チャタニが出ていってから、5分ほど経っている。
普段なら、とっくに戻っている時間だ。
「スタッフさんに見てもらったほうがいいかも」
そのころ、局の入口が開いた。
「お疲れさまです」
大峰和樹だった。
15時から放送される『MOショー』の出演者である。
この日は午前中の仕事が予定より早く終わったため、いつもより早く局へ来ていた。
昼食をまだ済ませていなかったので、局の向かいにあるコメリハートで軽く食べるものを買ってきたところだった。
「今日は早いですね」
「前の仕事が早く終わっちゃって」
スタッフと挨拶を交わし、大峰は時計を見た。
13時05分。
「ちょっとトイレ借りますね」
そう言って、男性トイレへ向かった。
*
男性トイレの扉を開けた大峰が、足を止めた。
「……え?」
床に、大きな体が倒れている。
「チャタニさん!?」
大峰はすぐに駆け寄った。
「チャタニさん、大丈夫ですか!」
呼びかけても反応がない。
そこへ局員も駆けつけた。
「どうしました?」
「チャタニさんが倒れています。反応がありません」
大峰は携帯電話を取り出した。
「救急車、呼びます!」
局員と状況を確認しながら、119番へ連絡する。
男性、初老。
FM局内の男性トイレで倒れている。
意識がない。
必要な情報を伝える。
「救急車、向かっています」
大峰が電話を切った。
局員とともに、救急隊が到着するまでの対応を続ける。
そこで大峰は、スタジオのほうを振り返った。
まだ『サンデーヒルズ』の生放送中だ。
チャタニが倒れたことを、出演者にも知らせなければならない。
「俺、スタジオに知らせてきます」
*
スタジオでは、チャタニを探しに行こうとしていたスタッフが、状況を確認できずに戻るのを待っていた。
そのとき、ミキサー卓の近くにあるプロンプターの表示が切り替わった。
『キューシートを急遽変更します』
『予定していた曲を繰り上げて流してください』
パーソナリティたちは顔を見合わせた。
生放送中だ。
理由を確認している暇はない。
「では、ここで1曲お送りします。笹原弘子で『そらへ』」
曲がスタートした。
音楽がスタジオに流れ始める。
そのタイミングで、ドアが開いた。
「すみません!」
大峰だった。
「チャタニさんが、男性トイレで倒れてます!」
パーソナリティたちの顔が強張った。
「救急車は?」
「もう呼びました。向かっています。チャタニさんが居ないがなんとか回してほしいってスタッフさんが…」
大峰はそれだけ伝えると、すぐにスタジオを出た。
曲はそのまま流れている。
スタッフもそれぞれ動き始めた。
生放送を止めることなく、救急対応が進んでいく。
*
数分後。
局の前に救急車が到着した。
救急隊員が男性トイレへ入り、チャタニの状態を確認する。
局員と大峰が状況を説明する。
やがてチャタニは担架に乗せられ、局の外へ運び出された。
ちょうどそのころ、松内ひろみと田中八里が局に到着した。
2人とも『MOショー』の出演者だ。
「お疲れさま……って、何かあったんですか?」
松内が局員に尋ねる。
「チャタニさんが倒れまして」
「えっ」
田中が救急車を見る。
「大丈夫かな……」
『MOショー』では最年少の田中は、不安そうに搬送されていくチャタニを見送った。
大峰も救急隊員に付き添いながら、何度も振り返った。
なぜ倒れたのか。
この時点では、誰にも分からなかった。
*
14時。
『サンデーヒルズ』が終了した。
放送を終えたスタジオには、いつもとは違う緊張感が残っていた。
「急に倒れたっていうのが気になるね」
松内が言った。
「朝から具合が悪かったらしいよ」
大峰が答える。
「持病とか?」
「そこまでは分からないです」
そこへ局員が入ってきた。
「病院から連絡がありました。今のところ、脳卒中などの重い症状は確認されていないそうです」
「じゃあ、何だったんだろう」
田中が首をかしげる。
「毒とか……?」
松内が冗談めかして言った。
「一服盛られたとか?」
「いや、それはないでしょう」
大峰が苦笑する。
チャタニは子ども食堂をやっている。
人付き合いもよく、誰かから恨みを買うような人物でもない。
そもそも、何か事件だったという証拠もない。
結局、話は堂々巡りになった。
*
14時35分。
大峰の携帯電話が鳴った。
「はい、大峰です」
『……大峰さん?』
「チャタニさん!」
病院からだった。
意識が戻ったらしい。
『いやあ……参ったよ』
「何があったんです?」
『それが、よく分からなくてね…』
チャタニは、少しずつ記憶を話した。
朝から体調が悪かったこと。
男性トイレに入ったこと。
そこで、壁の向こうから妙な音を聞いたこと。
「音?」
『そう。なんか変な音だった』
「どんな音です?」
チャタニは少し考えた。
『……こういう感じだった』
電話の向こうから、低い声が聞こえた。
『……ん~~……』
大峰は眉をひそめた。
「……何です、それ?」
『分からん。機械みたいな音だった』
そして、もう1度。
『……ん、ん~~……』
「それを聞いているうちに、具合が悪くなった?」
『そうなんだよ。もともと具合が悪かったんだけど、あの音を聞いてたら、どんどん気持ち悪くなって……』
「女性用トイレのほうから?」
『たぶん、そうだ』
「分かりました。無理しないでください」
電話を切った大峰は、しばらく考え込んだ。
「……壁の向こうから聞こえた音、か」
そのときだった。
ミキサー卓の前に座っていた山野みぞれが、何気なく口ずさんだ。
「……ん~~……」
大峰が振り返る。
「……それ、何?」
山野はきょとんとした。
「鼻歌です」
「いや、それいつも思うけど鼻歌なのか……?」
大峰は山野のほうへ近づいた。
「その鼻歌、どこかで聞いたような……」
「『鼻歌ぽーん』の練習です」
「ああ……」
大峰は固まった。
『MOショー』の定番コーナー。
山野みぞれの鼻歌を聞いて、何の曲を歌っているのかを当てるという企画だ。
ただし、山野の鼻歌は独特だった。
音程は微妙にしかあっていない。
リズムもかなりずれ、一本調子。
本人はいたって真剣なのだが、慣れていない人が聞けば、何の曲なのか分からない。
そして壁を1枚隔てれば――。
それは、まるでどこかの機械が発している電子音のように聞こえる。
「……これか」
大峰が呟いた。
チャタニが聞いた音と、ほとんど同じだった。
山野は首をかしげる。
「そうなんですか?」
「たぶんね」
大峰は苦笑した。
「でも、これが直接チャタニさんを倒したわけじゃないと思う」
朝から体調が悪かった。
そこへ、正体の分からない音が聞こえた。
気になって、不安になって、さらに具合が悪くなる。
その積み重ねが、最後のひと押しになったのだろう。
鼻歌そのものに危険性があるわけではない。
ただ、あまりにもタイミングが悪かった。
松内が山野を見る。
「……あの鼻歌って」
田中が続けた。
「冗談でみんな言ってたけど……本当に体調悪い人を病院送りにするんですね」
大峰がため息をつく。
「……恐ろしい才能だよな」
山野は首をかしげた。
「……そうなんですか?」
その場にいた山野以外の全員が、何も言えなくなった。




